第36話
パソコンでメールチェックしていた鈴木君が、眉をひそめてわたしに振り向いた。
「喧嘩でもしたんですか」
「そんなんじゃない」
ユウタとわたしは、喧嘩ができるほどの仲でもなかった。こうして身動きできないのが、いい証拠だ。
「相手の住んでいたところや、行きそうな場所は知らないんですか」
「元々住んでいたところは知ってる、けど……」
「その様子だと、警察には相談していなさそうですね」
鈴木君の座ったキャスター付きの椅子が、小さく軋みを立てた。
「警察には、言えない……」
ユウタの事情は複雑に絡み合っている。
そうでなくてもアダルト向け動画を配信していて、ユウタはドマイナーとはいえ元アイドルだ。警察は駄目だ。それより、何よりも。
「鈴木君じゃ、ないの?」
「何がですか」
「変なDM、送っていたんじゃないの」
鈴木君の表情が、ますます訝しげに変わる。
「……何の話ですか」
じゃあ、誰なの。
安易な計算によって導き出した答えが、正解じゃないというのなら。
「おまえら! 喋っている暇があったら仕事しろ!」
始業時間のニ十分前でも、村田課長は出勤と同時にわたし達に業務を命じる。
「長崎! メールで頼んだ資料はできているんだろうな?」
「えっと……、あれは明日までって書いてあるので、まだ……」
「馬鹿にしてんのか、おまえは!」
机の上を叩く音が、胃にきりきりと響いた。
「上司の俺が言ったものは、すぐに作るものだろう!」
村田課長からメールが届いていたのは、今朝八時だった。
資料作成の依頼に気付いたのはつい先ほどだ。数時間では終わらない量で、今日の残業を覚悟し始めたところだった。それに対して、わたしの仕事が遅いと言われるのだろうか。就業時間外に送られたメールにさえ。
溜まっていくタスク。散らかっていく机の上。矢を浴び続けてすり減っていく心。
「村田課長」
鈴木君がわたしの腕をつかんだ。
「長崎さんの体調がすぐれないので、早退してもらいます。心配なので、僕が自宅まで送ります」
「な、何を勝手な事を……」
「今年度もあと三ヶ月で終わるというのに、長崎さんの有休は一日も使われていませんよね。それに、残業代だって支払われていない可能性もある。……いいですよね?」
やたらと圧のある物言いに村田課長が口ごもった隙に、鈴木君に引っ張られるように部屋を出た。廊下には他の部署の社員がのんびりと歩いている。同じ会社にいるのに、まるで別の世界だった。
階段を駆け下りて一階からビルを出た頃には、首筋の後ろにうっすらと汗をかいていた。そういえばコートを着たままだったけれど、荷物は。
「はい、長崎さん」
鞄を渡され、わたしの荷物を鈴木君が持っていた事に気付いた。混乱しながらそれを受け取り、鈴木君を見上げる。
ビルにはサラリーマンやOL達が吸い込まれていく。ビルの前で立ち止まっているわたし達が異質みたいだ。どうしよう、と思った。会社に戻らなくては。正しく生きなければ。トラブルを起こす訳にはいかないのに。
「彼氏さんを探しに行くんでしょ?」
鈴木君の一言で、目の前の景色の色が変わった。
「……彼氏じゃないよ」
「もー、どっちでもいいっすよ、この際。ほら、行きますよ」
不審なDMの犯人が鈴木君なのかと疑ってしまった。でも、今だって怪しい。
どうしてただの同僚であるわたしに優しいの。
「どこに行けばいいの……」
「そうだなぁ……、彼が元々住んでいた家。長崎さんは知っているって言ってましたよね。まずはそこから行ってみますか」
「ユウタが、自ら帰ったって事?」
考えもつかなかった。荷物をすべて置いたうえでユウタがわたしから逃げたのだとしたら、ユウタが攫われた事以上にショックだ。
「それは行ってみないと分からないでしょう」
鈴木君に背中を押されるようにわたしは電車に乗った。
ユウタの住んでいた地域。決して治安がいいとは言えない場所。窓から見える景色を眺めながら、いつかの母の言葉を思い出した。
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