07 深夜に遭遇しました
第31話
目の前では鍋がぐつぐつと煮立っている。
「やっと長崎さんと飯に来れて嬉しいっす」
湯気の向こう側で、鈴木君が軽やかに笑った。
この三日ほどの会社内はとても平和だ。村田課長がインフルエンザウイルスに感染して、病欠中だった。
わたし達の所属する部署は、最年少の鈴木君と、その一歳上のわたしを除けば全員三十代以上で、だからわたしと鈴木君の結束力が強くなるのも無理はない。グラスを合わせて口に含んだビールが、程よく泡を弾かせながら喉を通っていく。
「奢ってくださいなんてか弱い後輩のふりをするつもりはないですし、いっぱい食べて発散しましょーね。先輩」
「本当にそう思ってるの?」
「当たり前じゃないっすか。いくら長崎さんがお嬢様だからって、先輩の財布を狙おうなんて思っていませんって」
「それ怪しいなー」
軽口を叩きながら、笑って。奢らないという約束の代わりに、鍋の具材はそれぞれで取り分けて。
鈴木君だって、わたしのコネ入社を知らないわけがなくて、それを隠そうとするわけでもなく、いい塩梅でネタにして、笑って、吹き飛ばして。
たぶん、わたしが村田課長に強く当たられている理由も知っているはずで。
でも何も言わずにさりげなく気遣ってくれる行為が今の時間に繋がっているのだと思うと、胃の中がほっこりと温かくなった。平均年齢の高い部署で、鈴木君がいてくれてよかった。
「長崎さん、最近彼氏さんとどうですか?」
あまりにあっけらかんと訊かれたので、少し反応が遅れた。
「……同居してるけど彼氏じゃないって、前にも話したよね?」
「そうですけど。でもあんな美味そうな弁当を横で食べられていて、信じるわけないじゃないですか」
それに、と豚肉を箸で掴みながら、鈴木君が言う。
「長崎さん、恋している女の顔してますもん」
「え……?」
「あー……、こういうのってセクハラなんすかね。すみません。酒入ってるんで」
鈴木君は律義に頭を下げた後、話題を好きな映画に変えていった。
恋している女の顔。左手でそっと頬に触れてみる。ただの同僚である鈴木君に気付かれているのに、ユウタが気付かないわけがない。あんなに目敏くて、鋭くて、容赦のないユウタが。
わたしは慌ててビールを飲み込んだ。苦みを身体いっぱいに浸透させる。
それからは、映画や電化製品の話題や、村田課長への愚痴で盛り上がった。それ以上、ユウタの話題は出ることはなく、店を出たのは飲み始めてから二時間後だった。
「長崎さん、大丈夫ですか?」
「んー……?」
「さっきまで平気そうだったのに、急に酔っ払いましたよね?」
頭のなか、ふわふわする。
約束通り割り勘で支払いを済ませて外に出る頃には、雲の上を歩いているような感覚になっていた。
十二月にもなると街中の景色が一気に明るくなる。どこもかしこもカラフルなイルミネーション、サンタクロースなんていないって知っているのに、みんなクリスマスが大好きだ。
「酔っ払ってないもーん」
「酔っ払いこそそう言うんですよ。長崎さん。何線に乗るんですか?」
会社近くの居酒屋から駅までは遠くない。答えるのも億劫だな。電車に乗って帰るのも、マンションのエレベータに乗るのも、今夜も何の感情も抱いていないふりをしてユウタと接するのも。
そういえばお酒を飲んだのも、外食をしたのも、ずいぶん久しぶりだった。排気ガス交じりの冷たい風が頬に触れて気持ちがいい。
五年前もこうだった。寒い日も暑い日も、夜の街をこうして歩いた。ライブの興奮を引きずったまま見えたネオンは、とても眩しかった。
あの古いライブハウスは、二年前にビルごと解体されてしまった。
「長崎さん」
わたしの横を歩きながら、鈴木君も愉快そうに笑う。
「それ、何の歌ですか?」
「えー、何が?」
「いま鼻歌うたってたでしょ。すっげー楽しそうに」
「えー……そうだっけー……?」
天気のいい日曜日の朝が恋しい。ベランダで洗濯物を干すユウタの背中をこっそり眺めるのが好きだ。わたしの生活は、ユウタなしでは成り立たなくなってしまった。
「ジャンクフラワー」
ぼそりとつぶやかれた低い声。
冷たい空気に、ひとつの名前が浮いた。
「……っていう地下アイドルがいましたよね」
思わず立ち止まる。急激に酔いが冷めてしまった。鈴木君は、レンズ下の目を細めて笑う。
「長崎さんの鼻歌、彼らの曲じゃないかなぁって思って」
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