終わりの時が来たんだと、誰かがそう呟いた

カッコー

〈1~3〉

〈1〉

曇り硝子を通して見える世界はいつも白かった。

僕は立ち上がってその窓を見ていた。その窓から射し込む薄明が僕の住む世界を薄れゆく陰の中に見せた。僕は東から西へと歩いた。そして南から北へと歩いた。どちらもほぼ六歩ずつだ。なぜなら寒い日々はその薄明は白さを増したし、暑い日々には薄暗くなったからだ。‥‥たぶん。

西の壁に明るい薄明が射し込んだある日に、僕は東の壁に背をつけてその輝きをみた。背中に微かなぬくもりが感じられた。そのぬくもりは遠い日の希望を思い起こさせた。でも僕の心は遠い日の希望を形づくらない。僕は目を閉じて、息を殺して頤を上げる。聞こえるのは僕の呼吸を繰り返す掠れだけだ。それでも僕はじっと聞き耳を立てる。やがて背中に感じた僅かなぬくもりが僕の胸に忍び込んできて、それは僕の皮膚の下を伝って咽に上がり、顎から頬を通ってゆき僕の眼球を包み込んだ。そのぬくもりは熱く僕の眼に沁みいった。そして記憶の遠いところになにかを呼び掛けたのだ。でもその熱さはとても酷かったから、僕は燃えてしまうように感じたから、僕は閉じた眼に歯を食いしばるように固く力を入れた。涙が一筋、頬をつたって足元に落ちてゆくのがわかった。でもその涙は床には沁み込まなかった。沁み込まずに涙は立ち上がり、それは少年時代の僕になった。ねえと彼、つまり少年時代の僕は言った。僕に言ったのだ。

「ひとつだけ、思い出がつくれるんだよ」

「ひとつだけって?」

「そう、ひとつだけね」

「思い出って、僕の思い出?」

「うん、君は思い出がないんだよ。だから僕がそれをつくってあげるんだ」

「そう‥‥、でもどうして?」

少年は困ったように少し肩を上げて、首を傾けた。

「決まってるんだ。それ以上は僕は知らない」

僕はとても眼が痛いんだ。くすぶり続ける火の粉が眼に入ったようだった。

「大丈夫だよ、思い出をつくればすぐ良くなるさ」

「とても痛いんだ」

「わかるよ」

「こんなに痛いのに、涙がでないんだ」

「そうだね、それはそのうちわかるからさ、今は頑張って思い出をつくるんだ」

僕は眼の痛みをこらえて、思い出を思い出した。でも思い出は浮かんで来なかった。

「だめだよ、思い出なんて浮かばない」

ハハハハハと少年は笑った。

「浮かぶわけないよ、君には思い出がないんだからさ。言ったろ、つくるって」

僕は思い出が浮かばない。だから僕は思い出をつくる。でも思い出がないのにどうしたらつくれるんだろう。僕はそっと眼をあけて両手を見つめた。両の手にそれぞれ五本ずつの指があった。何かを握りしめるようにその指は動いた。握りしめるために僕の手があるなら、僕は誰かの手を握りしめたいと思う。

「わかったよ、君は誰かの手を握りしめる思い出が欲しいんだね」

「え?君は僕の思うことがわかるの?」

ハハハハハとまた少年は笑って、あたりまえさと言うように僕の眼を覗き込んだ。そして少年はゆっくりと東の壁の方に歩いていった。少年は背を向けたまま手を上げるとかるく振った。

「よかったよ、さよなら」

少年はそう言うと、そのまま東の壁に消えていった。僕は東の壁の前に立ち、その壁に触れてみたけれど、僕の手はその壁に消えない。僕は壁の前に立ち竦み、少年の言ったことを考えてみた。彼は僕に思い出をくれると言ったのに、僕の手はなにも握らない。掌も、手の甲も何度も裏返してみたけれど、僕の手は僕の手を握りしめるばかりだ。


〈2〉

幾つかの薄明と夜が過ぎて、東の壁の上の方に薄く焼けたような薄明が射し込んだ日、西の壁は闇の中に沈んだ。あれから僕はずっとその闇の中で息を継ぎながら蹲っていた。西の壁は凍るような冷たさを僕に注ぎつづけた。それでも僕は深い闇の中で、東の壁を見つめていた。そのとき僕は眠っていたのだけれど、誰かが語りかけてくる声がして顔を上げた。低く薄い声だ。

