第3話


 普通貴人の寝所などは、願われても暴かない。

 ラファエルはフランスの宮廷で育った。

 それくらいの常識はある。

 それでも後ろから押し当てられる圧に、自分の手で天蓋の布をゆっくりと開いて、

 多分、開ける前から自分はそこに何があるか、知っていたのだと彼は思う。

 そうでないなら、この感情の説明がつかない。

 この胸の、恐怖の。

 布に手の甲を掛けて開いても、ヴェネト国王はラファエルを咎めなかった。

 彼が温和な王だからではない。


 ……もう口が、利けないからだ。


 ヴェネト国王が人前に姿を見せなくなって、どれくらいだとルゴーは言っていたか……、ラファエルは珍しく舌打ちをしたい気分だった。この国に来た目的はジィナイースに会うことだったから、真面目に副官の話を聞いていなかった。

 考えねばならないのに、国王、その人についての情報が何にも頭の中に出て来なかった。


「ラファエル」


 ラファエルは左手の人差し指に嵌めた、ダイヤモンドの指輪を密かに、親指の腹で撫でた。

 ここから先は、自分が試される。

 ラファエルは、イアン・エルスバトのように家族の為に頑張ることは出来ない。

 フェルディナント・アークのように国の為にも、頑張れない。

 ここを無事に出て、フランスに戻り、ジィナイースを連れて戻り、一緒に未来を生きていく。それだけが全てだ。それが守れるなら、他に大切なものは何もない。

 自分の持つ、たった一つの願いを守るために、何をすればいいかを考えるのだ。

 それが一番正しい道だ。

 この状況でも、ラファエルはそう判断がついた。


(この世で誰よりも愛するものを持つということは)


 その人から愛されるかどうかは関わりなく、愛し、大切にしたいと思えるだけで、深い意味があることなのだ。

(いつだって心に光がある)

 ラファエルは手の甲を天蓋のカーテンから外した。

「……最初から言って下されば。愚鈍な私でも、花くらいは持参しました。病床の陛下のお慰めに」

 カタン、とセルピナは預かっていたラファエルのレイピアと短剣をテーブルの上に置いたようだ。

 ラファエルはまだ彼女には背を向けている。

 まだ彼女の顔を見る決心がつかない。

 どういう感情を向ければいいのか、判断がつかない。

 確かに、ラファエルにかつて、これほどの難解な感情を抱かせた女はいなかった。


(さすがはこの地上から三つの国をすでに消滅させたヴェネトの妃殿下)


 見ている景色が、違う。

「良いのですよ。一度どなたからか花を頂くと、我も我もと持ち込まれる。そんなに騒がしくては陛下のご心労になります」

(ご心労、ね……)

 ラファエルは自分の指輪に触れたまま、布に遮られた前だけを見ていた。

「私がこの部屋に立ち入る許しを頂けたということは。……妃殿下から、何かお話しいただけることがあるのでしょうか?」

「貴方の聞きたいことを、話しましょう」

 セルピナはそこにあったソファにゆっくりと腰掛けた。

 そう来たか。

 ラファエル「は別に何にもないよ、早くこの部屋から出て行きたい」と思ったが、根性で、問いを導き出す。問いかけたいことは本当に、何も無かった。

 ここにあるのは王妃がそうしようと決めた「結果」だ。

 もう起きた出来事。

 だったらそれに対して自分が、何を言ったり、聞くことに意味があるのか。

「……陛下はいつからこのように?」

「その質問から察するに、貴方が知りたいのは先日の、貴方自身の問いかけの、答えですね?」


【滅びの雨を降らせたのは貴方だ】


「わたくしに、あのような無礼な問いかけをしたのは貴方が初めてですよ。

 ラファエル・イーシャ……」

「……。」

「気に入りました」

 背を向けたまま、ラファエルは息を飲んだ。

「みな、聞きたくとも決して聞きません。自分の国が、同じ末路を迎えたくないからです。……貴方はフランスが大切ではないのですか?」

 天の玉座のような場所から世界を俯瞰に見下ろす、

 彼女の喋り方は少し変だ、とラファエルは思った。

(目の前の人間に集中しろ)


 神でも、

 悪魔でもない、

 単なる人間、

 急に高圧的な、お前の運命を握っているのだと、そういう喋り方になった。

 それ以前に少なくともラファエルは、王妃からこういう話し方をされたことは一度もなかった。

 自分が感じたものが全てだ。

 世界において人の評判や、噂や、自分の目で確かめてないものが一番重要なものならば、


(ジィナイースが俺を愛してくれることはなかった)


