第5話
それからさらに数日後。
『クレーンゲームを遊びに行きたいので、一緒に行ってもらえますか?』
久しぶりのメッセージが入ったので、三ツ谷さんと会う約束をした。
夜だしまた親御さんと揉めたのかと思っていたが、久しぶりに会った彼女は重苦しい雰囲気ではなく、普通に人を待つようにソワソワして店の前で待っていた。
「待たせてごめん。行こうか」
「あ、いえ、大丈夫ですっ」
緊張しているのは伝わってくるが、いくつか筐体を回るうちに自然になっていく。
今日も三ツ谷さんは重心の見極めが上手で、見事な一本釣りを見せてもらって感動した。猛者だ。
「そういえば、紹介してもらった動画主の新しいの上がってたね」
「見ました!? 神業ですよね。今日はそれも試したくて」
新しい動画も上がっていたから、その話でも盛り上がれた。実機を前に試行錯誤するのが楽しく、うまく出来た時には三ツ谷さんもはしゃいでいた。
椅子と机のある場所に移動し、休憩に付き合ってもらったが、相変わらず奢ると恐縮されてしまう。なんとなく美海の話が出ていたのを思い出したが、彼女は奢ってもらえるのが当然だと思っているような女の子だったから、違いが面白くなってしまった。
「親御さんとも話出来た?」
「は、はいっ。ちゃんと順を追って説明して、本気だって伝えて、ようやく理解してもらえて。
大学院は自分で学費も出すし、中途半端にしないって約束しました」
すっきりした顔をしていると思ったが、やはり話し合えたようだ。
「よかった。じゃあ、こうやって夜に出歩くのも無くなりそう?」
くたびれたおっさんの格好になってまで出歩いて、ストレス発散していたのは親とのいざこざでむしゃくしゃしていたからだと言っていた。
夜間に電話が来て話し合うような両親とのことでなく、日中に発散出来るようなら彼女も一人で出歩いても、そこまで危なくないだろう。
出番がなくなるのは喜ばしいような寂しいような、と思ったのだが、三ツ谷さんはなぜか真っ赤になった。
「その。夜に金太郎さんと、こうして出歩いているのも、話したんです」
親御さんは真っ青になったのではないだろうか。
彼女が一人で危ない目に遭わないようにと考えてのことだが『年上の社会人男性と夜だけ会っている』なんて聞かされたら、心配するに決まっている。
「それで、あの。お話が、あって」
お断りの言葉だろうか。親御さんが会うのはやめなさいと言ったのだとしても、俺からは文句もない。
言いにくそうに溜められると流石に悪いことをしているような気になるが、待っていると、斜めがけしている鞄から手紙が出てきた。
休憩スペースの丸い机の上で両手に名刺のように構えているが、ピンク色の封筒だ。
「よ、よければ、私と、……お、お、お付き合い、してください……」
語尾がどんどん消えていったが、何を言っていいものかも分からず、とりあえず受け取った。
封筒の表書きはちゃんと俺宛になっている。
真っ赤になって俯いてしまった三ツ谷さんにこれ以上を聞くのも悪い気がして、せっかく用意してもらったものでもあるし、なんとなく俺まで照れくさくなりながら、封筒の可愛らしいシールを外して開いた。
手紙らしい前書きから始まったが、詳しく読んでいくと、どうやら本気であるらしいことは伝わってくる。
『優しい金太郎さんが好きです』
可愛らしいラブレターを、人生で初めて頂いてしまった。
しかし、中身を確認すると、入っていたのはそれだけではない。
一枚、緑色が基調になっている紙が折り畳まれて入っている。
広げたら市役所に提出するような『婚姻届』と書かれている用紙が出てきた気がするが、気のせいだろうか。
しかも妻のところに三ツ谷さんの名前、証人のところには、すでにご両親の名前などが二人分記載されている。多分俺が書き込んで公的機関に提出したら、通る状態だ。
「えーと、この婚姻届は?」
付き合うのに不要ではあるが、心配したご両親に持たされたのだろうか。
