第3話 ツイキャス
「行ってらっしゃい」
早苗が笑顔で見送っても、智也は返事もしないばかりか目も合わせずに出勤していった。
早苗は扉が閉まったあともその場を動かず、靴音が聞こえなくなるまで耳を澄ませた。前に何度か、忘れ物があると言って戻ってきたことがあり、油断していた姿を見られて怒鳴られたことがあった。その日の夜は、普段よりも智也の機嫌は悪く、昔のことまで引っ張り出してネチネチと絡んできたため、面倒だし怖いから、今ではこれが通例だった。
簡単に家事を終わらせ、隠していた小型タブレットを持ち出した。
コーヒーの湯気を前にソファに腰を落ち着けると、身体の力が抜け、気分が良くなったことを自覚した。
智也のいない時間を心待ちにしているなんて、妻としてあるべきことだ。
自責しつつも、これがなければ日々の活力がないのだから仕方がない。
そう言い訳をして、ツイキャスのアプリを開き、ラジオ配信ボタンを押した。
「なんと昨日スマホを落としてしまって、しかも拾ったのが違うスマホだったの。偶然にも同じ機種を同じタイミングで落としたみたいで──」
1か月前に、こつこつと貯めていた小銭を集めて中古の小型タブレットを購入した。智也にバレないようにお金を貯めることもそうだが、断りもなく買い物をすることも、結婚して以来初めてのことだった。
結婚したときにそれまで使っていたスマホは解約し、連絡先も思い出も詰まったそれはリセットされ、リサイクルに出された。代わりにと購入してもらったスマホは、智也のものだから勝手な真似はできず、電話番号は誰にも、両親にすら教えていない。智也もいるグループLINEで繋がっているのみで、直接話してはならないと言われている。
専業主婦をしていると、カフェ・モンパルナスのオーナーやスーパーの店員と会話する以外は、智也と義家族としか関わりがない。そんな生活を二年続けたあげく、とうとう耐えきれなくなった。
タブレットを購入したのはそのためで、様々なSNSを利用し始めて、久しぶりに社会との繋がりを味わえた。その中でも現在特にツイキャスにハマっている。一人でダラダラと話していても、たまに共感してくれた誰かが、メッセージやコメントで反応を返してくれる、そのシステムが気楽で、身に合っていた。
喋る内容は他愛もないものだ。読んで面白かった本の感想や、料理やコーヒーについてのことなど、他人の興味を惹くものは何もない。それでも同じように孤独を感じている人なのか、常連のようなユーザーが数人程度いる。
そのときも、始めてすぐにコメントがきた。
EMA522[今日はどうしたの? 声に元気がないね]
ツイキャスを始めた頃から視聴してくれているユーザーの1人だ。
「最近、旦那とほとんど会話ができないんだ。結婚してもう3年目になるから、倦怠期ってやつかな?」
EMA522[私も今年で3年目だよ。同じだね]
女性らしいと感じていたものの、彼女も既婚者らしい。
「高校の時からの付き合いだから、それも含めれば9年目なんだけどね。倦怠期なんてとっくに通り越してるか」
なんだか親近感が湧いてしまう。
午前中だからか、リスナーは4人、3人と減っていき、20分経ってEMA522の一人になったので、コメントに返事をすると言うよりも会話のようになってきた。
EMA522[もし高2から付き合っているのだとしたら、同い年かも!]
