第1話

北大陸南西部に位置するゴルドベルク王国は、約650年の歴史をもつ、大陸における主要な人類国家のひとつである。


その初代国王の名を冠する王都テセウスの中心、シロネ湖に突き出た小さな半島状の地形をほとんど丸ごとひとつ王城としたグレンヴィル城は、かつてそこかしこで繰り広げられた諸侯同士のいさかいや戦乱にも耐えて今に残る王国最古級の建造物であって、特異な立地ゆえに外部からの侵入はもちろんのこと、脱出することも非常に困難な、まさに難攻不落の堅城だった。


そのグレンヴィル城の地下牢に囚われるということはすなわち、恩赦でもない限り永遠にそこで朽ち果てていく運命と、ほとんど同義であった。


楽しみといえば、たまの面会や書物の差し入れ、それすら許されぬ者は嵌め殺しの小さな窓から季節の移り変わりを観察したり、一日一回の粗末な食事を、付き合いの長い鼠やトカゲや虫のお友達と一緒にとることくらいが関の山だった。


そんな地下牢の、寒々しい壁と天井に響く物音があった。いかにも几帳面そうに、整然とした等間隔で、革靴の足音と甲冑が擦れる音とが同調して鳴り響いていた。裾の長いサーコート風の戦闘服に身を包んだ金髪の長髪の男が、看守と思しき鎧姿の兵士に先導されて、不衛生な地下牢の廊下を歩いていた。


長髪の男はずらりと並んだ牢の鉄格子ごしに、収監された者たちの顔を順々に確認していった。囚人たちは、誰も彼も生気のない幽霊のような表情だった。


しかし、進むにつれ、死と絶望に満ちたよどんだ空気をはげしくかき回すような、反抗的な生命を感じさせる物音が彼の耳に入った。そして、今まさに自分が向かおうとしているところが、その物音を立てている本人のところだということを、長髪の男は理解した。はだしの足が石畳の上で跳ねたり擦れたり叩いたりする音、荒い息づかい、断続的に激しく空を切る衣擦れの音。


あるひとつの牢の前で看守は立ち止まった。


そこに閉じ込められた男は、だれもいない空中に向かって拳を素早く、コンパクトに鋭く突き出し、かと思えば身体を大きく屈めたり、ステップを踏んだりと、せわしなく動き回っていた。まるで、そこに見えない対戦相手が立っているかのように、虚空との拳闘を、たった一人で延々と繰り広げていた。


「面会だ!」看守は苛立ったように声をあげた。「またそんなことをやってるのか貴様。騒ぎ立てるなと言っているだろう」


囚人の男は動きを中断した。激しい運動で上気した息を整えながら、額に汗を浮かべて訪問者たちを一瞥した。


190㎝はあろうかという長身のうえ、鋼のように鍛え上げられた古傷だらけの肉体。


いかにも強靭そうな印象を与える男だった。短く刈り込まれた灰色の髪に、頑固者っぽく見える広い額、突き出た鷲鼻。落ちくぼんだ眼は眼光鋭く、真一文字に結ばれた口元にはうっすらと髭が広がっていて、唇から頬にかけて大きな傷があった。一見いかめしい造りの割には肌つやは悪くなく、実際はそこまでの歳でもないことが伺える、よく言えば精悍な顔つきの男だ。


