第6話 家族
達也が休職してから1週間が経った。家の中には静かな変化が広がり、空気はどこか重苦しかった。忙しい日々に追われていた頃は、夫が家にいないことが当たり前だった彩香にとって、達也が毎日家にいる現実は、想像以上に複雑な感情を引き起こしていた。
その日も朝から達也は布団から起き上がるのが遅く、リビングに現れたのは午前10時を過ぎていた。
「おはよう…」達也が小さな声で挨拶をする。
「おはよう。」彩香は表情を崩さずに返事をしたが、その声にはどこか硬さが混じっていた。
達也が休職してからというもの、彩香は彼の体調を気遣いながらも、自分の中で次第に大きくなっていく不安や苛立ちを抑えきれなくなっていた。「夫を支えたい」と思う気持ちと、「この先どうなるのだろう」という不安が胸の中でせめぎ合っている。
夕方、幼稚園から帰宅した子どもたちは相変わらず元気だった。
「パパ!今日ね、幼稚園で鬼ごっこしたの!」結衣が大きな声で話しかける。
「そうか、楽しかったか?」達也は微笑みながら応じる。
「うん!でも翔太くんが転んじゃったの!」
その光景を見つめる彩香の胸には、言葉にできない焦りが芽生えていた。子どもたちの無邪気な笑顔を見るたび、「このまま達也が何も変わらなかったらどうしよう」という不安が、じわじわと胸を締め付ける。
その夜、子どもたちが寝静まった後のリビングには、達也と彩香が向かい合って座っていた。テレビの音は消され、2人の間に漂う沈黙が、互いの心に重くのしかかる。
「達也、最近どう?」彩香が思い切って口を開いた。
「どうって…何を聞きたいんだ?」達也は眉をひそめた。
「いや、なんていうか…少しは楽になったのかなって。」彩香の声は穏やかだったが、その裏には微妙な緊張感が隠れていた。
達也は少し目をそらして答えた。「正直、何も変わらないよ。何をすればいいのかもわからないし、ただ時間だけが過ぎてる気がする。」
その言葉に、彩香は抑えていた感情が突き上げるのを感じた。
「時間だけが過ぎてるって…。私は毎日、家事に子どもの世話に追われて、時間なんて全然足りないのに…。それに、達也が休職してから、私だってどうすればいいのかわからないのよ。」
その言葉に、達也の表情が険しくなった。
「そんな言い方しなくてもいいだろ。俺だって好きでこんな状態になったわけじゃないんだ。」
「わかってるわよ。でも、あなたが家にいることで、私にも責任が増えてるってこと、少しは考えてくれてるの?」
彩香の言葉には、普段抑えていた苛立ちが滲んでいた。達也は返す言葉を探しながらも、何も言えずにうつむいた。
沈黙が続いた後、彩香は深いため息をついて話し始めた。
「ごめん…。達也を責めるつもりじゃないの。ただ、私も不安でどうしようもなくなる時があるの。」
達也は顔を上げ、彩香の言葉に耳を傾けた。
「達也が家にいるのは嬉しいよ。これまで寂しい思いをしてたし、子どもたちも喜んでる。でも、あなたがこの状態からどうやって立ち直るのか、その答えが見えなくて…怖いの。」
彩香の目に涙が浮かんでいた。それは達也を責めるためではなく、彼を支えたい気持ちと自分の限界が交錯する中で生まれた、純粋な感情だった。
「私だって完璧じゃない。達也を支えたいけど、私だってどうすればいいかわからないのよ。それが情けなくて…悔しいの。」
その言葉を聞いた達也は、一瞬胸が締め付けられるような感覚を覚えた。そして、ゆっくりと彩香に向き直った。
「彩香、俺がこんな状態になって、本当にごめん。お前にばかり負担をかけて…。でも、もう少しだけ、時間をくれないか。俺もどうにかしたいと思ってるんだ。」
彩香は涙を拭いながら、達也の言葉に頷いた。
「わかった。でも、私たちは1人じゃないよ。達也も私も、家族だから。だから、お互いに頼りながら進んでいこう。」
その夜、2人の間には少しだけ温かい空気が戻った。彩香も達也も、すぐに全てが解決するわけではないことを知っている。それでも、心の内をさらけ出したことで、少しだけ前に進めた気がした。
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