10 それぞれの道を歩み始めました

第43話

 マンションの部屋に着くなり、掴んでいた腕を振りほどかれた。


「どういう事だよ?」


 ユウタの声は怒っていた。


「俺、言ったよな? おまえには家族がいる。それに、きちんとした勤め先を捨てるなんて、何を考えてんだよ」

「わたしは……、」


 シンクに残ったユウタ専用のマグカップ。リビングの端に置かれた荷物に、丁寧に畳まれた布団。

 三か月前にはなかった物達が、今では必要不可欠だ。


「ユウタが好きなの」


 リビングの真ん中で腕を組んでしかめ面していたユウタの表情が、揺れた。


「ユウタが好きなんだよ」

「それは、推しとしてだろ? ただのファン感情だ」

「違う。恋愛という意味で好きなの」

「馬鹿馬鹿しい」


 吐き捨てるように、ユウタが言う。


「俺と寝たからといって勘違いするな。あの女と同じだよ。そんなの恋でもなんでもねーよ」

「じゃあ、何なのか教えてよ!」


 ただのファン感情ならよかった。ファンサというわずかな見返りだけで、わたしの全部を注ぎ込んで満足できる程度の感情であればよかった。

 だけど、一緒に暮らし始めてから見えてしまったから。丁寧に施された日々。心地よい空間。他愛のないやりとり。

 そして、垣間見えたユウタの優しさ。几帳面さ。弱さ。やりきれなさ。


「ユウタを守りたいと思ったんだよ……」


 絞り出すようにつぶやくと、ユウタが顔色を変えた。ふらふらとした足取りでソファーに座り、しばらく黙り込んだ後、


「俺を、憐れむな」


 うつむいた顔の前で両手を組んで、つぶやいた。聞いた事のないほどの弱々しい声だった。


「守ってもらう必要なんかねーよ……」

「でも……」

「あの女に飼われていたのだって、俺の意思だ」


 じゃあ、どうしてそんなに悲しそうな空気を醸し出すの。


「そうじゃないと、生きていけなかった。金も学もない、ガキだった」


 ソファーでうつむくユウタの前に膝をついて、組まれた両手に触れてみると、振り払われなかった。だから、両手でぎゅっと包み込む。

 付けたばかりのエアコンがこうこうと鳴っている。スリッパを履いたままの足元が、じくじくと冷えていく。

 どのくらい時間が経っただろう。ユウタがゆっくりと顔をあげた。


「俺は、傷ついてなんかいない」


 客席に歓声を浴びさせた瞳が、わたしを捕らえる。


「後悔していない。俺が選んだ道だ」


 なんて綺麗なんだろう。

 決して平坦な日々ではなかったはずだ。だけど、恵まれなかった環境を自分のせいにしない強さや芯を持って、まっすぐに生きている。その姿に、わたしは惹かれたんだ。

 傷ついていないわけがない。ただ、傷ついていないと思い込もうとすることで、自分自身を守る以外の術を持たない、幼い男の子だった。


「ユウタ」


 もう好きだなんて言わないから。

 セックスもしなくていい。義務感に駆られて家事をしてもらわなくていい。

 だから、せめて。


「一緒にいようよ」


 ぎゅっと握った手の甲に、ぽたりと水滴が置いた。


「馬鹿だな」


 ユウタがくしゃりと笑った。


「なんでおまえが泣くんだよ」


 初めて見る笑い方で、泣いてるのはユウタみたいに思った。

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