長髪の男は知っていた。いつも不機嫌そうに見えるが、別に実際不機嫌なわけではなく、単にこいつがもともとそういう造りの顔をしているだけなのだ、と。


「久しいな、ラウル」


ラウルと呼ばれた囚人は、額に滲んだ汗を拭いながら答えた。「何の用だ、こんなむさくるしいところまで、お前がわざわざ」


そんなラウルの不遜な態度が気に障ったのか、看守がかみついた。「貴様!たかが一介の元軍人がルイ殿にそんな口を……」


長髪の男――ルイ――は手の甲を看守に向かってひらりと動かして、「ああ構わん構わん」と制し、向こうに行っていろと指示した。


ラウルは牢の奥の壁に背中を預け、そこに座り込んだ。


ルイは腰に手を当てて、少しあきれた様子で言った。「こんな所でさえ鍛錬とはな。らしいと言えばらしいが、脱獄するつもりと疑われても知らんぞ」


「知ったこっちゃねえよ。どうせここは脱獄なんて無理なんだ。それに……」


ラウルは鉄格子越しに、ルイの目を見据えて、言った。「それに、いずれ恩赦が来る。必ずだ。だからそもそも、脱獄しようなんて思う必要もねえよ」


「何故そう言い切れる?」ルイは、この男が何を考えているか、ある程度察していたが、あえて尋ねた。


ラウルは声を潜めた。「……今の、現王の体制は早晩、終わる。せいぜい数年のうちだ。国民は新しい王を迎えて、新しい時代が始まる……」


ルイは目くばせをした。「二度と言うな。そんなことを誰かに聞かれたら、脱獄だの恩赦だのどころか、この場で人生が終わるぞ」


「そうだな。……今、お前に言っちまったが、どうする、報告するか?」


ラウルは傷の入った口の端を歪めて、ルイを見返した。信念のこもった、力強い瞳だった。少なくとも、この牢に囚われている他の連中とは違う。生きながら死んでいくような地下牢の生活のなかでさえ、この男は自分の生を取り戻す未来を信じて疑わないのだ。


少しの無言の時間があった。先に口を開いたのはルイのほうだった。「……せめて、現王『陛下』と言え。不敬だぞ」


ラウルは頭を掻きながら、面倒そうに言った。


「それで? 今日はただの面会か? それだったらジルのやつも連れてきてくれればよかったんだが。最後にあいつが来たのは……半年くらい前か?」


「先月だ」


「まだそんなもんか? そうか。ここにいると時間の感覚がなくなるな」


「ジルさんは……、まあ元気にしてるさ。いつもお前のことを心配してるがな。……今日ここに来た件だが、そのことも関係あると言えば、ある」


「どういうことだ」


「お前はずっとここにいるから知らんだろうが、最近、城下でちょっとした問題が起こっている。『沈黙の死神』の噂だ」


「死神? いきなり何の話だ」ラウルは眉を顰め、訝しげにルイの顔を見上げた。


「……ここのところ、この王都で不審な殺人が続いている。殺しの手口はみな同じ。後ろから胸を深々と二突き。ご丁寧に、左右それぞれの肺を両方とも潰して、そのうえ喉をかき切って、叫び声をあげられないように殺す。だからすぐには気づかれない……ゆえに、『沈黙』だ」


ラウルはルイの話を黙って聞いていたが、その目は、すぐに雑談から『仕事』の色に切り替わった。


「これだけならまあ、ただの狂った変態野郎の通り魔ってことで話が進むんだが……」


「被害者の共通点は」


ラウルの質問は端的だった。余計な付属情報は要らないから続きを言え――と。


「ほとんどすべてのケースで、王国軍の関係者ばかりが狙われている。兵士だろうが、より階級が上の者だろうが、そこの区別はない。しかも軍だけでなく、先日などは我々騎士団の構成員がやられた」


「騎士連中までもが、か? たしかに威張り腐って鼻もちならねえのもいるが、お前も、他の連中も日頃よっぽど鍛えてるだろ。そう簡単に殺せるもんでもねえ。よほどの手練れか」


ルイは淡々と続けた。「――被害者は、大体いつもきまって仕事の後か、非番の日にやられている。例外もあるが、ほぼすべてに共通しているのは、油断して、気が緩んだときにやられたと思われることだ。酒を呑んだ帰りとかな。……もちろん軍も黙っていない。囮を使って、現場を押さえようとしたらしいが、相手はどうにも用心深いやつでな。網を張っても引っかからない。何度か、外部からそれなりの実力者を雇ってみたりもしたようだが――」


「返り討ちにでもあったか」


ルイは頷いた。「だからいよいよ厄介だ。ここまでやられっぱなしで、こっちは死神のしっぽすらつかめていないとなると、メンツの問題もある」


ラウルは冷たい石の壁に背中を預けて、言った。「メンツどうこうを抜きにしても、軍関係者、騎士団員ときて、そのうち貴族連中や王室関係者にすら危害が及ぶかもしれねぇとしたら、問題だろうな。しかし――」