自分でも困惑しているのだろう、挙動不審な三ツ谷さんがアワアワとしながら、また恥ずかしそうに俯いた。
「お母さんが、結婚も前提に付き合えないような男は許しません、って、わざわざ取ってきて……書かされて……」
これは、よほど娘さんが心配なのだろうか。
そういえば卒業したらすぐに結婚しなさいと、お見合いを仕組まれたとか言っていたような気がする。
「か、書かなくていいんです。これで怯むような男なら見極めなさい、なんて言ってて」
普通なら怯むし、そこまでの思いをまだお付き合いもしていないような男女に求めるのは酷な気がする。
しかし今「考えさせて」と言うのなら、真剣に俺を想っているからこそ決心して手紙をくれた三ツ谷さんは悲しい思いをするだろうし、用意した親御さんの心象もおそらく最悪になるだろう。やっぱり遊びたいだけの男だったと言われかねない。
かといって、何も恋愛なんて「好きです」「付き合おう」なんて簡単にいくようなものではない、気もする。経験が不足しているが、少なくとも俺の周りはそうだった。
悩んでいると、三ツ谷さんは少し震えながら俺をうかがっている。
「……あ、あの、金太郎さん、見なかったことにしてもらっても、いいんです。
だっておかしいじゃないですか、突然婚姻届なんて。私も断りきれなかったなんて、理由で、入れちゃって。やっぱり、その、……ごめんなさい」
小さく消えていくような言い訳と謝罪の言葉に、彼女が追い詰められている気がして、可哀想になってくる。
きっとお母様に婚姻届を記入して持ってこられて、断りきれなかったのだろう。彼女はいつも、初対面の俺にさえ強引に言われては断りも出来ず、従ってきた。
関係を清算するのか、続けるのか。
このまま俺がお断りして、もはや膝の上の手を握り締めて、何か悲しいものを堪えているような彼女が今度は泣き出しでもしてしまったとしたら。
俺は彼女が危ない目に遭わないように見守ってきた。
友人にも指摘されたように飲み会でもソフトドリンクを飲むなんて状態で、連絡があったら動けるようにしていたくらいの相手だ。
……どうせ彼女いない歴は、美海を除外したら年齢と同じだ。ありがたくお付き合いしようと、それだけは簡単に決まった。
問題は、この『婚姻届』だ。
結婚を前提にお付き合いするとして、必須なのか。書くのは正解なのか、書かないほうがいいのか。
……いや、待てよ。
『お前が結婚するまで、の誓いは絶対なの。少なくとも三十までは待つ』
美海との関係を当時素直に白状して、いまだに傷ついているのは俺ではなくて、玉城だ。
十年付き合ったような凛子さんとも結婚せず、資金だけ貯めて待っている親友がいる。
彼女候補もいなければ魔法使いになる予定で、相手はいらないと言っていたような俺が。
この『婚姻届』を記入することに。
彼女にちゃんと真剣にお付き合いすると意思を示すのに。
拒む理由はあるだろうか。
俺が書き込むだけで効果を発揮しそうな、役所の書類。
……むしろ、この用紙は俺にとっても好都合なことに気づいた。
「ペンある?」
「小さなものでよければ……金太郎さん、大きくバツ書いてください。……恥ずかしいこと、してしまって……」
一言ごとに恐縮してしまっている三ツ谷さんには悪いが、ペンを受け取ると早速記入した。最近は押印不要らしい。
俺がバツどころか、詳細に名前から何から記入していく音を聞いて、見て、三ツ谷さんがなんと泣き出してしまった。
泣かせたくなくて書き込んだのに、ボロボロと泣き出されてしまったので、ハンカチを差し出した。受け取ってくれたが、涙が止まる様子はない。
「な、なんで、書くんですか……?」
「結婚を前提にお付き合いしようと決めたから。……ちゃんと親御さんにも認めてほしいし、俺もこの紙を見せたい相手がいるって気づいたから、協力して」
俺の項目以外は全て書き込まれているから、すぐに完成した。
三ツ谷さんは真っ赤になり、息を呑んで見守っている。
「じゃあ悪いんだけど、一緒に写真撮ってもらえる?
