第40話

 声も出ないわたしを立ち塞ぐように、立花さんが姿勢を正した。


「ユウタ、中に入っていなさい」

「なあ、何してんの!?」


 ユウタの問いかけの先は、わたしだった。

 さすが歌を歌っていた人の声量は違った。天井の低い廊下で、ユウタの声がぐわんぐわんと反響する。


「ユウタを、連れ戻しに来たんだよ」

「何のために?」


 思いもよらない質問が、ぐさりと突き刺さった。

 立花さんとわたし、何が違うんだろう。ユウタを好きで、ユウタを取り返しに来る。

 ユウタは立花さんに飼われていたという。じゃあ、わたしは?


「ヒナ」


 ユウタがわたしを呼んだ。本名じゃないほうの名前で。


「そのタブレットを見たんだろ?」

「うん……」

「じゃあ、俺がここに来た理由も分かるよな?」


 今日もレザージャケットを着たユウタの視線が、わたしの抱えているタブレットを捕らえた。つんと胸の奥が詰まった。

 立花さんの言う通り、わたしは理解できていないのかもしれない。だけど、ユウタの言わんとする事を手に取るように分かるのは、傲慢だろうか。


「帰れよ」


 その言葉が、反対の意味を持つという事も。


「嫌だ」

「帰れっつってんだろ!」

「ここが! ユウタの戻りたい場所だなんて! わたしには思えない!」


 ユウタが姿を消した理由。

 わたしと同じだった。もがいても足掻いても、引き戻されてしまう。思考を止めて諦めるという事は、何よりも楽な生き方だから。


「別にいいのよ、あたしは。どっちでも」


 腕を組み直した立花さんが言った。


「ユウタがきちんと契約してくれるなら。なんなら、長崎サンもやってみる?」


 話の内容が見えない。


「何の話ですか」

「AV出演よ。長崎サンができないはずないわよねぇ?」


 できないはずない。それは間違いではない。ただし、わたしの行動理由はいつだってユウタだけだ。ユウタがうなずかなければ、意味がなかった。


「やめろよ」


 コートを羽織った腕を掴まれた。いつもと同じ感触にほっとした。


「行こう、妃奈子」


 今度はいつもの呼び方で。

 ユウタに引っ張られるようにしてエレベーターに乗った。腕を掴まれたまま。

 ヤニ臭いエレベーターを降りてビルの外を出たら、やっと深呼吸できた気がした。


「妃奈子」


 わたしの隣で、ユウタが口を開く。


「仕事は?」


 感動的な救出劇ではなかったとはいえ、開口一番がそれなのかとなんだかおかしくなった。


「抜け出した」

「は?」

「鈴木君に連れられて」


 今朝の出来事を簡単に説明すると、わたしの腕を握るユウタの力が強くなった気がした。


「鈴木って、先週末に一緒に飲んでいた奴だよな? 後輩って言ってたっけ」

「そうだよ」


 答えながら、果たして本当にそうなんだろうかと疑問が生まれた。

 用意周到の道具に、ピッキング技術。物怖じせずにユウタの家にも侵入した。不審なDMの犯人はユウタの元マネージャーである立花さんで間違いないのだろうけど、鈴木君もやたらとユウタについて気にかけていた。

 ――俺には、責任があるんです

 責任って、何。

 いつの間にかユウタの腕が離れていた。レザージャケットの背中を慌てて追いかける。


「ユウタ」


 駅前でようやく追いつくと、ユウタは立ち止まった。


「俺だったらよかったのに」


 視界の端には、クリスマスの派手な装飾をしたスーパーがちらちら映った。

 ポケットに手を突っ込んだユウタが、うつむいてつぶやく。


「妃奈子の傍にいたのが、俺だったらよかったのに」


 電車の音が響いた。不規則なリズムを伴って。

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