ラウルは前かがみに座りなおして、続けた。「お断りだな。お前の言いてぇことはわかるさ。俺をその死神とかいうやつにけしかけようってんだろうが、そんな義理はねえよ。話を聞く限りじゃどうやら一般人は標的にされてねえようだしな。あのクソみてえな上の連中の命令を無視して、囚人の身に堕ちた俺なんかには関係ないね」


ルイは静かにラウルの顔を見据えた。無骨なラウルと相対すると、鼻筋の通った端正な顔立ちが余計に引き立って見えた。


ラウルはルイとしばらくの間視線を合わせたまま、頭の中で思考を巡らせた。


その事件と、「ジル」との関係は、直接には存在しない。それをルイは「ある」と言った、その意味とは――そして、はっとした。


「おい、まさか……」


「そういうことだ。上の連中はな、お前がもしこの話を拒否するか、受けたふりをして逃亡でも図るようなら、ジルさんの身の安全は保障しないつもりだ」


「てめぇ……」ラウルは怒りに満ちた顔でルイを睨みつけた。「つまりは、すでにジルの身もそっちで確保してやが

んのか。そうでなきゃ俺の行動を縛れねえからな。ルイ、お前そこまで堕ちて――」


ルイは、その反応をわかっていたというような顔で、面倒くさそうに手をかざして、ラウルを制した。


「おちつけ。確かに最初はそういう話だったが、その辺は俺が口添えをした。――たかが囚人ひとりのために、その妹をわざわざ人質に取るだのといった人員を割くほど価値があるのか、とな。そしてそのぶん、お前の監視役を……俺が引き受けた」


「お前が?」


「まあ、昔のよしみということもあるし、お前みたいな単細胞はむしろ御しやすくなるだろうという判断だな」


「むしろ、お前の方が疑われなかったのかよ、そんなの」


訝し気な顔をするラウルに、ルイは無表情で答えた。「おまえと違ってな、それなりに立ち回ってるのさ」


ラウルは、ルイの仏頂面の奥底に、どこかしら誇ったような色を見て取ったので、いったん黙り込んだ。


「……まあ、それだとしても、お前にとっちゃ大切な妹さんが人質にされたことには違いないだろうが、最初に言った通り、ジルさんは本人は今も普通に過ごしているよ。仕事だって問題なくやってる。この状況は何も知らないでいる……その方が、お前にとっても良いだろう?」


ラウルは押し黙って、何事か考えている。


ルイは続けた。「それに、おまけと言えばなんだが……、いい話もある。もし、見事『沈黙の死神』を見つけ出し、生きて捕らえることができたなら、お前が妙にこだわっている、出るかもわからん恩赦とやらを待つ必要もなくなるぞ」


「本当か? 俺を担ごうってんじゃねえだろうな」


「誓って本当だ。仮にそんなことをしてお前を怒らせたんじゃ、命がいくつあっても足りんよ」


また、しばらくの沈黙があった。ラウルは訝っていた。罪人を一人捕らえるだけで釈放などといううまい話があるものだろうか。正体も、実力も不明の殺人鬼とはいえ、背信行為をした軍人との釣り合いが取れるのか――


「なあ、ラウルよ」ルイはなだめるように告げた。


「幼馴染として言う。お前は、こんなところで腐らせておくにはあまりに勿体ない男だ。まだ利用価値があると、そう上が思っているからこそ、命令無視、作戦のボイコットなどという無茶をしでかしても、極刑を食らわずに済んだのだろう。軍にはもう戻れないし、生き方に制限もつくだろうが……なにより、ジルさんのことを考えてやれ」


ラウルはわずかにうなだれて、しばらく何も答えなかったが、やがて口を開いた。「結局、拒否権はねえってことか」



「そもそも、罪人にそんな権利はないがな」



「俺は、罪人じゃねえよ」意を決したようにラウルは立ち上がった。



ルイは満足げににやりと笑った。



「最低限の装備はこちらで用意する。必要なものはあれば言え」



「そうだな――」



ラウルは牢屋の窓からわずかに覗く空を見ながら、




「パンと、肉が食いたい。スープ付きでな」と言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ARBOS @Amefrash

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画