第44話
テーブルの上に、分厚い封筒が置かれた。
「約束の報酬だよ」
アダルト動画配信サービス〈メイクラブポケット〉で得た収益の取り分だった。
翌朝。ユウタがソファーで寝たものの、またいなくなるのではないかと気になって上手く眠りにつけず、寝不足の頭のままで見た封筒の中身は、現実味を帯びない。
「こんなにいらないよ」
「バーカ。晴れて無職になるんだろ。金は大事だぞ、オジョーサン」
時計は朝の六時半を指している。
そっか。わたし、会社を辞めるのか。
母に宣言した事も、鈴木君の正体を知ったのも、全部遠い過去の出来事みたいだ。目の前にユウタがいる事が何よりも嬉しくて。
ユウタはキャリーケースの中身を整理している。着ているものも、部屋着にしていた黒いスウェットではなくて、ニットとデニムだ。
「ここを出ていくの?」
キャリーケースのジッパーが止まる音が響いた。ユウタが顔をあげて、にっと笑う。
「立花ともう一度話してくる。おまえに手出しなんかさせねーよ」
「……あの
そんなの嫌だと思った。ユウタのためじゃない、わたしのためだった。
恋心は、時に身勝手な感情を生み出してしまう。大事にしたいという気持ちも確かにあるのに。
「俺は、俺のやりたいようにやるさ」
ユウタは立ち上がった。
今度こそいなくなるんだ。喉の奥が熱くなる。でも、言えなかった。行かないで、なんてそれこそわたしの勝手な言葉にしかならない。
「妃奈子」
ユウタが言う。
「スマホ、変えるなよ。おまえは放っておけないから、何かあったら連絡してこい」
ベッドの上で見せていた時と同じ、わたしを丸裸にする瞳で。
「連絡、していいの……?」
「そう言ってるだろ」
「何もなくても、連絡していい……?」
冬の朝はまだ暗い。カーテンを閉めているせいか、まるで世界に切り離されたような空間で、それだけを言うと、ユウタが声をあげて笑った。
いいとも悪いとも答えずに、キャリーケースを引きずってリビングを出た。廊下がもっと長ければよかった。この部屋から出る時間を稼げればよかった。だけど、ユウタはあっという間にくたびれたスニーカーを履いて、後ろに立つわたしを見る。
「ごめんな」
何の謝罪か分からず首をかしげると、ユウタが頭一つ分背の低いわたしを見下ろした。
「好きだって言ってくれたけど、俺にはやっぱり分からねーよ」
澄んだ瞳が少しだけ充血していた。眠れなかったのはユウタも同じだったのかもしれないと思った。
一緒にいることもかなわない。それでも仕方なかった。立花さんの言う通り、わたしはユウタを、ユウタの強がりを、悲しみを、悔しさを、理解できない。それらを共有できないのなら、共に過ごす意味がない。
「ありがとうな」
ユウタの、低すぎず高すぎない心地のいい声が、狭い玄関に浮かぶ。
「色々、世話になって。……妃奈子、あんまり無理しないようにな」
「無理って?」
「おまえは何かに夢中になると、周りが見えなくなるからさ。無茶すんなよ。俺で最後にしとけ」
アイドルみたいな決め台詞を残して、ユウタはドアの向こうに消えていった。最後までずるい男だった。
おぼつく足でリビングに戻ると、テーブルにはタブレットが置きっぱなしだった。ユウタが忘れるわけがない。わざと置いていったんだ。
ラグの上にぺたりと座って、タブレットを開く。メイクラブポケットのアプリを開くと、いくつかの通知があった。
〈ラブラブゆうひな、萌える~〉
〈きゅんきゅんします〉
〈ショート動画もどんどんアップしてほしい〉
思わず指先がタップしたのは、最新のショート動画だった。
『ヒナー、コーヒー飲みたい』
キッチンで洗い物をする〈ヒナ〉の背中に、〈ユウ〉がそっと抱きつく。
『えー、今洗い物しているんだけど』
『それが終わってからでいいからさ。ヒナが淹れるコーヒーがいちばん美味しいんだよ』
偽りだらけの映像だ。理想を凝縮しただけの、視聴者ウケを狙っただけのストーリー。
ユウタが甘えるように可愛らしく物を頼んできた事なんて一度もないし、コーヒーを淹れるのも几帳面なユウタの方が上手かった。それなのに、マスクをした二人は微笑み合って、シンクの前でくっつきながらコーヒーを淹れている。
こんなのいらない。
悪態だらけでいい。不味いものは不味いと言われたっていい。ちょっとした価値観の違いで言い合いをしたって、本物の生活は確かに存在していたのに。
偽りの幸せは、ぐにゃぐにゃに歪んで見えた。目頭が熱くなり、思わず目を擦る。拭っても拭っても、涙が溢れる。ラグの上に伏せるようにして、わたしは泣いた。
『ユウ、大好き』
動画はあと十秒ほどで終わるだろう。
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