第51話

 電車を降りて改札を抜けた先にある地下街に足を踏み入れた途端、メロディーが漂ってきた。

 透明な歌声が、ゆったりとしたバラードとギターの音に乗せられている。

 地図の示す場所は、地下街の広場だった。イベント事やフリーマーケットなどでいつも賑わっている場所に、ちらほらと人がいた。大学生っぽい女の子、会社帰りのサラリーマン。

 彼らの視線の先にはユウタがいた。スタンドマイクの前で、ギターを弾きながら歌っている。

 ジャンクフラワーのオリジナル曲とは似てもつかない、分かりやすい日本語で綴られた柔らかな曲調。デニムに白いTシャツというシンプルなファッションが、ユウタの整った顔と金色の髪を引き立てている。

 澄んだ歌声が天井の低い空間に充満し、歩く足を緩める通行人や、そのまま足を止めていく人もいた。

 わたしは五メートルくらい離れた場所に立った。すぐ目の前にはモード系ファッションで着飾った二人の女の子がいて、胸元で両手を組んでいた。わたしと同じみたいだった。


「ありがとうございました」


 一曲を歌い終えたユウタが、マイク越しに言った。


「今歌ったのは、〈秋が舞う〉という、僕が作った曲でした」


 拍手の音がパラパラと鳴る。集客の少なかったライブハウスなんかよりもはるかに少ない観客が、それでも全員がユウタを見入っていた。


「まだクソ暑いですし、秋という感じは全然しないですけれど」


 あはは、と女の子達が笑う。


「みなさん、秋は好きですか」


 好きでーす、とまた女の子達の声。


「ありがとうございます。僕も好きです。僕、あまり昔の事を覚えていないんですけど、それでも思い出す事があって」


 ガラガラガラ、とすぐ近くを配送業者の運ぶコンテナの音が遠ざかっていく。


「例えば物理的に誰かと一緒にいたところで、結局人は独りなんだと思うタイプなんですけれど……、あ、根暗って思った? その通りです。でもね、そうじゃない時があったんですよね。独りじゃないって思えた時期が少しだけあって、秋になると僕はその頃をよく思い出します。……では、次の曲を聴いてください」


 ポロン、とアコースティックギターが鳴った。

 先ほどの曲よりもずっと低みを帯びた声が、言葉を紡ぎ出した。朝のコーヒーの香り、洗濯物の干すベランダから見える景色、思わず口ずさむ古い歌。君が起き出してくるのを待っている。おはようの一言で、一日が始まる。

 鼓動が震えた。恋の歌だった。

 ちらほらとこの場から去る人もいれば、新たに聴き入る通行人もいる。わたしは、この場所に突っ立ったまま動けない。


「ねえ、この人、誰かに似ていると思ったら、あの人だ」


 前に立つ女の子が、顔を寄せ合って囁き合っていた。


「誰?」

「なんか、昔にアダルト動画? の配信していた人。ナントカチャンネルっていう名前で、カップルで動画を録ってたの」

「何それ。自分達のセックスを撮ってたって事?」

「そういう動画サイトがあったんだよ。私も詳しく知らないけど、無料のショート動画が微妙にバズっててさー、彼氏の人がイケメンだったんだよね。なんか、この歌ってる人に似てる気がして。でも顔ははっきり映してなかったし、黒髪だったし、違うかも」


 噂話に含まれた真実さえ潜ませるように、ユウタの歌声が空間に沁み込んでいく。

 わたしは、泣いていた。スマホを両手で持ったまま、ユウタの歌う姿を眺める事もできずに、うつむいて、ただ泣いていた。遠い過去の出来事だと思ったのに。想いはいつしか綺麗な思い出に変わったと思ったのに。

 ――独りじゃないって思えた時期が少しだけあって

 わたしも同じだよ。コンクリートタイルの足元に、ぽたりと涙が落ちる。

 気付いたら、路上ライブは終わっていた。マイク横の長テーブルにCDケースが詰まれていた。黒いTシャツを着た一人のスタッフが機材を片づけしているなかで、ユウタがテーブル越しで観客と喋って、CDを売っている。

 離れなくちゃ、と思った。

 やっぱりユウタは歌っている姿がいちばんいい。アダルト動画を配信している姿よりも、ずっといい。

 震える足で、その場を去った。面と向かってCDを買う勇気はなかったけれど、今の時代は通販や配信サービスなどで手に入れられるだろう。

 地上に出ると、空はもう暗かった。午後七時。地下街とは違う雑音が、空の下に舞う。人々の喋り声、車のエンジン音、信号機の合図。

 ブルブルブル、と手に持ったままのスマホが震えた。表示された名前を見て、喉の奥がひゅっと冷えた。ブルブルブル、着信は続いている。


「も、もしもし……」

『おまえさ、今どこにいんの?』


 まるで昨日まで会っていたような言い方だった。


『さっきまで地下街広場にいたよな? なんでさっさと帰ってんの? ていうか、CD買えよ』

「ユウタ」


 久しぶりにその名前を声にしたら、もう駄目だった。

 崩れ落ちるように、歩道の脇にしゃがみ込んだ。通行人が邪魔そうにわたしを避けていく。


「ソロライブ、おめでとう。すごく素敵だった……、自分で歌を作っていたんだね。すごい、本当によかったよ」


 少ない語彙で必死に今日のライブの感想を伝えていると、


『妃奈子』


 スピーカー越しで、ユウタがわたしを呼んだ。

 周りにフィルターがかかったように、街中の雑音が遠くなった。鮮明に聴こえるのは、ユウタの声だけだ。


『会いたい……』

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