「え!本当?」
EMA522[それに私も旦那とほとんど会話がない。境遇が似てて親近感! 笑]
まさかと驚いた。冗談か嘘かも知れないが、ここまで共通点があると興味が湧いてくる。彼女の話をもっと聞いてみたいと思い始めた。
その思いで、ツイキャスを終えたあと、EMA522にダイレクトメールを送ってみることにした。
サカ☆カササギ[突然のメール失礼します。色々共通点があり、直接2人だけでお話してみたいと思って送ってしまいました]
普段の早苗なら絶対にしないことだ。相手がどんな反応を取るのか想像するだけでも怖いし、何より見知らぬ人と会話しなければならない状態に立つこと自体が耐えられない。店員や配達員がぎりぎりなほどなのだから。
しかしネット越しという気安さや、コメントでのやりとりから親しみを感じ始めていた。夫以外の人間とまともに会話ができず、人とのやり取りに飢えていたこともあり、彼女ならばと勇気を出した。
EMA522[メールありがとうございます。キャスを始めた頃から聞いていました。勝手ながらも親近感を抱いていて、聞いてると友達と話しているみたいで楽しんでいました。そのサカさんからメールがくるなんて嬉しい驚きです]
丁寧ながらも堅苦しさのない返信で、不安が吹き飛んだ。嬉しくなり早速返事を返して、その日だけでも何通ものメールのやりとりをした。
リテラシーが弱めの早苗は、どこまで踏み込めばいいのか、どこまで心を開けばいいのか判断がつかなかったが、気が合うのか、相手が気が合うように見せているのか、まるで数年来の友人のように会話が弾んだ。
主にツイキャスの延長のような内容で、趣味についてなどの日常的な話題が主だった。同い年なこともあり、昔流行ったものや学生時代のあるある話などもして、意外に話題は尽きない。家事の合間に少し途切れることはあっても、半日は空くことなくメールは続いていた。
そのときドアの開く音がして、早苗は慌てた。タブレットを持ったままだったのだ。とりあえず、タブレットをポケットにしまって、急いで玄関へ迎えに出た。
「おかえりなさい」
「今日は何してた?」
「今日は、ちょっと体調が悪くて、掃除と料理以外は寝てた」
「スマホ見せて」
「あ、ちょっと待って。充電しっぱなしだったから」
智也の着替えを手伝ってすぐに、事実一日中一度も触れずに充電したままだったスマホを手渡した。
智也は、「ふん」と鼻で笑っただけで何も言わず、ダイニングテーブルについた。
「今日は飲むわ」
「あ、うん」
急いで冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出し、グラスと一緒にテーブルの上に置いた。
素早く夕食の用意をして席についたものの、飲むと行っても変化があるわけではない。当然のように会話はなく、智也はスマホをスタンドに置いて、動画を見ながら食べ始めた。ビールを飲みながらなのでペースは遅い。早苗の方が先に食べ終った。
後片付けをしたあと、ダイニングテーブルで読書をし始めた。ソファなら隣に、まだ食事中ならダイニングに。近くにいなければならないのである。
本は開いたが、目で追うこともせず、頭は別のことを考えていた。EMA522とのメール、会話。久しぶりに交わした家族以外とのメールは、期待以上に喜びをもたらせた。考え始めたら返信をしたくなり、落ち着かなくなってきた。
智也は必ず先に入浴するから、晩酌の日は湯沸かしのボタンを押すタイミングに悩む。
今日は早く入って欲しい。EMA522に返信を送りたい。夜の時間はスマホを操作しにくいことを伝えておきたい。
考えに没頭していて、意識が散漫だった。呼ばれていたことに気づくのが少し遅れた。
「おい、聞いてんのか?」
智也の苛々と荒げた声でようやく気がついた。
「あ、ごめんなさい。やっぱり、まだ、体調が悪いみたいで。ごめんなさい」
「しらねーよ! ビールなくなってんだけど」
「うん、ごめん」
急いで立ち上がり、冷蔵庫から取り出した缶ビールをテーブルに置いた。
「なくなる前に出しとけよ!」
怒気を行動でも示すかのようにプルを開け、グイグイと飲み始めた。
アルコールが入っているときはいつもよりも怒りっぽくなる。わかっているのに、失敗してしまった。でも怒鳴るほどではないからギリギリセーフか。
一時間ほどして頃合いだと判断し、風呂を沸かすと、正解だったようで、湯沸かし完了の音色が流れたときに、智也は無言で風呂場へと向かった。
ドアの閉まる音を聞いてから、ホッとする間もなく急いで寝室へ向かい、タブレットを取り出してEMA522にメールをした。
一分と待たずに返ってきたメールを見て、ようやく強張りが抜けた。
EMA522[気にしないで。私も夜はスマホを開いてる時間がないんだ。主婦は昼間にこそ自由があるんだよね]
他人と会話をしたりメールを送るときは、自分に不備がないか不安で緊張してしまう早苗だが、EMA522から届く文章は親しみやすさと気遣いに溢れているから、気楽な気持ちでやりとりができる。人と繋がっている実感を得られるとともに、楽しさも同時に感じることができるため、驚くほど積極的になっていた。
次の更新予定
さらば、愛しき夫よ 海野幻創 @umino-genso
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