泣かないで、笑って映ろう。俺の遊び仲間見たことあるでしょ? あいつらに知らせたい」
俺もなかなかのことを頼んでいるが、おとなしい彼女は書きたての婚姻届を掲げる俺の願いに応えて涙を拭いてくれた。見つめると、照れながらも一緒に並んで写真を撮ってくれた。
スマホに残った一枚は、まるでプロポーズしたてのカップルのようになっている。ちょっと泣き腫らした目もいい感じだ。
「嘘みたい……嫌われちゃう、もう断られちゃうって、思ってたのに」
また三ツ谷さんの目が潤んでいくので、少し驚かせてやろうと、手を握ってみた。
純朴な女子大生は飛び上がっているが、柔らかくしっとりした手触りの指を確かめるように指を絡めてやると、もはや何も言わずに真っ赤になっていた。
「泣かせたくなくて遊びにきてるから、念願叶ったなら喜んで」
遠慮なく言うと、彼女は言葉もなく頷き、重ねた手のひらに汗をかいてきているのを恥じらっている。
写真に写っているのは個人情報でもあるし、自分の項目以外は住所などを塗り潰してから、仲間内に送った。
『ご報告。お先に結婚しました』
まだ提出前のものだが、送ってみておかしくなった。
俺が先に結婚しないと踏み切れないと言っていた玉城も、これで凛子さんと心置きなく結婚できるだろう。
「画像、三ツ谷さんにも上げるよ。親御さんにも送っていいよ」
早速メッセージアプリで写真を送信したが、こちらはこちらで電話がかかってきた。玉城だ。
「ごめん、ちょっと電話出るね。ちーっす。どう、驚いた?」
『驚くに決まってるってぇ! やっぱり鈴華ちゃんと付き合ってたん!?』
「いや、交際ゼロ日で婚姻届書いた。今から恋人になる予定」
『はーあー!?』
「まあ、詳しいことはまた後で話そう。凛子さんにも届いてるから、ちゃんと約束守ってくれよ」
「うっわあ、マジかあー、あっ、凛子からもかかってきた。頼むぜ金太郎、説明待ってるからな!」
慌ただしく向こうも電話が切れたが、今度は言われた通りに写真を送信した三ツ谷さんも電話がかかってきたらしく慌てて離れていく。てんやわんやでますますおかしくなった。
目の前にあるのは、書き込まれた用紙たった一枚だ。
なのに、随分と身の回りの様子が変わっていく。
俺はこのまま提出されたとしても、後悔はしない。
婚姻届、なんて一度結んだら切っても切れなくなるような重い関係だが、夢を追いたくて親御さんと喧嘩していた三ツ谷さんは、それでも書いて持ってきてくれた。
美海のように遊びで付き合って、飽きたら捨ててやろうなんて思っていたら、こんなもの書けないわけだ。
結婚する予定も彼女を作る予定もないくらいなら、その真剣な気持ちに報いたいと、むしろ英断をした自分を褒めてやった。
『彼氏じゃないし。勝手に勘違いしたそっちが悪くない? 気持ち悪いから二度と近づかないで』
なんて言った『美海の彼氏は金ちゃんだよ』と、当時恋愛漫画で流行った恋人繋ぎをしていた他校の女子もいた気がするが。
あの不誠実さとは違い、丁寧なラブレターからも、三ツ谷さんの真面目な気持ちが伝わってくる気がする。
「あ、あの、金太郎さん。お母さんが、今すぐに代わりなさいって、聞かなくて」
また泣きそうになっている三ツ谷さんが電話を恐る恐る差し出してくるので、快く受け取った。
「ご挨拶させて。
……あ、もしもし。お電話かわりました。初めまして、松坂金太郎と申します。突然のことで驚かれているかと……いえいえ、こちらこそ……」
この後は二十八歳の社会人として、緊張しながらも丁寧にご挨拶をさせていただいた。
どうやら三ツ谷さんのお母様は娘が大事で、夜遊びをしたいだけの悪い男ならこの強烈なパンチで下がっていくだろうと思われていたそうだ。恋愛慣れしていない娘も失望するだろうと予想していたらしい。まさか付き合ってもいない男が決意を固めて婚姻届を書き込むとは思いもしなかったそうだ。
