第45話

 普段よりも三十分ほど早く会社に着くと、鈴木君(仮名)が席に座っていた。


「あれ、出勤したんですか?」


 悪びれもなく、鈴木君が笑った。


「そんな急に退職できるわけじゃないし。ていうか、鈴木君こそ、お役御免なんじゃないの」

「嫌だなー、長崎さん。僕にはまだ仕事があるんですよ」


 コンビニコーヒーを啜りながら、鈴木君は会社のものではないノートパソコンを叩いている。

 わたしも会社のパソコンを立ち上げながら、キャスター付きの椅子に座った。


「鈴木君」


 誰もいない室内は、声がよく通る。


「どこまで知ってるの」

「さあ、どこまででしょう」


 興信所に属する鈴木君が、もっと上手いはぐらかし方を知らないわけがない。


「……長崎さん?」


 キーボードを叩く音が止まった。

 わたしは、椅子から立ち上がって鈴木君に頭を下げる。


「お願いします。母を悲しませたくないの。会社内の出来事は何を言ってもいい。でも、それ以外はやめて」

「何か勘違いしているようだけど」


 鈴木君が言う。


「僕は依頼された範囲でしか仕事しませんよ。それに……、」


 続く言葉を聞き逃してはいけない気がして、おずおずと顔をあげると、これまでの後輩としてではなく、達観した鈴木君の表情が目の前にあった。


「長崎さんは、何か悪い事をしていたんですか?」

「え……?」

「人を傷つける事や法に触れる事を、していたわけじゃないでしょう」


 ああ、やっぱり。鈴木君は知っている。わたしがユウタにどれだけのめり込んで、どんな動画を配信してきたのかを。

 だけど、鈴木君の問いによって、長い間かかっていた霧が晴れたような気分だった。


「長崎さんの行いでお母さんが悲しむとしたら、それはお母さんの気持ちの問題です。でも、長崎さんが自ら選んだ道は、誰にも否定する権利などない。たとえ、ご家族でもです」


 ドアが開き、部署の社員が「おはよう、早いね」という声と共に入ってきた。「おはようございます」と返しながら、わたしは椅子に座る。

 寝不足の頭が、やけにすっきりしていた。


 ――後悔していない。俺が選んだ道だ


 ユウタの言葉が、わたしを駆り立てる。

 これまでのわたしの人生は、母によって作られていた。でもそれだけじゃない。ユウタに出会ったのも、ジャンクフラワーのライブに通い詰めたのも、ユウタと撮影した動画を配信したのも、ユウタを好きになったのも、全部わたしの意思だった。後悔なんてしていない。悪い事なんてしていない。


「みんな、おはよう」


 普段聞く事のない声が、部署内に響いた。五十代に見えるその男性社員を、わたしは知っていた。今年の四月、取引先との金銭トラブルに巻き込まれた時、面談されたのだ。

 また何かあったのだろうか。震える両手をぎゅっと握ると、ぽんと肩に手を置かれた。鈴木君だった。


「朝から悪いんだが、急きょ人事異動が決まってね。村田課長が退任になった。しばらく課長不在になるが、何かあれば部長に報告をしながら、これまで通り業務に取り組んでくれ」


 室内にざわめきが広がる。

 急にどうしたんだろー、なんかパワハラもセクハラもひどかったしねー。あらゆる声が浮遊しては沈んでいく。

 わたしを落ち着かせようと肩を叩いてくれた鈴木君は、何食わぬ顔で会社のパソコンモニターを眺めている。もしかしたら鈴木君の仕業なんじゃないかな。村田課長から嫌な言葉を浴びせられた時、気遣ってくれた言葉が本物だったと思いたかった。

 百パーセント真実なんてありえない。それと同じように、偽りにも百パーセントというものは存在しないんじゃないだろうか。

 ユウタとの日々を思う。〈ユウヒなチャンネル〉の動画を思う。あの中に、ほんの少しでも真実が混ざっていたのであれば、わたしはこれからも頑張れる。

 課長不在のまま、今日の仕事が始まる。ブラインドのかかった窓の外には、青空が広がっていた。

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