第33話

 玄関のドアが閉まった途端、ユウタに抱きしめられた。


「ユウタ……?」


 鼻先に触れるユウタのジャケットの感触がひどく冷たい。わたしが温めてあげたいと思った。ユウタを守らなければ。


「俺……」


 わたしの耳元で、ユウタがぼそりとつぶやく。


「俺、おまえの事、何も知らねぇ……」


 そんなの。

 わたしも同じだ。どう答えていいのか分からず、ユウタの背中にそっと手をまわす。

 額を押し当てたユウタの胸元からは、鼓動が聴こえた。ジャケットのさらに下にある体温すら知っているのに、鼓動の速さを初めて知った。


「ユウタ」


 何をどう話したらいいのだろう。強まった腕の感触を背中に感じた時。


 ピン、ポーン……、


 不安定な音階を伴って、チャイムが鳴った。こんな時間だというのに。ユウタの身体が離れた。思わず顔を見合わせていると、もう一度チャイムが鳴った。

 慌ててブーツを脱いで、モニターを確認する。喉の奥が冷えた。


「お母さん……?」


 カメラを睨め付けるように立っていたのは、髪の毛をきっちりとまとめた母だった。カメラの向こうがぞわりと動く、のと同時に。


 ピン、ポーン……、


 先ほどよりも強い音が響いた気がして、わたしは慌てて通話ボタンを押した。


「お母さん?」

『妃奈子。こんばんは』

「こんな時間に、急にどうしたの。連絡もなかったよね?」

『あなた達が帰宅したのが見えたから寄ってみたのよ。開けてちょうだい』


 遅れてリビングに入ってきたユウタは、気配を消しながらわたしをじっと見ていた。

 モニターからの視線が痛い。


『妃奈子』


 母が言う。


『ここが誰のお部屋だか分かっているわよね?』


 圧力に屈した指先が、施錠解除ボタンを押していた。通話がぷつりと途切れる。


「俺、ここを出ていったほうがいい?」


 ジャケットを羽織ったままのユウタが言った。

 行かないで。思わず縋りつきそうになった。もう一度ぎゅっと抱きしめられたかったのに。

 玄関の鍵がまわる音と、ドアの開く音が聴こえた。母は合鍵を持っていた。にもかかわらず、わざわざ帰宅したタイミングで、インターホンを鳴らした理由。

 あなた達、とさっき母は言った。


「こんばんは」


 モニターよりも画素数をあげたような現実が、そこにあった。グレーのコートを着た母が、開けっぱなしだったリビングのドアの前に立っていた。


「一緒にいる方は、どちら様?」


 呆然と突っ立ったわたしの横で、ユウタは佇まいをなおして前に出る。


「ご挨拶が遅れて申し訳ございません」


 これまでに聞いたことのないような、大人びた喋り方だった。


諸星もろぼしと申します。実は僕、ストーカー被害に遭っていまして……」

「ストーカー?」

「はい。それで、妃奈子さんに助けていただいたんです」


 白い蛍光灯の下にある母の頬はひどく白く映った。顔色が悪いというよりも色素そのものが抜けたような、わたしの記憶よりもずっと老いていて、諸星と名乗ったユウタと同じくらい、母も知らない人みたいに思った。


「この荷物は、あなたのものなのね」


 母の視線が、リビングの端にあるキャリーケースをかすめた。


「私に許可もなく、娘の部屋に転がり込んだというの?」

「ご挨拶もせずにすみません」


 ユウタの背中は大きくて広くて、そして遠かった。

 わたし、何をやっているんだろう。ステージの上で歓声を浴びていたアイドルが、わたしのせいで頭を下げている。


「お母さん」


 しっかり立っているためにはユウタの腕が必要だった。思わずジャケットの袖を掴んで、いつの間にか自分よりも背の低くなった母を見る。


「黙っていてごめんなさい。お母さん達の名義の家にいつまでも住んでいてごめんなさい。少し、時間をもらえますか」


 ユウタが顔をあげた。代わりにわたしは頭を下げる。「妃奈子」と母が言った。


「あなたの会社での動向は、把握しているつもりよ」


 母は、わたしの小さい頃から持っているくたびれた鞄を持ち直して、「男と住んでいる事まではさすがに気付かなかったわ」と嫌味を放ち、玄関から出ていった。

 窓の外から、サイレンの音が聴こえる。リビングはしんと冷たくて、そういえば暖房を付けていないままだった。

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