「三ツ谷さんの将来もありますし、提出なんて間違ってもしませんからご安心ください。
こちらはまたお預けしに、直接ご挨拶に伺えればと考えていますので……ええ、そうですね……」
着々と予定が詰められていくので、こちらも合わせて予定をお伝えした。どうやら悪い男ではないと思ってくれたようで、お互いに有意義な話が出来た。
電話を代わってほしいと言われたので、三ツ谷さんに渡した。お母様とやりとりしているのを尻目に、改めて俺宛に書いてもらった手紙を読み直した。
今やメールもメッセージアプリもある世の中で恋文なんて習慣に出会えたが、手元で何度も読み返せるし、丁寧に綴られた綺麗な文字から人柄もわかって悪くない。
一文字も間違えていないし、何度も書き直したのだろうか、と想像するだけでも楽しい代物だった。
戻ってきた彼女に手紙だけもらうと伝えて、婚姻届は元通りに折って大事に封筒にしまい直した。
先ほどお母様に言われたことも確認が必要なので、もはや何がなんだかわかっていないような彼女を見つめる。
「三ツ谷さん。今度一緒に実家に戻ってくるように言われてて、来週の土曜日にお邪魔することになったんだけど、それまでこの婚姻届は保管してもらってもいい?
無くすと大事になるし、三ツ谷さんが持ってる方がご両親も安心だと思うから」
親にも会うことが決まっているのかと、ふわふわと頷きながら、それでも封筒をポシェットに仕舞い込んでくれたので、笑った。
「鈴華さん?」
「は、はいぃっ」
「俺でよければ、お付き合いしてください。今後ともよろしくね」
「も、もちろん、ですっ、よろしくお願いしますっ」
先に婚姻届まで書いたような間柄だ。
三ツ谷さんもようやく彼氏彼女の実感が湧いてきたらしく、熱が出たように額に手を当てて冷ましていた。
お互いに遊ぶような気分ではなくなってしまったので「帰ろうか」と声をかけて車に戻ると、三ツ谷さんのアパートまで送り届けることにした。
やましい気持ちではなく、夜遅いのに、どうにも浮ついているので心配になったからだ。このまま帰して逆方向の電車に乗って終電を逃したなど、信頼して預けてくださった親御さんの手前、あってはならない。
ノックダウンしているような三ツ谷さんが、助手席から俺を伺っているのが見えた。
「金太郎さんは、こういうの、慣れてるんですか?」
「まさか。ちょっと事情が複雑なんだけど、高校以降では鈴華さんが初めての彼女になる」
三ツ谷さんから変えてみたが、もはやそれだけでもいっぱいいっぱいらしく、助手席で何も言えなくなって背もたれに埋もれているのだから面白かった。
初めて辿り着いた彼女のアパートは女性向けのセキュリティが揃っている住宅で、借りているらしい親御さんが大事にしているのも伺えた。
「それじゃ、おやすみ」
「は、はいっ、ありがとうございました」
見送ってもらい、車で自宅に戻る。信号に引っかかったが、十五分くらいの距離だった。
鍵をいつもの置き場に戻して、ビールを冷蔵庫から取り出す。
飲みながら、改めてもらった手紙を読んだが、現実感がないことに気づく。
魔法使いになるはずだったのが、彼女が出来た。
いや大学院を卒業するまで待ったら、魔法使いには転職出来るが。
むしろ婚姻届まで書いた妻? が出来た。
正直、大人として格好つけるのに精一杯だっただけで。
「マジか……」
指から力が抜けて、ビールを取り落としそうになった。
おっさんだと思って部屋に招き入れたら、親の布団で眠っていたあの黒髪の美少女が、今日、彼女になりました。
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