第32話

 タタン、タタン。近付いた線路からは、電車の音が響いている。

 ドが付くほどマイナーな元アイドルを、ライブハウスで見た事もない鈴木君がどうして知っているの。

 確かに、わたしが歌っていたのはジャンフラのオリジナル曲だ。ユウタがベランダで気持ちよさそうに口ずさんでいるのを聴く時間が、何よりも好きだった。でも、どうして鈴木君の口からジャンフラの名前が出てくるの。


「――妃奈子」


 背後から、急に名前を呼ばれてどきりとした。思わず振り返ると、


「ユウタ……?」


 明るいネオンの下。疲れたサラリーマンや予備校帰りの学生達に混じって、ユウタが立っていた。

 ブーツを履いた足元が、とたんに輪郭を帯びる。鈴木君の視線がユウタに移った。


「長崎さんの知り合い?」

「そいつ、誰?」


 黒いレザージャケットを羽織ってキャップ帽を深く被ったユウタは、お忍びアイドルのようだった。できるだけユウタと鈴木君を近づけたくなくて、わたしは慌ててユウタに近付く。


「鈴木君だよ、会社の後輩の」

「へー。ドーモ」


 ジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま平坦な挨拶を述べたユウタに、鈴木君は微笑んで「こんばんは」と返している。


「よかった、長崎さん。お迎えがあったんですね」

「えっと……」

「じゃあ、僕はこれで失礼します」


 営業マンのように、会社内でよりもずっと丁寧な挨拶を残して、鈴木君は駅構内に消えていった。会社内で誰よりも近い人だと思っていたのに、知らない背中だった。どくどくと胸の奥がうるさい。

 意識を逸らすようにユウタを見上げると、ユウタは両手を擦りながら白い息を吐いていた。


「ユウタ……」

「なに」

「寒くない?」


 訊ねると、


「寒いに決まってんだろ? 馬鹿かおまえは。こんなところまで俺を呼び出しやがって」

「ええ? 嘘!」


 慌ててスマホを確認すると、確かにわたしはユウタに〈迎えに来て〉と駅名の出口と共にメッセージを送っていた。


「ご、ごめん。酔っ払ってて……」

「別にいーけど」


 ICカードを持っていないユウタが切符を買うのを待ってから、改札口を抜けて電車に乗る。金曜日の夜の車内の空気は、疲労感と解放感がミックスされている。普段は一人で見る光景を、ユウタと並んで見る。電車内はいつも、暖房が効きすぎている。

 恋している女の顔、にならないように、わたしは口元をマフラーに隠した。

 

「会社の、後輩と」


 タタン、タタン。近くに立っている女子高生同士がぼそぼそ喋っているのをぼんやり眺めていたせいで、すぐ隣で話そうとするユウタの声に少しびっくりした。


「仲いいのか?」

「え、別に普通だけど」


 タタン、タ……タン。リズムが崩れる。車内放送が、まもなくわたし達の降車駅への到着を教えてくれる。

 でも、たった今、分からなくなってしまった。鈴木君という存在。知るはずのないユウタを知っていたかもしれない事。

 ――かならず男を見つけ出す

 不穏な空気を分解できないうちに電車が停車し、ドアへと向かう。ひどい満員電車ではないのにドア付近まで辿り着くのに苦労して、そしたらユウタに手を掴まれた。


「ほら、帰るぞ」


 キャップ帽をかぶったユウタに引っ張られるように歩く。改札を出てマンションのエントランスに着くまで、ユウタは一言も話さなかった。わたしの手を離さないまま。

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