無名の笑顔

加加阿 葵

すれ違っただけなのに

 


 ほんの一瞬。それだけで人生は変わる。

 生きてるおばあちゃんがそう言ってた。




 朝の駅のホームはいつもと変わらない喧騒だった。

 人の波という慣用句は大げさじゃないなと大勢の人に押されるように歩いた。

 どこを見ても同じようにただ目的地に向かうだけの群衆が目に入って少しげんなりする。

 

 電車がホームに入ってきた音が耳を掠めた瞬間、ふと視線が交わった。


 一瞬。ほんの一瞬の出来事だった。

 その相手は少し離れたところを歩いていて、僕とすれ違う直前だった。

 学生服じゃないところを見ると、僕より年齢が上なのだろう。最近中性的な人が増えてる世の中だから性別は分からなかった。


 ただその人が柔らかく微笑んだのだ。

 まるで、誰かに向けた笑顔が偶然こちらに来てしまったかのようだった。

 

 僕は視線を逸らし、何事もなかったかのように通り過ぎた。

 次の瞬間、その人の姿は波にさらわれ消えていった。


 たった数秒。文字にすれば11文字。知らない人とすれ違った。それだけの出来事だった。

 

 なのに、その笑顔が目に焼き付いて離れない。あの瞬間にカメラのシャッターをきったかのように。

 その笑顔に触発されたわけじゃないと、意味もなく言い訳しながら、スケッチブックを取り出し、止まっていた趣味を再開した。


 最初に描いたのはその人の笑顔だった。

 正確な顔立ちは思い出せない。ただ、その柔らかさだけが記憶に残っている。

 何度も、何枚もその笑顔を描き続けた。

 僕はその笑顔を追いかけていたのかもしれない。


 10年が過ぎた。


 僕は今、絵を描くことを仕事にしている。

 個展を開くようになり、今日も自分の作品を並べたギャラリーに立っていた。

 多くの来場者が絵の前で足を止め、感想を口にしてくれる。けれど、どこか落ち着かない気持ちでいた。

 

 ふと入口の方を見ると、1人の人物が目に入った。

 見覚えがある。10年前の記憶が昨日のように蘇る。

 

 その人は静かに絵を見つめている。

 目線の先には僕が書き続けてきた名前も知らない笑顔の肖像画があった。


 思わず息をのんだ。

 夢の中、あるいは過去に戻ったかのような感覚だった。

 勝手に足が動いた。口を開けたら、心臓の音が聞こえてしまうくらい喉の奥で脈打っている。


 その人がゆっくりとこちらに向いた。目が合う。


 記憶の中で曖昧になっていた輪郭が明瞭になった。

 そして、またあの時と同じように柔らかい笑顔を向けられた。


「今日は来てくださりありがとうございます」

「……昔どこかでお会いしたことありましたっけ?」


 鈴のような凛とした声でその人が女性だったという事が分かった。

 10年前、駅のホームですれ違いました! などと言えるはずがないので「初対面だと思います」と返した。


「この笑ってる人の絵が10年くらい前の私にそっくりだったので、つい」

 

 彼女は頬を消耗性の赤に染めながら、恥ずかしさをごまかすように微笑み、再び僕の描いた『無名の笑顔』に目を落とした。


「初対面ですけど……なんだか、懐かしい気がします。もしかしたら僕たちどこかですれ違ってるかもしれませんね」

 

 名前も知らない。声も聞いていない。にもかかわらず、10年前のあの日、ただすれ違っただけなのに間違いなく僕の人生を変えた。

 おばあちゃんの言ってたことを今になってようやく理解できた気がした。

 

 僕の10年が、この一瞬に繋がってたと思うと、不思議と笑みがこぼれた。

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無名の笑顔 加加阿 葵 @cacao_KK

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