 だからジィナイース・テラの、あの光のような慧眼に救われ、それを愛した自分は、他の人間にも同じように接しなければならない。

 スペイン海将も、神聖ローマ帝国将軍も、この女に対しては自分と違う印象を受けている。

 同胞と呼んでいい【ファレーズ】は確かに滅ぼされたが、それと切り離せば、ラファエル個人が、何か王妃に害を与えられたわけではなかったからだ。

 特に何もしていないのに最初から好意的に受け入れられたし、親切にもされた。それは大国であるフランスという背景に対してのものだったが、先だっての賊が忍び込んだ事件以来、王妃から示される好意は、ラファエル個人に対するものになったと、はっきり感じたのだ。

 なら、それを信じていい。

「大切ですが、何も案じておりません。理由は、妃殿下が我が国に神の雷を落とすようなことは決してなさらないだろうと、この心に信じられているからです」

「……。それは何故です?」

「妃殿下はヴェネトに私が来た時から、温かく迎えて下さいました。

 私だけではなく、フランス艦隊にもご配慮を頂きました。

 それは、私がフランスから発つとき、誰もそのようなことは起こらないだろうと覚悟を促されたこと。ですからこの国に来て、貴方が与えて下さった親切に、どれだけ私が嬉しかったか、お分かりいただけると思います。

 私は、貴方から親切しか受けていない。

 なのに何故、そのような心配をしなければならないのでしょうか?」

「では、私がもしフランスを撃てば、貴方は私を憎みますか?」


「妃殿下」

 ラファエルは振り返った。

 これ以上、体裁を取り繕うのは無意味だ。

 正面から斬り合わなければならない。

 王妃の覚悟は分かった。

 こういう人間なら、世界を滅ぼすことを確かに考えるかもしれない。

 だからこそ彼女は人を疑うのだ。

 圧政を敷き、歯向かうものとそうでないものを判別しようとする。

 ラファエルは運よく、彼女にそういう方法で忍耐を試されなかった。

 これは幸運な巡り合わせなのだ。

 それは、王妃も理解しているだろう。

「何故それほど、私の心を試そうとされるのでしょうか?

 私は先日の問いで、貴方の心を抉った。

 今日はご不興を買った自覚があり、お詫びするつもりで城に参りました。

 貴方が許さず、暴君のように死刑を命じられるなら、それは貴方のご厚意の上に胡坐をかいて、礼を失った私の迂闊であると、覚悟をちゃんとして来たのです。

 貴方は何もない所から私を憎んだわけではない。

 私が傷つけたのです。

 ですから今、この場で命を貴方に奪われても私は貴方を憎まないでしょう。

 そのことを、これ以上、言葉で確かめ合うのは無意味なことになります。

 フランスは我が母国。

 それ以上でもそれ以下でもありません。

 そこにあれば嬉しい。ずっとそこに在って欲しいとは思う。

 失われたら悲しいでしょう。

 ですが、それだけです」

「貴方は王家に仕える騎士になることを、辞退なさったと仰っていたわね。なるほど、筋は通っています」

「妃殿下。私は、思うのです。国を一瞬で消滅させるなど、神の御業以外にないと、私は信じて生きて参りました。

 世界は、【シビュラの塔】が三つの国を消滅させたと信じています。

 貴方はあの塔を王家の聖域と仰った。

  歴史を越えて、この世界を見守って来た神の塔の守番が、このヴェネトの民ならば、貴方たち以外には聞くことが出来ない。【シビュラの塔】は、そんなにいとも簡単に、世界のどのような場所でも撃てるものなのでしょうか?」

 ラファエルはフランスから託された自分の使命を忘れ、ただ、率直に問いかけた。

 王妃はじっと彼を見つめていたが、不意に、表情を緩めた。


「貴方の青い瞳は、なんて美しいのでしょう」


 ジィナイース・テラと、似ても似つかない人間なのに、彼女は同じことを言った。

「フランス王が、何故貴方を愛するのか、……少し分かります」

 ラファエルは少し、眉を寄せた。

 愛を理解出来る人間が、何故、愛の無い行為を行えるのか。それが、人間の最も深い謎だ。

 それとも……それすら、愛がそうさせているというのだろうか?

