第26話
声が聞こえる。
スリッパを履いた足で階段をあがる音が静かに響く。そしてドアがそっと開く音。
――妃奈子、風邪をひいちゃったの?
お母さん。
いつもわたしより早く起きて、自分の身だしなみなんかよりも先にお弁当や朝ごはんを作ってくれて、家の事をしてくれた。大人になったら分かる。それがいかに大変だったかという事。当たり前ではないという事。
ごめんなさい。
寒さに震えながら、わたしは泣いた。
上手くできなくてごめんなさい。
仲良しの友達を作れなかった幼稚園時代も、先生の質問に手をあげられなかった小学校時代も、受験をくぐり抜けてどうにか進学したもののついていけなくなった中学校時代も、彰吾に出会ってそれ以外何も見えなくなった高校時代も。
お母さんにとっては、理想の娘ではなかったんだ。
――ちゃんと温かくして寝ていないと、治らないわよ
どこからか知れない寒気がぞくぞくと這い上がってきて、身体の震えが止まらなくなる。熱があがっているのかもしれなかった。重力のバランスがおかしくなって、目を閉じているはずなのに、目の前にあるものの感触が遠ざかったり近づいたり心地悪い。
そっと毛布を掛けられる。その気配に熱い息を吐いた。
ヒステリックで、支配的で、厳しかったお母さん。でも、優しいお母さんも確かにいた。ちゃんと心が憶えている。
トントントン。どこからか包丁の音が聴こえる。換気扇の音、水道水を流す音、体温調節の効かなくなった耳元に心地よく広がっていく。そして、漂ってくる出汁の匂い。
「妃奈子」
わたしを呼んだのは、お母さんじゃなかった。
男の人の声。ずっと大好きで、追いかけて、それでも好きで好きで、いなくなった時には世界が終わってしまった。
だから、あの春先の、取引先のビルで。
清掃員の恰好をしたユウタに出会えた時、夢だと思った。何が何でも縋りつかなければ。傍にいなければ。たとえ身体を晒してでも。
「……寝ているのか」
そっと頭に触れられる。お母さんの手よりもずっと大きくて、ごつごつして、わたしのよく知る手のひらだ。この手がどんな風にわたしの身体に触れて、わたしを蕩けさせるか、わたしは知っている。
「ユウタ……?」
うっすら目を開けると、輪郭の淡い視界でユウタがふっと笑った。……気がした。
「大丈夫か? お粥、作ったけれど。食べられそうか?」
わたしの知っているユウタじゃないみたいだ、となんだか可笑しくなって、わたしはくすくすと笑ってしまった。
まるで王子様みたい。
ああ、でも最初から王子様だったかな。何が本当で、何が嘘か、分からないな。
ユウタの事を何も知らないと思っていたけれど、二か月という重ねた時間は確実にわたし達の何かを変えたのかもしれない。
「食べる……」
「よし、持ってきてやる」
「ユウタ……」
思わず呼び止める。
「これも、撮影する……?」
「……馬鹿な事、言ってんじゃねーよ」
ユウタにしては珍しく、皮肉のない笑い方だった。胸の奥がちくちくして、心地がいい。
熱を持った頬がひりひりと痛んだ。まるで泣いた後のような。もしかしたら、嫌な夢でも見ていたのかもしれない。
やがて、ユウタがトレイにお茶碗とお茶の入ったグラスを持ってきた。
「起き上がれそうか」
「うん……」
ベッドの上でのそのそと起き上がる。リビングで付けられている照明が眩しい。
「食べられそうか」
サイドテーブルにトレイが置かれるのをぼんやりと眺めながら、
「食べさせて」
そう言うと、途端にユウタが表情を崩して笑い声をたてた。
「おっまえなー……。撮影でもする気か? やっさしーユウが、愛するヒナを看病するショート動画。バズりそうだな」
愛するヒナ。どきりとした。ヒナはわたしであって、わたしじゃない。
「いやだよ……、こんなボロボロなのに」
「冗談だよ。余計な事考えずに、食え」
スプーンに乗せられたお粥が口元に運ばれる。アルミ製のスプーンが唇に触れて熱かった。さっきまでは鼻詰まりを起こしていて呼吸するのもままならなかったのに、出汁の香りが心地よい。
「ユウタ……」
思考がうまくまとまらない。
「どうしてこんなに美味しく作ってくれるの……?」
風邪のせいか、これまで当たり前のように享受した事が心にしみた。鼻声がこぼれて、もしかしたらデリカシーのない話題だったのかもしれないと気付いたけれど、ユウタは嫌な顔をする様子もなく、お茶碗から再度お粥を掬う。
「なるべくして、なったんだ」
五年前のいつかのライブで、ユウタはメンバーに弄られていた。料理ができなくて、味音痴で、何を食べさせても感動する安い男だと。
それは、ユウタの育ちに関係していたのかもしれない。
「ジャンフラで活動していた時は料理できなかったけれど、解散した後に叩き込まれた」
「マネージャーさんに……?」
「そう」
解散した後。
五年間の空白を、わたしは知らない。でも、ユウタの口ぶりから、平坦な日々ではなかったのだとうかがえた。
「悪いな」
ゆっくりと暑いお粥を咀嚼するわたしの前で、ユウタが弱々しく笑った。
「俺の話なんてどうでもよかった。おまえに余計な気を遣わせただけだな」
「どうでもよくなんかない!」
思わず小さく叫んだことで、熱の塊が胸に落ちてわたしは咳き込む。
「だってわたしは」
わたしは。
どんなに咳き込んでも、喉の奥の塊は溶けない。それどころか熱はどんどん広がっていって、わたし自身を焦がしていく。
「妃奈子」
ユウタが咳き込み続けるわたしの背中をそっとさすった。その感触が遠くて、寂しくなった。こんなに近くにいるのに、寂しい。客席からステージを見上げていた時よりもずっと。
人間の細胞は二、三か月で生まれ変わる。ユウタと暮らして二か月、わたしの身体はユウタから与えられたもので再構成されてしまった。そんな生活を、あの綺麗なマネージャーはそのサイクルを何度も繰り返してきたのだろう。
ユウタの意思を無視して。
だから、言えない。沸き上がったこの感情を、言葉にしてはいけない。わたしは、あのマネージャーと同じ道を歩かない。
ゆっくりと深呼吸をする。ユウタの手のひらの感触が遠ざかったのと同時に、ベッドに座ったままユウタを見上げた。
「お粥、美味しかった。ありがとう」
ユウタが「どういたしまして」と微笑んだのは、夢かもしれないな。
再び夢うつつの入口にゆっくり潜っていく。リビングの照明を受けたユウタの黒髪が、さらさらと眩しい。綺麗だな。格好いいな。さわりたいな。思わず手を伸ばすと、「ゆっくり寝なよ」とユウタが笑ってわたしの頭を撫でた。その感触にほっとする。
手で触れられるものは、分かりやすくて好きだ。温度を感じられるものは、気持ちよくてもっと好きだ。
目を閉じると、少し前に見た夢の残像が瞼の裏に映った。お母さんの気配が遠くなる。幼かった頃の記憶と一緒に、わたしはまた迷子になる。
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