8時20分
西川が代官として着任した領地は、現代で言うと奥多摩の辺りにある地域だった。領地には村が10個あり、千人ほどの農民が住んでいる。
これから西川はこの地域を統治しなければならない。言葉にすればそれだけだが、『統治』という言葉の中には様々な仕事が詰め込まれている。年貢の徴収に始まり、工事の手配、法令の周知、特産品の開発、犯罪の取り締まり、村人同士の
ついこの間まで幕府勘定方として、更に前世では市役所の出納係として経理の仕事をやっていた西川にとっては、未知の仕事ばかりである。
幸い、代官所には昔から働いている部下がいた。現場の采配は彼らに任せ、西川は代官として仕事の責任を取り、不正がないか見張ることに集中するだけで仕事は回った。
その一方で、西川は特産品の開発に力を入れた。この土地の特産品はワサビだ。沢の水が綺麗なので、いいワサビが採れる。それらを商人に売って得た金は、村人たちの貴重な収入になっているし、そこから上がる税も貴重な財源となっている。
だがある日、このワサビ販売を脅かす悪党がやってきた。
「
うわぁ、と言いそうになったところを、西川は辛うじて抑えた。『将軍乱舞!』で西川と共に悪事を働いた越後屋の登場だ。キャストの仲冨新之助とそっくりな顔をしていたので、名乗られる前から誰だかわかった。
西川に悪事をそそのかし、成敗エンドに引き込む原因である。それでもまだ悪い事はしていないので、代官として応対しなければならない。
「越後屋よ、大儀である。して、ワシに頼みたいことがあるとは何事か?」
「この領地で採れるワサビについてでございます。あのワサビを、我が越後屋の専売にしていただきたいのです」
「専売かあ……それで、ワサビを安く仕入れようと?」
越後屋はワサビを独占して儲けようとしていた。今は多数の商人が少ないワサビを競い合って買っているため、仕入れ値が高くなりがちだ。越後屋だけがワサビを買うようになれば、仕入れ値は自然と安くなる。それを今までと同じ値段で売れば、大儲けは間違いない。
だが、仕入れ値が安くなれば農民たちの収入が減り、税を取る代官所の収入も減るということだ。とても認められない。
「もちろん、お代官様には損はさせません。専売のお礼はさせていただきます」
越後屋はおもむろに風呂敷包みを差し出した。檜の箱の中には小判がぎっしりと詰まっていた。時代劇の定番アイテム、山吹色のお菓子だ。
「越後屋……お主、
思わず口走ってしまったセリフに、西川は吹き出してしまった。
「何がおかしいんですか?」
「いや、ちょっとむせただけじゃ。うん。とにかく、これは受け取れん」
「いやいや、遠慮せずに。もちろん、専売が始まった暁には、もっとお礼を弾ませていただきますから」
「いや、
西川は箱を丁寧に風呂敷に包んで差し戻した。
「何も見なかったし、聞かなかったことにするから今日は帰りなさい」
「……失礼いたします!」
挨拶の時の粘ついた笑みはどこへやら、越後屋は憮然として帰っていった。ちょっと怖かった。仲冨新之助は任侠映画の俳優もやっていて、怒った時の迫力が凄い。
しかし西川は負けずに悪事を跳ね除けた。この調子で行けば、成敗エンドは回避できるはずだ。
――
「何をしてるんじゃお主は!?」
秋。一大イベントである年貢の徴収で、西川が声を荒げるほどの大事件が起きた。部下の御家人、中里が年貢を横領しようとしていたのである。
事の発端は、代官所の帳簿が読みづらかったことに始まる。いわゆる単式簿記の台帳だが、入金も出金も同じ行に書かれ、現金で支払ったのが税で相殺したのか、あるいは年貢で建て替えたのかもよくわからない、役場の書類としては論外な書式が罷り通っていた。
そこで西川は、前の職場と前世の知識を活かして、わかりやすい帳簿の書き方を部下たちに教えた。その甲斐あって、今年の年貢の徴収と決算は非常にスムーズにいった。
ところが、わかりやすくなった帳簿を付け合わせたところ、年貢を取りすぎていたことがわかった。それを追いかけてみると、中里が過剰に取った年貢を横領しようとしていたことがわかったのである。
未遂とはいえ横領は横領。ましてや原作の西川は横領で成敗エンドのフラグを立ててしまっている。厳しく対応しなければならない。
「なぜこんな事をしでかした!? 金か!? 借金か!?」
「口を開けば金、金、金……恐れながら、お代官様には武士の誇りというものは無いのですか!」
「ハァ!?」
中里を問い詰めてみると、なぜか逆ギレされた。
「新しい代官が来ると聞いて、ようやく出世の道が開けるかと思いきや、西川様はやれ倹約しろだの、予算の見積もりをちゃんと取れだの、年貢は取りすぎるなだの、四六時中金の話ばかり。
私のような優秀な武士を引き立てて出世させるのも上司の仕事でしょう! だがお代官様が私を江戸に推挙してくれないから、江戸で出世するための
「賄賂で出世して武士の誇りを保てるかねぇ!?」
とにかくこんな犯罪者を職場に置いておくわけにはいかない。
「お主のことは即刻奉行所に突き出して……」
そう言いかけた西川だったが、ある可能性に気づいて口を
そして西川は、原作では成敗エンドを迎えたキャラクターである。この横領未遂が飛び火して腹を切るか、あるいは成敗されることにつながるかもしれない。
「……いや、クビじゃクビ!
考えた末に、罪には問わないがクビにすることで済ませることにした。天領の年貢を横領したとなれば打首もあり得ることを考えると、甘すぎる処置である。
それでも中里は不服らしく、西川を睨みつけると、足音を立てて部屋を出ていった。
ひとまず危機は去ったが、今後もこのようなことが無いとは限らない。不正に気づけるような帳簿作りを考えなければと頭を抱える西川であった。
――
代官となって1年が経った。西川は新年の挨拶も兼ねて、江戸城に仕事の報告に向かった。
「西川土右衛門、大儀である。面を上げよ」
「はっ!」
上座に座るのは将軍ではなく、勘定奉行の成島だ。代官は勘定奉行の直属の部下なので、彼に仕事の報告をすることになっていた。
「1年、よく勤め上げた。任期は残り2年だが、引き続き精進せよ」
「恐れ入ります!」
「ところで、この台帳なのだが」
成島が手にしたのは、西川が提出した代官所の収支報告書だ。
「珍しい形式で書いているな。江戸の商人の大福帳に似ているが、参考にしたのか?」
「その通りでございます。あの、ひょっとして何か不備が……?」
「不備ではないが、秋までの台帳と冬の台帳の書き方が少し違うようだぞ」
「部下の意見を取り入れて改良してみました。見直しも2人でするようにして、巻の末尾に署名させています」
嘘ではないが、本当は中里のような不正をあぶり出すための仕組みである。
「なるほど。努力している。これが村の実入りにも反映されるとよいな」
「ありがとうございます!」
幸い、勘定奉行はそのような裏の事情までは察せなかったようだ。
当たり障りのないねぎらいの言葉を受け取った西川は、安心して退出した。
代官の任期は残り2年。この調子で悪事を避け、真面目に働いていれば、成敗エンドは回避できるはずだ。
――
その夜。
「西川土右衛門! お前がご禁制の品を江戸市中で売り捌いたという訴えがあった! 奉行所まで来てもらおうか!」
「なんじゃとー!?」
突然侍たちに囲まれ、まったく身に覚えのない罪を突きつけられた西川は、ろくな抵抗もできずに拉致されてしまった。
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