「おまえは誰だ?そこに蹲って‥‥おまえは何者だ?」

僕は顔を上げたまま、その声がするところを聞き分けようとしていた。

「おまえは誰だ?  おまえは誰だ?」

その声は、壁に弾けて飛び交っていた。僕は後ろを向いた。壁が歪んでいた。歪みながら西の壁は僕に話しかけていた。

「僕のことを言っているの?」

「そうだ、おまえだ」

「僕は‥‥、僕は、誰だろう?」

僕は今まで自分が誰かなんて、考えたことがなかった。だから僕は解らないと答えた。

「私の影の中では、何者も生きられない。おまえは誰だ?名前を言え」

「僕は僕の名前を知らない」

西の壁は歪みを閉ざして、僕の体に注いだ冷気を止めた。僕と壁の間には暗い闇に包まれた深淵があった。再び西の壁は歪みを空けてゆっくりと言葉を紡いだ。

「おまえには名前がある。私の前で生き延びた者はいないのだ。おまえの名は命と言う」

「僕の名前は命と言う」

僕は心の中で何度かそう呟いてみたけれど、その言葉はどこにも見あたらない。


〈3〉

その日から僕はあらゆるところを、命と言う名を探して歩きまわった。長い間僕は歩いた。歩き疲れた僕はある日、北の壁に射し込む零れるような薄明をみた。僕は腕を伸ばして、その薄明に手を翳してみた。翳した僕の手は、その薄明の光に透けていった。僕はゆっくりとその光に近づいた。そして僕はその光の中に入って窓の方に振り向いた。光は僕の体の上に映った。光はしだいに僕の体に沁み込んできて、僕はその光に充ちた。でも、たぶん僕は、そのまま時を忘れていたのかも知れない。気がついた時僕は、全てが闇の中に佇んでいたのだから。闇は眩しく僕を取り囲んだ。闇の眩しさに慣れるまでに僕はずいぶん体力をつかった。眩しさが体に刺さるのだ。ときにはそれは僕のからだを貫いた。僕はその痛さに転げまわっていた。やがてその闇のすべての眩しさが去ったあとに、そこは漆黒の闇に覆われた。漆黒の闇の中では闇さえも見えない。僕はふと曇り硝子の窓をみた。薄明が燃えていた。燃え立つ薄明はその影さえも焔に包まれていた。もうその世界から、薄明は失われた。僕は窓辺に立って、その曇り硝子に触れてみた。そしてその外側に聞いてみた。

「いったいそこはどこなの?、そこにはなにがあるの?」

ゆっくりと、曇り硝子が砕けていった。砕けた散った曇り硝子の欠片は赤く染まりながら次々と燃え尽きていった。そのとき外の世界が言った。

「ここへ来れば、ここがどこか、そしてなにがあるかわかるだろう」

僕は曇り硝子が好きだったと思った。そこから射し込む薄明が好きだったと感じた。僕は壁に囲まれた暗い闇の中で、深淵の縁に蹲っているのが好きだったと考えた。僕は六歩しか歩けない。胸の奥からこみ上げて来るものがあった。僕はそれを感じた。体が小さく震えた。胸が締め付けられて苦しかった。咽がつまった。熱い血が湧き上がって来た。それは涙になって溢れ出た。嗚咽が始まり、とても長い間嗚咽は止まらなかった。

涙が枯れて、嗚咽がおさまったのはいつなのか、はっきりわからない。僕は閉じていた眼を開けた。それまで見たことのない光景が僕の前に広がっていた。僕は思わず振り返った。壁が見あたらない。僕の周りに壁がない。深淵の縁もない。

「空をみろ‥‥、地をみろ‥‥」

その声はどこからか聞こえて来た。僕の上が燃えていた。僕はそこに手を伸ばす。けれどそこは届かない。そこから焔がちぎれて、僕の下に降りそそぐ。それはまるで雨のようだ。たぶん‥‥。

「空が燃えているだろう。地上が灰になっている」

「どうして僕はここにいるのだろ、ここは僕の場所じゃない」

「壁がお前を連れて来たのだよ」

「僕は六歩しか歩けない」

「なら、七歩目を歩くのさ」

僕は七歩目を歩く。でも何処へ向かって。僕にはわからない。だいたい僕はそんなことを考えたこともない。嫌な匂いがしていた。なんの匂いかわからないけれど、つんとした気持ちの悪い、焦げた吐きたくなる匂いだ。僕がいた場所ではこんな匂いはしなかった。僕の時間は誠実に時を刻み、穏やかに僕の呼吸音だけが静謐さの中で空気を揺らせていた。僕はただその中で眼を閉じて夢を見ていればよかった。時々眼をあけて東の壁を見た。薄明が北の壁に映って、僕は東の壁の前に座り、深い闇の中で南の壁の曇り硝子の窓辺に手をかけた。そして壁はそこにあり続けていたはずだった。僕は自分の手が震えるのを感じた。手だけじゃない。もう体全部が震え出していた。僕は両手で自分の体を抱きしめて蹲った。それは初めての感情だ。僕は焼けただれた限りなく広いその世界に恐怖を覚えた。