「ラファエル・イーシャ。よくお聞きなさい。

 貴方の誠実な魂を信頼し、貴方にだけは教えましょう。

 ただし貴方の最も近しい者にも、愛する者にも、これは他言無用です。

 私に対して誓いを立てられますか?」

「誓えと、妃殿下が仰るならば。必ず守りましょう」

「では、誓いを立ててください。

 私が貴方に言うことは、貴方だけに語っているのです。ラファエル。

 憎しみというものは、すでにもう、そこにあるもの。

 でも誠実や愛情が、外界にそれが流れ出ることを、封じてくれるのです。

 私は今、貴方という人間に、愛情しか感じていません。

 貴方は先日の問いで私を傷つけたと言いましたが、私はあれを、侮辱とは感じませんでした。私の抱えるものを、感じとったのですね」

「……。貴方が何か苦しいものを抱え込んでおられるようには見えました」

「今の私を見て、そのようなことを感じる者はいないでしょう」

 そうだろうか。

 ジィナイースなら、きっと今の貴方を見たって、憎むよりどうしたのだろうとまず考えるだろう。何故そんなに何かを憎んで、怒って、苦しんでいるのだろうかと、自分と同じように考えたはずだ。

 自分などを信じれるなら、ジィナイースを信じてほしいのに。


(つまり、そう出来ない理由が、ある)


 ラファエルとジィナイースの違い。

『血』だ。

 セルピナ・ビューレイにとって、ジィナイースは憎まなければならない、血筋なのだ。

 しかし、兄のルシュアン・プルートはジィナイースと同じ母の腹から生まれた双子だ。

 彼らは血を同じくする。

 即ち、王妃セルピナが口にする『血』とは、実際に身体に流れる血筋のことを指しているのではない。

 自分も何度も、思ったではないか。


(ジィナイースは一族の中で最も、祖父の血を色濃く受け継いだ子供だと)


 セルピナが憎んでるのはジィナイースではない。

 ユリウスだ。

 ラファエルは理解した。。

 何故あんなに優しくて才能に溢れるジィナイースを憎まねばならないのかと思っていた、その答えがちゃんと出た。

(ユリウスが最も愛した子供だから、この女はジィナイースをこんなに憎むんだ)

 ユリウスと彼女の間に。

 ――父と娘の間に、何かがあったのだ。

 彼女に世界を憎ませるほどの、何かが。


「ラファエル。

【シビュラの塔】は貴方の言う通り、神の御業で建てられたもの。

 あの塔は、そのあたりにある武器のように、自由な時に自由なだけ撃てるものではないのです。それは私にも、決められません」

「……では、……もし今、撃ちたいと貴方が心から望まれても?」

 王妃はゆっくりと頷く。

 驚いた。

 これは、今、世界中の国が欲しい答えだったからだ。

「ですから、今この瞬間に私がフランスを死ぬほど憎み、滅ぼしたいと願っても、そうは出来ないわけです」

 ラファエルの表情は強張った。

 打算的な人間ならば、安堵や、喜びを見せたはずだ。

 この青年は、本当に心の清い人間なのだと、王妃セルピナは実感した。

「少し、安心しましたか」

「……、はい。……しかし、それでは」

「【シビュラの塔】を起動させたのは私、と貴方は言いましたね。

 厳密に言うと、それは違います。

 あの塔は――扉を開ける資格を持つ者が存在するのです。

 普通の人間には扉を開き、中に入ることも出来ない。

 その人間は……恐らくですが、長い歴史の中においても、稀な存在なのでしょう。

 ですが、何故そうなのか、本当にそうなのか……前例のないことなので、断言は出来ないのです」

「扉を開けられる者……、では今のヴェネトにはその方が存在すると……?」

「貴方には話しておきましょう。私は殺戮を望んでいるわけではありません。

『管理』を望んでいるのです。あの【シビュラの塔】の秘密を解き明かし、その起動する資格をヴェネトの秘術とし、ヴェネト王家の、正統なる後継者に伝え行くものにすることが望みです。そうすることが出来れば、貴方がたのように強力な海軍を持たずとも、ヴェネトは二度と、海域を脅かされることはないでしょう」

