第3話 家族とのすれ違い

夜遅く、達也が家に帰るとリビングの照明が薄暗くともされていた。時計を見ると、午後10時を少し回ったところだ。家族が寝静まるこの時間に帰宅することが当たり前になりつつある自分に、ふと嫌気がさした。しかし、それを振り払うようにスーツを脱ぎ、ため息をつきながらリビングに足を踏み入れた。


ソファに座っていた彩香が顔を上げた。「おかえりなさい。」短くそう言ったが、その声はどこか冷たかった。


「ただいま。」達也はそれに気づかないふりをして答えた。彩香の隣には、小さな山となった折りたたまれた洗濯物が置かれている。彼女は手を動かしながらも、視線を達也に向けることはなかった。


キッチンにはラップのかけられた夕食が置かれている。達也はそれに気づいて、「先に食べればよかったのに」と言おうとしたが、結局言葉を飲み込んだ。自分の帰りが遅いことが原因で、彩香に気を使わせていることをわかっているのだ。それを責める資格など自分にはない。


「遅くなってごめん。急ぎの仕事が立て込んでてさ。」言い訳のような言葉が自然と口をついて出た。


「そう。」彩香の返事はそれだけだった。声色は変わらないが、達也にはその短い一言の裏に隠された感情が見えてしまった気がした。それは、不満と不安が入り混じった感情だ。


達也はテーブルに座り、ラップを外した夕食を口に運びながら彩香を横目で見た。彼女は手を止めることなく洗濯物を畳み続けている。その背中は、どこか張り詰めているように見えた。


「子どもたちはもう寝た?」達也が話題を振ると、彩香は小さく頷いた。「うん、さっきやっと寝たところ。今日はお兄ちゃん(悠人)が珍しくぐずって大変だったの。」


「そうなんだ…ありがとう。」達也はそう言いながらも、何もできていない自分への罪悪感が胸を刺した。悠人のぐずる理由を聞きたいと思いながらも、疲れ切った頭がその言葉を選び出せなかった。


彩香は畳み終えた洗濯物を籠に移し、ようやく達也の方に視線を向けた。彼女の目にはわずかな疲れと、何か言いたげな色が浮かんでいる。しかし、それを口にすることをためらっているようにも見えた。


「達也、最近忙しいみたいだけど、大丈夫?」彩香は静かに尋ねた。その声には心配の色が含まれているが、同時に距離感も感じられた。


「まあ、忙しいけど、なんとかやってるよ。」達也は曖昧に答えた。正直なところ、自分が本当に大丈夫かどうかもわからない。ただ、家族に余計な心配をかけたくないという思いが、素直に話すことを妨げている。


「そう…。でも、無理しないでね。」彩香はそれ以上何も言わずに立ち上がり、洗濯籠を持って寝室の方へ歩いて行った。達也はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。


彩香の心の内

寝室で洗濯物を整理しながら、彩香は深いため息をついた。最近の達也の様子が気になって仕方がない。仕事が忙しいのは理解しているが、どこか心ここにあらずといった雰囲気が彼から漂っている。それが何を意味しているのか、彩香にはわからなかった。


家族のために頑張ってくれているのはわかる。しかし、それが原因で彼自身が壊れてしまうのではないかという不安が胸を締めつける。彩香は何度も彼に「大丈夫?」と尋ねようとするが、その言葉は喉の奥で消えてしまう。忙しい彼にそれを聞くことが負担になるのではないかという思いが、彩香の足を止めているのだ。


さらに、自分もまた達也との距離を感じていた。彼が仕事に追われている間、彩香は家事と育児に追われ、1日があっという間に過ぎていく。子どもたちと過ごす時間はかけがえのないものだが、その喜びを共有する相手がいないことが孤独感を強めていた。


「私たち、いつからこんなふうになったんだろう。」彩香は心の中でそう呟いた。かつての達也は、もっと笑顔が多く、家族の時間を大切にしてくれる人だった。しかし、出世してからというもの、彼は仕事に追われるようになり、家族との時間が減っていった。


すれ違う思い

リビングに戻った彩香が見ると、達也はソファで疲れた表情を浮かべて座っていた。その顔を見て、彩香は胸が締めつけられる思いがした。彼もまた、何かを抱えているのだろう。それを共有してほしいと思うが、自分から切り出すことができない。


「お風呂、沸いてるから先に入ってね。」彩香は努めて明るい声を出した。


「ありがとう。入るよ。」達也は短く答えると、立ち上がって浴室へ向かった。その背中を見送りながら、彩香は静かに息をついた。このままではいけないとわかっていながら、どうしても一歩を踏み出せない自分に苛立ちを覚える。


達也と彩香、それぞれが抱える思いは、少しずつすれ違いを生み出していく。しかし、そのすれ違いに気づきながらも、どうしていいかわからない二人の関係は、もどかしい形で続いていた。

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