第1部:休職生活の始まり

第5話 無気力の底で

休職初日。

達也は布団の中で天井を見つめていた。起きるべき時間はとっくに過ぎているが、体を動かす気力が湧かない。布団の外に出るという簡単な行為ですら、巨大な壁のように感じられる。


いつもなら、慌ただしくシャワーを浴び、スーツに着替え、朝食をかき込むように食べて会社へ向かう。そんな忙しい毎日が当たり前だった。しかし今は、仕事に行かなくていい。むしろ、行けない。


その現実を思い出すたび、達也の胸には深い罪悪感と不安が渦巻いた。


「これから、俺は何をしていけばいいんだ…。」


布団の中でつぶやく声は誰にも届かない。


布団から体を起こし、リビングに移動したのは昼近くになってからだった。達也はソファに座り、何気なくテレビのリモコンを手に取った。スイッチを入れると、ニュース番組が流れてきた。


「○○企業、売上高前年比120%増加…」アナウンサーが明るい声で報じている。


達也はそのニュースを見ながら、胸にこみ上げる疎外感を覚えた。かつては自分もこの世界の一部だった。誰かに必要とされる場所があり、成果を出すことで自分の価値を証明できる。そんな生活を失った今、達也は取り残されたように感じていた。


テレビを消してスマートフォンを開くと、SNSのタイムラインに同僚たちの投稿が流れてきた。プロジェクトの進捗や、楽しそうなランチの写真…。それを見るたびに、達也は胸が締め付けられるようだった。


「みんな頑張ってるのに、俺は…。」


達也はため息をつき、スマートフォンを机に置いた。その後、ただ時間が過ぎるのを感じながら、リビングのソファでぼんやりと天井を見上げた。


昼過ぎ、買い物を終えた彩香が帰宅した。達也がぼんやりしているのを見つけると、そっと声をかけた。


「どう?少しはゆっくりできてる?」


達也はうなずきながら、「まあ、特に何もしてないけど」と短く答えた。


「それでいいんだよ。何もしない時間も大事だから。」


彩香は微笑んで言ったが、達也の胸にはその言葉が刺さった。「何もしないでいい」という言葉に救われる一方で、自分の無力さを改めて感じさせられたからだ。


「でもさ、こんな風にダラダラしてると、逆にダメになりそうで…。なんか、ちゃんとしなきゃって思うんだけど、どうしたらいいかわかんないんだよな。」


達也の声には、自分への苛立ちと焦りが滲んでいた。


「達也、これまでずっと頑張りすぎてたじゃない。だから、今は自分の心と体を整えることを最優先にしてほしいの。無理に何かをしようとしなくていいんだよ。」


彩香は優しく言葉をかけるが、達也の中ではその言葉を素直に受け入れることができなかった。


午後、達也は「少し外に出てみよう」と思い立った。家にこもってばかりでは、さらに気分が沈むのではないかという不安に駆られたからだ。


スニーカーを履き、家の周りを歩き始めた達也。冬の冷たい風が頬をかすめ、少しだけ頭が冴えるような気がした。


しかし、道を行き交う近所の人々の姿を目にすると、再び胸が苦しくなった。通勤途中のサラリーマン、家事に忙しい主婦、幼い子どもと手をつなぐ母親…。誰もが自分の役割を持ち、忙しく日々を生きているように見えた。


「俺は、今…何をしてるんだ?」


その思いが頭から離れない。結局、家の近くを一周しただけで帰宅した達也は、玄関で靴を脱ぐとその場にへたり込んだ。


子どもたちの無邪気さ

夕方、幼稚園から帰ってきた結衣と翔太が、いつも通り元気な声で「ただいま!」と玄関に飛び込んできた。


「おかえり!」達也が少し疲れた声で答えると、結衣が首をかしげながら「パパ、今日お仕事行かないの?」と尋ねた。


「今日はお休みなんだよ。」達也はそう答えたが、その言葉を口にするたび、自分自身を否定するような気分になった。


翔太はそんな達也に無邪気な笑顔で「じゃあ、今度幼稚園に来てよ!みんなにパパ見せたい!」と言った。その言葉に、達也は一瞬だけ微笑むことができた。


「そうだな…。今度、行けたらな。」


しかしその夜、子どもたちが寝静まった後、達也は再びリビングのソファに座り込み、深いため息をついた。


孤独と自問

夜の静寂の中、達也は自分の中に渦巻く感情を整理しようとしていた。家族は支えてくれる。彩香も子どもたちも、自分が休むことに何の文句も言わない。しかし、それでも達也の胸の中には「こんな自分でいいのか?」という問いが何度も浮かぶ。


「仕事がない俺に、価値なんてあるのか?」


その問いに答えを出すことができず、達也はソファで頭を抱え込んだ。その時、ふと目に入ったのは、結衣が幼稚園で作った絵だった。「家族みんなが笑っている絵」。その絵を見つめると、達也の胸に少しだけ温かいものが広がったが、それはすぐに不安や焦りに押し流された。


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