08 失踪してしまいました
第34話
週末の天気は雪予報だった。
そのせいもあって、土曜日の朝に目が覚めてもベランダに洗濯物は干されず、ユウタの鼻歌が聴こえる事もなく、時間は静かに流れていった。
「妃奈子、夕飯は何がいい?」
今までにない会話が不完全に落ちる。
「中華が食べたい。中華!」
「例えば」
「エビチリとか小籠包とか」
「もっと手軽なものを言えよ」
軽口を叩くふりをして、一定の距離感を保っている。
金曜日の出来事はなかった事になっている。ユウタは何も聞かないし、わたしも何も話さない。会社での出来事も、母についても。
鈴木君からは何の連絡もない。元々、社外で連絡を取り合う仲でもない。嫌な予感ばかりが脳を巡る。ユウタには、まだ何も言えない。
日曜日の午後三時。レース越しに見える空には、分厚い雲がかかって暗かった。金曜日に母が着ていたコートと同じ、光を映さない色だ。
「あ……」
ソファーに寝そべってタブレットをいじっていたユウタが、声を漏らした。
「再生回数が、最速でまわっている」
「ユウヒなチャンネル?」
「ああ。最新の動画」
半月前に撮影した、アダルトグッズを使用した動画は、確実に再生回数を伸ばし、チャンネル登録者数を増やしていた。
わたしは窓際からソファーに移動し、タブレットを覗き込む。高評価数も多く、表示されているコメントも好意的なものだった。
よかった。これでわたしの存在意義は保たれる。ユウタの目的に、必要な存在でいられる。収益が増える事はいい事なのに、どうして心臓がきりきりと痛むんだろう。
金が必要だ、と半年前に再会したユウタが言った。ビジネスカップルであるユウとヒナが生まれた理由。
サムネイルには、人目を引くフォントとマスクをしたわたしが映っていた。
ポン、と最新コメントが更新される。
〈ラブラブでうらやましいです〉
そんなんじゃないよって思った。
今でも同じソファーの上に座っているのに、夕飯の献立を話したりしていたのに、共有しているものは何もない。
タブレットの画面が真っ暗になった。ユウタがアプリを落としたのだ。
「よし、買い出しにでも行くか」
ソファーから立ち上がったユウタが、穏やかに笑った。またわたしの知らない顔だった。
コートを羽織って外に出ると、天気予報通り雪がぱらぱらと舞っていた。傘を持ってくるのを忘れたけれど、ユウタは慣れた足取りで歩いていく。鼻先に触れた冷たい風が、ユウタとの間を吹き抜けた。
そういえば、ユウタとこうして外出をすることなんてほとんどなかった。スーパーの買い出しに誘われたのも初めてだった。
周囲を見渡しても、わたし達を監視するような不審者はいなさそうだ。それでも怖くて、ユウタの袖を掴んだまま歩いても、文句は言われなかった。こんな時だというのに夢を見た。普通の、ただのカップルがスーパーで買い物をするというささやかな日常を。
その日の夕食では、小籠包は出なかったものの、食卓にはエビチリやチンゲン菜と豚肉の炒め物、卵スープが並んだ。どれもユウタが作ったものだった。
とても静かで、穏やかな時間だった。翌朝、ユウタが消えるまで。
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