 それは確かに、あんなものがヴェネトの完全なる管理下に入れば、侵略どころか近づく者すら消えるだろう。

 だが、侵略に使うつもりはないという言葉は、とてもではないが、フェルディナント・アークには聞かせられない言葉だと思った。

 そして滅んだ、三国の人間には。

 必要な犠牲だったのだよなどとは、彼らを慰める言葉にもならない。

 ラファエルはフェルディナントが嫌いだったが、それくらいのことは弁えていた。

 決して王妃の真意をあの男に伝えてはいけない。

 この言葉を。

 聞けば激怒し、一層激しく王妃を憎むだろう。

 命を懸けてもいい空、母国の仇を討つなどと躍起になられても、王都ヴェネツィアが戦場になるかもしれない。

 神聖ローマ帝国の竜騎兵団は本当に危険なのだ。

【シビュラの塔】が即刻起動できないとなると、それを例えフェルディナントが知らなくても、竜騎兵団を率いて、先に【シビュラの塔】を空路から押さえに掛かる可能性がある。

 もし、【シビュラの塔】を制圧されたら、ヴェネト王宮を落すなど容易いはずだ。

 厄介なことにヴェネトには特別な軍隊が一つもない。城壁も王都には張り巡らせておらず、折角スペイン・フランス艦隊がアドリア海を固めていても、神聖ローマ帝国竜騎兵団の行軍は、両艦隊の射程圏内から外れてしまう。

 海に面して湾岸に城壁から雨のように敵艦に砲撃を見舞うことで知られる、【炎の壁】の異名を取るブザンソン城壁でさえ、竜騎兵団の高度には砲弾が届かず、また竜の速さにも砲撃は分が悪かった。

 もしフェルディナントが【シビュラの塔】は扉が開かない限り砲撃出来ないと気づけば、必ず本国に報告を行うはずだ。

 それが世界にも知られれば、イアン・エルスバトをすでに送り込んでいるスペイン艦隊が速やかに援軍を送り込んで来るだろうし、フランス艦隊と言えども欧州最強と名高いスペイン艦隊を相手にするとなると厄介だ。

 それに、フェルディナントとアントーニョには士官学校時代の縁がある。

 恐らくイアンにも、フェルディナントは報せを送るはずだ。

 神聖ローマ帝国とスペインが手を組むとなると、フランス艦隊だけではヴェネト王宮は守り切れない。

 世界に今、【シビュラの塔】が休止状態にあるという情報が広がれば、今は沈黙している海洋国イタリアも艦隊を出撃させる恐れがあるし、更に戦火が広がれば、各国に動きが出て来るはずだ。

 今この瞬間も、北方で戦線を構築しているイングランドが、機に乗じて侵攻してくる可能性すらある。

 ヴェネトの脅威を各国が警戒していなければ、今はダメなのだ。

 王妃も、塔を意のままに出来ないという情報が意味するところは理解しているはずだ。

 それでも、彼女はラファエルにそれを話した。

 余程の信頼と覚悟がなければ、ありえないことである。


「そうすればもう王が船に乗り、海に出る必要がなくなる。

 海の玉座はヴェネト王宮に戻り、

 王宮の黄金の玉座が、ヴェネトのただ一つの王の居場所となる」


 海の玉座をヴェネト王宮に……。

(そんなことで、三つの国は滅ぼされたのか?)


「ラファエル。貴方は今日から、ロシェルと共に、私の腹心として、私の望みを叶えるために尽力してください。

 ――尽力ということは。

 何かを変えよと言っているのではないのです。

 今まで通り暮らして、ヴェネトにいて良いのです。

 ですが私の望みを知ったからには、私を理解し、助けてください。

 出来ますか?

 私の口にしたことを、フランスは知りたいと望むでしょう。

 貴方がフランスに告げることは、私への裏切りであると、釘は指しておきます。

 それでも、貴方の誠実なその瞳で、フランス王に私が無慈悲な殺戮者ではないのだと、言葉を尽くして知らせることは出来るはず。

 分かりますね?

