第15話

 それから数日後。大学一年生の二月、大学は早い春休みを迎え、わたしは実家に帰った。


「近所に新しいアパートができるのよ」


 母との会話のほとんどが、愚痴だった。父の仕事、親戚付き合い、近所の出来事。


「治安が悪くなるわ」


 父が仕事で不在がちである事もあり、高校卒業までのほとんどの時間を母と二人で過ごしていた。母の言う事は絶対で、わたしの世界は母によって形作られていた。

 でも、わたしは初めて違和感を覚えた。

 お母さんは正しいはずなのに、聞き入れた言葉を消化不良してしまうような気持ち悪さ。


「どうして治安が悪くなるの?」


 ぽつりと。

 浮かんだ疑問を投げかけた途端、母の顔色が変わった。

 私の言う事がおかしいというの、どうしてそんなくだらない質問をするの、あんたは黙って聞いていればいいのよ。

 言葉という鋭い矢を、何の盾もなく受け続けて、解放されたのは午後四時だった。

 駅までの道のりを重い足取りで歩く。自由になりたいのに、恐怖に襲われた。頭の中をユウタの歌声でいっぱいにして、閑静な住宅街を早足で歩いた。母の見えない鎖が鬱陶しいのに、それを失うのが怖くて、新たな鎖を求めてしまう。

 途中、子供達のはしゃぐ声が聴こえた。公園の前。遊具の傍で、数人の小学生らしい子供達が走り回っている。わたしにはなかった時間。

 学校のクラスにも馴染めず、休日に遊ぶ友達なんてもってのほかだったわたしに、声をかけてくれたのが元彼の彰吾だった。




「妃奈子……?」


 駅前の景色は変わらない。電車に乗るにICカードを鞄から取り出そうとしている時、懐かしい声に呼ばれた。


「彰吾……」


 まさに今、思い出していた元恋人だった。

 最近では脳みそをユウタでいっぱいにしていたから忘れかけていたけれど、大学生になったばかりの四月、一方的に別れを切り出された。よくわたしに声なんてかけられるな。どんな顔を向けようか、悩んでいた時だった。


「ごめん」


 彰吾が深く頭を下げた。


「妃奈子と別れた事、ずっと後悔していたんだ」

「な、何を言ってるの、今更!」


 地方とはいえ、中心地である駅前の人通りは多い。すぐ近くでは信号機が鳴り響き、平日の空気が鼻先に触れた。

 慣れない一人暮らしや、いつまでも馴染めない大学生活を送るなかで、彰吾との些細なやり取りだけが救いだったのに、それが容赦なく途切れたのだ。謝罪なんて無意味だった。


「妃奈子のこと、好きだったよ」


 過去の話も、入る余地もないのに。


「でも、妃奈子のお母さんから連絡があって……」

「え?」


 履いたブーツのつま先ばかりを見ていたわたしは、ようやく顔をあげた。そこには、高校時代よりも大人っぽくなった彰吾がいた。高校時代には見なかった、黒いコートが長身に似合っていた。


「どういう事?」

「反対されたんだ、妃奈子のお母さんに」


 子供の頃から上手くいかなかった原因を、わたしは知っていた。全てが母に管理されているわたしは普通じゃない。それにうすうすと気付き始めたのはいつだっただろう。みんなが遠巻きにわたしを見るなかで、彰吾だけが手を差し伸べてくれた。

 おしゃれなカフェや、流行りのドラマを教えてくれた。短くて儚い、わたしの青春だった。

 だけど、そのピリオドを打ったのは母だった。意外でも何でもなかった。

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