「ねえ」

僕はその声に聞き覚えがあった。

「ねえ、顔をあげてくれないか‥‥」

僕は顔をあげた。そこには、僕の眼の前には、あの少年が立っていた。

「言い忘れたことがあったんだ」

「言い忘れたこと?」

「そうなんだ、実はね、君は七歩目を歩かなきゃならないんだよ」

「それはもう聞いたよ。でも僕にはできない。僕はこんな遠いところに連れて来られて恐怖と言う感情を知った。ここは僕に知らなくてもいいことを感じさせるんだ。だいたい君が僕の前に現れたりするからだ」

「君の言うことはまあそうなんだよ。でも僕は君から生まれたんだ。それにここはそんな遠くじゃないよ。いつも君の隣にあり続けていたんだ」

「今さらそんなことを言われたって、僕に七歩目はできない」

「君は誰かの手を握りたいって言ったじゃないか。それに君は名前をもらったね」

確かに僕は誰かの手を握りしめてみたいと思った。そして確かに僕は名前をもらったとき、僕は体の中を駆け巡る夢の予感を感じた。悪い気はしなかった。いやむしろそれらは喜びに似ていた。ああ、僕はなぜこんなことを思うのだろう。あんな空が燃える世界で、あんな灰が積もる世界で、僕ができることなどないはずだ。まして七歩目を歩くなんて、どうしたら歩けると言うのか。ああ、何だろう、この鼓動は?こんなにも強く僕を突き上げて来る。僕は立ち上がらずにはいられなかった。そして僕は僕の周りに見えるものを確認した。燃える空を、降りしきる焔を、そして地上を埋め尽くす灰を見た。そのほかに、いったいここになにがあると言うのだろう。それは永遠の物語のように僕には思えた。

時があると誰かが言った。すべてのものに時があると、どこからか聞こえた。それは誰が言ったのだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。その時は、僕の手の中にあるのがわかっていたのだ。こんな世界が僕の隣にあったなんて、僕は少しも気づかなかった。今、僕の眼の中に、少しずつ形づられるものが見えて来ていた。そこは焔の向こうであり、積もる灰の向こう側だった。薄い影が揺らめいていた。数知れぬ影が散り散りに舞うように蠢いていた。それがなんなのか、初め僕にはわからなかった。でも六歩目を歩んだ時、七歩目を踏み出そうとした時、その影をもつものが僕には見えたのだ。それはまさに僕がもらった名そのものだった。そして僕は最後の一歩を踏み入った。灰は僕の胸のあたりまであった。灰は重く僕を阻んだ。それでも僕は次の一歩を踏み出そうともがいた。その時だった。灰はその色を白く変えた。僕の周りからずっと果てまでも、その色を純白に変えていった。そして空を覆う焔は細い銀色の筋となり、やがて水平線の彼方へ消えた。僕は真っ白い灰の中で動けずにいた。だが灰は次第に減っていった。地の中に沈んでいるのだ。すべての灰が地に沈んでしまうまで、そんなに時間はかからなかった。でも灰が消えてしまった地上には限りない数の手が突き出ていた。その殆どは手首をだらんと下げていた。僕はその中を歩き続けた。指先でもいい、どこかに少しでも動いているものを探そうとした。でもそんな手は見あたらない。僕は探し続けながら涙があふれていた。枯れてしまったはずの涙が、知らないうちに溢れ出ていた。溢れだした涙が落ちてゆき、いくつもの手を濡らした。僕はふと気づいた。涙にぬれた手の中に、手首が伸びて指先がひらいているものがあるのを。それはまるでなにかの花のようだった。僕は片っ端からその手を握って引きずり出した。彼らや彼女たちはみな眠っていた。僕は涙の中でいくつもの手を引き抜いた。やがて皆、時が来れば眠りから覚めるだろう。でも僕の手は、その手を握れなくなっていた。僕はその手を握れない。僕はまだ、その手を握りしめたかった。

「終わりの時が来たんだ」

誰かがそう呟いた。誰の声かわからなかった。あの少年の声だったのかも知れない。

「どうして‥‥」

「時が来たんだ」

「僕はまだ手を握る」

「しかたがないんだよ」

「そんな、かってじゃないか」

「決まっているんだ、だから」

「いったいなにが決まってるんだい?」

もう誰も何も答えなかった。だからまた僕は手を握ろうとした。でも、僕が握ろうとした僕の手は見あたらない。僕は僕の肩から先がなかった。足もなくなった。少しづつ体が消えていたのだ。僕は僕が消えるのをとめられない。

僕はあの壁に囲まれた場所を思い出していた。そこでは薄明が闇をつくっていた。とても静かな闇だった。そこは僕の場所だったのだろうか。僕は僕の場所が解らない。


                            完結済み






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