 貴方は賢く強い人間なのですから。

 私を裏切れば貴方には必ず死んでもらいます。

 ですが、今この瞬間、私がそうなることを望んでいないことは、よく理解してほしいのです」


 ラファエルは数秒、押し黙った。

 ほんの数秒だ。

 それでも自分の中に、これだけは失えないという愛するものや光があれば、一瞬でも覚悟は決められるし、誓いも立てられる。

 ラファエルはその場に、騎士の所作で、跪いた。

「よく、理解いたしました。

 妃殿下。

 一つだけ、私から願うことをお許しいただけるでしょうか?」

「聞きましょう」

 ラファエルは左手の人差し指にはまったダイヤの指輪を抜き取った。

 胸に入っていたハンカチでそれを大切に包み込む。

 小さく折りたたんで、手の中に収めた。

「偶然ですが、貴方には、私の幼少期の話を聞いていただきました。

 無力で、心の寂しい幼い子供に過ぎなかった頃の、私の話を。

 家族からも同年代の者たちからも、背を向けられていた私を、たった一人庇って下さった方がいました」

「お祖母さまが大切にしてくださったのでしたね」

「祖母が私に優しかったのは、憐れみです。

 家族の中に居場所がない、孫を憐れんで下さった。単なる血の縁です」

「つまり、血縁など無くとも、貴方を大切にしてくださった方がいたのですね」

 ラファエルは王妃を見上げた。

「はい。私の剣も、心も、命も、全てはその方の為にすでに捧げられたもの」

「愛する方なのですか?」

「そう、口にすることがその方に許していただけるならば。」

「貴方はフランス王弟の子。公爵位にあり、名高いフランス海軍を率いて、地位も名誉も手にしていらっしゃる。その貴方が身分違いなどと思う方は、フランスに数えるほどおられないはずでしょう」

「どうか、暴く意味では詮索していただきたくないのです。いつかその方をお迎えするまでと、密かにこの指輪の内側にその方の名を刻んであります」

 セルピナはラファエルの差し出す手に、目を留めた。

「私はこれから、妃殿下の望みの為に、尽力を致しましょう。

 貴方が望まれるならば、フランスの地を二度と踏まない覚悟もあります。

 ですが、この世界で、この方だけは、私は幸せに生きて欲しいと願っています。

 歴史を越えて残って来た【シビュラの塔】や、その管理者たらんとする王統の貴方がたに比べれば、小さな私の願いではありますが、私が今まで生きて、これからも生きようといつでも思えるのは、その方の存在があってこそ。もし……」

 ラファエルは言うべきか一瞬は考えたが、真っ直ぐに王妃を見つめた。


「もし、貴方がこの方の命を奪うようなことがあれば、私はその時だけは、貴方を憎むでしょう。剣を向け、歯向かうこともきっと厭わない。ですが、そうでない限りは、何があっても、世界に何があっても、フランスに何があっても、私は貴方に剣を捧げることを誓います」


「……その方の名を見ても構いませんか?」

「指輪は妃殿下にお預けします。あとはお好きになさってください。しかし、私を信じて下さるのであれば、裏切りの可能性を探さず、刻んだ名は封じていただけると有り難い」

 王妃は数秒間を置き、ではそうしましょう、と言った。

「私も、私の歩む道が、貴方の大切な方を奪うような道ではないと信じて、その名は詮索はしません。

 誠実と、忠義を。

 ラファエル・イーシャ。

 それだけがここにあればいいのです。

 ――そうですね」

「はい。妃殿下」

「では、その名は貴方の手で封じなさい。

 私の手に、指輪を。

 そうすれば貴方が私に歯向かうその時まで、貴方への私の信頼は守られるでしょう」

 王妃は静かに目を閉じた。

 ラファエルは指輪を取り出した。細かい銀細工の溝に、ダイヤの欠片が面のように嵌め込まれたもの。

 内側に刻んだ名は、心の中に刻んだものと完全に一致する。


【ジィナイース・テラ】、ただその一つだ。 


 もしかしたら、この女がこの世で最も憎む名なのかもしれない。

 彼の名がどれだけ美しく優しく響くものでも、ユリウスが口にするだけで、王妃には憎むべきものになる。しかしこれなら、王妃から彼を守ることを正当化出来る。彼に害を成そうとしたら、それを阻み、何故だと問われれば指輪の内側をよく見ろ、盟約の通りだと言える。

 ジィナイース・テラに手を出すだけで、

 ラファエルには王妃に剣を向ける理由があるということを。


 知られた時は知られた時だ。

 ラファエルとジィナイースの繋がりに王妃が気付いた時――ラファエルが彼の庇護に回るのならば、命を脅かしてはいけないと彼女に思わせることが出来たならば、自分のこの存在にも大きな意味がある。

 だから、そうなるように、尽くそう。

 その時に、こんな人間を失うのは惜しいと、そう王妃に思わせなければならない。


(命の限り尽くすよ)


 ラファエルは王妃の人差し指に指輪を嵌めた。


(この指輪を持つ貴方に)


 ラファエルは想いを込めるように、指輪越しに、唇を触れさせた。

 立ち上がる。

 彼はテーブルに置かれた自分の剣と短剣を手に取った。

 通常、退室するまではそれは許されないことだったが、その時は構うことは無かった。

 また、帯剣するラファエルを見て、王妃が咎めることもない。

 明かりを持ち、王妃と共に部屋を出る。


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