第3話

 健吾のささやかな恋が誰にも傷つけられないように、私は陰から見守っているつもりだった。だけど、高校一年生の秋、体育の授業のバレーボールで突き指をした健吾に、保健委員だった私が保健室へと付き添う事になった時、状況が変わってしまった。

 晴れやかな外とは反対にしんとした廊下を先に歩いて行った健吾が、ドアの前に立った途端、ぎくりとした表情を浮かべた。


「健吾、どうしたの?」


 突き指をした右手をかばうように両手を重ねた健吾が、困惑した顔で私を見た。私もそっと健吾の横に立って、ドアの中の様子を伺う。人の気配と同時に、声が響いた。


「でもどうしても、安本先生が好きなんです」


 私は思わずほんの数ミリだけ引き戸を開けた。仕切られたカーテンによって顔は見えなかったが、カーテンの下にある隙間から見える上履きの色は私達と同じ学年を示していた。


「ハル、もういいよ」


 体操服越しに私の肩に触れた健吾が、必死さをあらわにした目線で訴えた。音をたてないようにそっとドアを閉める。体育の授業によって乾いた口元が、今頃になってじんわりと熱を持ち始めた。


「もういいから、行こう」


 突き指をしていない左手で私の手首を掴んだ健吾が、長い脚を使ってひたすら歩く。引っ張られるようにして健吾の後ろをついていった私は、シャツ越しにも分かる浮き出た肩甲骨をただ眺めていた。掴まれた手首が全身に鼓動を与えていく。健吾と手を繋ぐのはずいぶん久しぶりで、そして今となってはあってはならない事だった。

 健吾、と呼んだ。


「大丈夫だよ健吾。安本先生は、そんな簡単に生徒からの告白を受け入れたりしない」


 フォローのつもりで差し出した言葉は、健吾にとっては酷なものだった。声に吐き出してからすぐに後悔を覚えた私に構う事なく、健吾は足を止めてゆっくりと振り返り、掴んでいた左手を離した。


「知ってたんだ……?」


 短い前髪の下にある瞳は、困惑と罪悪感を織り交ぜたような色を放っていた。否定をする事もできずにいる私は、ただ健吾の大きな手のひらの感触を手首に残したまま、視線を逸らす事もできない。

 保健室からつながる一階の廊下の窓からは、まだ体育の授業が行われているグラウンドが見える。空中に浮かぶバレーボール、それらを操る生徒達に、見守る声援。

 ハル、と私をまっすぐに見降ろした健吾が、ゆっくりと視線を落とした。日焼けした頬に映った睫毛が綺麗だと思った。入学式の後に見た時と同じ、まるで知らない人のように。


「ハル、ありがとう」


 でもその声色は私の知る幼馴染のもので、私は乾いた唇をこっそりと舐めた。心臓が所在を失ったように、不安定に脈拍を生み続けている。ふっと顔をあげた健吾が、まっすぐに私を見た。先ほどよりも意思のこもった強い視線。


「ハルがいてくれてよかった」


 そう言った健吾は、私に背を向けてゆっくりと歩き出す。よかった、と思った。すぐに健吾が歩き出してくれてよかった。嬉しいのに泣きたくなった私の顔を見られなくてよかった。

 背後で保健室のドアが開いた気配があったが、私も健吾も振り返らなかった。健吾が突き指をした右手小指は、それからも少し変形したままだ。

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