第4話 限界
その朝も達也は普段通り、目覚ましの音に反応して布団から体を引きずり出した。体の重さを感じながら、頭の中は仕事のことでいっぱいだった。目の前に待ち構える山積みの業務と、上司の山本からのプレッシャーを思い浮かべると、胃がキリキリと痛んだ。
「今日も頑張らないと…」自分に言い聞かせながら出勤の準備を済ませ、家族がまだ眠る中、家を後にした。彩香には昨夜「もっと休んだら?」と優しく諭されたが、それを素直に受け入れる余裕など達也にはなかった。
オフィスに着いた達也を待っていたのは、終わりの見えない仕事のリストだった。次々と届くメールと、会議の準備、部下たちのサポート。そのすべてが彼の肩に重くのしかかっていた。
「達也、今日の午後は例のプロジェクトの進捗会議だから、しっかり準備してくれよ。」山本がいつものように声をかけてきた。その口調には冗談めかした軽さが混ざっているが、その言葉の裏に期待と圧力を感じずにはいられない。
「はい、わかりました。」達也はそう答えたものの、胸の奥に込み上げる不安を飲み込んだ。
昼休憩になっても達也はデスクから離れることができなかった。お腹が空いていることはわかっているが、食べ物を口にする気分にはなれなかった。代わりに机の引き出しから栄養ドリンクを取り出し、一気に飲み干した。
「課長、大丈夫ですか?」隣の席から吉田が不安げな声で声をかけてきた。
「ああ、大丈夫だよ。」達也は振り返らずに答えたが、その声にはどこか力がなかった。吉田はそれ以上何も言わずに自分の席に戻ったが、その視線が心配そうに達也を見つめているのを彼は感じていた。
午後の会議が始まったとき、達也の体は限界に近づいていた。山本がプロジェクトの進捗について意見を求めるが、達也の頭は真っ白で言葉が出てこない。周りの視線が一斉に彼に注がれる中、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「次回までに具体的なプランを示してくれよ、達也。」山本の声が鋭く響く。達也は口を開こうとしたが、目の前がぼやけ、頭がぐらりと揺れるのを感じた。そして次の瞬間、意識が遠のいていった。
「加藤課長!」部下たちの声が聞こえたが、それは次第に遠ざかり、やがてすべてが暗闇に包まれた。
病院のベッドの上で目を覚ました達也を待っていたのは、医師からの診断だった。「加藤さん、あなたの症状は適応障害です。長期間のストレスが原因で、心身ともに限界を迎えている状態です。これ以上無理をすれば、さらに深刻な状態になる可能性があります。」
医師の言葉に達也は言葉を失った。それと同時に、自分自身が「病気」だと認めることへの抵抗が胸を締めつけた。
会社に戻った翌日、達也は休職について考えなければならなくなった。しかし、山本に直接その話を切り出す勇気がなかった。彼はこれまでの職場での関係性から、山本が「休む」という決断を快く受け入れないだろうと思っていたのだ。
「休職なんて許されるだろうか…?」達也は迷いながらも、最終的に労務担当者に相談することを選んだ。
労務室のドアをノックすると、中年の女性担当者が迎えてくれた。彼女は達也の状態を静かに聞き、「休職は必要です」ときっぱりと告げた。
「加藤さん、今の状態では仕事を続けることは難しいと思います。まずはご自身の健康を優先してください。」彼女の言葉は、達也の心をわずかに軽くしたが、同時に山本に伝えることへの不安が拭い去れなかった。
労務から正式な手続きが進み、山本に休職が伝えられることになった。達也は直接伝えない形になったものの、その後、山本から連絡が来た。
「達也、休むって話を聞いたけど、どういうことだ?」電話越しの山本の声には驚きと少しの苛立ちが混ざっていた。
「申し訳ありません…。体調がどうしても優れず、医師の判断で…」達也は言葉を選びながら答えた。
「そうか…。まあ、無理するなよ。ただ、君が抜けると現場が厳しくなるのは事実だ。」山本の声は冷静だったが、その裏には達也への期待が含まれていることが伝わってきた。
「すみません…。」達也はそれだけを絞り出し、電話を切った後、机に突っ伏した。山本の言葉に責任感と罪悪感が増幅し、休む決断が正しかったのか自問せずにはいられなかった。
その夜、達也は彩香に休職を決めたことを伝えた。彩香は「よかった」と安堵の表情を浮かべ、「これからは無理しないで、自分の体を大事にしてね」と優しく微笑んだ。
達也は、家族が支えてくれることのありがたさを感じつつ、自分が背負い込みすぎていたことに気づき始めていた。しかし、その胸の奥にはまだ、仕事への未練や、周囲への申し訳なさが残っていた。
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