第2話 緊張の日々
ドアの開く音が聞こえたため慌てて立ち上がり、玄関へ向かった。
「おかえりなさい」
夫の智也を出迎えて、緊張が表に出ないよう、元気よく聞こえる声を出した。
「今日は何してた?」
智也は言いながら無表情で靴を脱ぎ、早苗の横を通り過ぎる。
「今日は買い物に行って、スマホでレシピをチェックして、夕飯作りをしたくらい」智也のカバンを持ち、脱いだ上着を受け取る。「ハンバーグなんだけど、ふわふわにできるレシピを見つけたから、それで作ってみたの。ソースも新しいのに挑戦した。気に入ってくれるといいんだけど」
一息に言って、部屋で着替えを済ませた智也の横で上着を片付けた。
「見せて」
そう言って智也が差し出した手の上に、スマホを置いた。
スマホの使用履歴のチェックは毎日欠かさない。智也のものを、自分の好きなように使っていないかを確認するのは当然のことだ。
質問に答えても反応がないのもいつものこと。智也は自分が聞きたいことを聞くだけ。それと、用事を言いつけるだけだ。
「使用時間は50分か。履歴は確かに料理関係のことみたいだな……この発信は何? 誰にかけたの?」
スマホを操作する智也の後を追い、キッチンへと来た早苗は、食卓の用意をしながら喫茶店での出来事を説明した。
「なにそれ。コーヒーなんて飲んでる余裕あるんだ」
しまった、と思った。履歴の理由を上手く説明できるかばかりに気を取られて、思わず秘密にしていた喫茶店通いのことを漏らしてしまった。
温め直した料理を次々にテーブルに並べながら、無理やりひねり出した言い訳をする。
「通りかかったら、サービス券をもらって、その……たまにはいいかなと」
「サービスっつっても金は払うんだろ? いくらだったんだよ」
苛々とした声に事実を言えるはずもなく、「100円。ワンコインのサービスだって」と、同じワンコインでも安い方で答えた。
ふうん、という反応を見ると、セーフだったらしい。
「で、その間違えたやつは男?」
「うん、サラリーマン」
「なに? イケメンだった?」
「渡し合うだけだったから顔なんて見てないよ」
言い終えた瞬間に、嫉妬しやすい智也にはそれだけでは足りないと気づいて、慌てて言い添える。
「でも定年間近のおじさんだった」
「ふん、おっさんなんてむしろキモいな。若い女と会話できてニヤけてたろ?」
「普通の人だったよ」
智也は何も言わず、ちらともこちらを見ずに食べ始めた。
今回の嘘はバレずに済んだ。機嫌も損ねなかったようだ。
智也を怒らせないためならいくらでも嘘をつく。罪悪感を覚えることよりも、怒られるほうが何倍も怖いからだ。
早苗も真向かいに腰を下ろして食事を始めた。
智也はテーブルに置いたスマホに見入っていて、料理を取るときにしか顔をあげない。
今日目を合わせたのは、スマホを落とした話をしたときだけ。それも嘘をついていないかを探るためでしかない。それ以降は見ようともしないし、会話ももう終わりのようだ。
皿を全て空けた智也は、無言でソファに移動した。
早苗も後を追うように立ち上がり、冷蔵庫から取り出したソーダをコップに注いで、智也の手前のローテーブルに置いた。
早苗はまだ食事途中なので、再び席へ戻り、急いで食事を済ませた。後片付けを終えたあとは、智也の隣りに腰を降ろし、小説を読みながら智也の様子を伺い、頃合いを見計らって、風呂の湯沸かしボタンを押す。
湯沸かしが完了した音色が流れると、智也は立ち上がり風呂場へと向かった。着替えは既に脱衣場に用意してある。
そして聞こえた風呂場のドアの閉まる音で、はぁと息を吐く。強張っていた身体が脱力し、緊張が解けた。
しかし脱力している時間はない。ようやくとばかりに寝室へ向かい、室内灯もつけずにクローゼットへ忍び寄り、奥をごそごそとやって、小型のタブレットを取り出した。
[ようやくお風呂行った。まじ疲れた。オーブン焼きに挑戦したけど予想通り感想なし。笑える]
そうポストをしたあと、タイムラインを眺めた。
数分経つと、浴室のドアの開閉音が聞こえた。物音を出さないように慎重に、急ぎつつも慌てず、落ち着いた動作でタブレットを元の場所にしまう。
そしてリビングへと足を忍ばせて戻り、15分前と変わらぬ姿勢で本を読む振りを整えた。
智也はスマホを操作しながら戻ってきて、早苗の横に座り、テーブルに用意しておいたソーダ飲んだ。
早苗はゆっくりと深呼吸をして言った。
「お風呂入ってくるね」
無視という反応を背に、風呂場へと向かう。
そしてお風呂から出るとまた智也の横に座り、本を読むふりをした。
早苗は妻として、家事はもちろん、智也の相手をするために存在している。それ以外は待機の時間で、命令なり頼み事をされた場合に、すぐに動けるように心構えをしていなければならない。そのときにお金も智也の労力も使わずにできることならば、暇つぶしをしていても良いと許可をもらえている。しかし、早苗が持たされているスマホは智也のものなので、必要なとき以外は使うことができない。テレビも、智也が見なければつけることはない。考えたあげくに思いついたのは、図書館から本を借りることだった。
それから1時間、二人はそのまま言葉を交わすことなく時が過ぎた。
「先に寝るね」
早苗は、引きつらないように最大限の努力を要した笑顔を向けるも、智也はこちらを見なかった。
結婚するときに、智也と義母から教えられた。
妻は夫のために生きるのだと。夫のためにすること以外は何もする必要がない。夫のおかげで生活させてもらえているのだから、夫の要望が全てであり、許可なしでは何もしてはいけない。それは当然のことなのだと。
智也のそばにいる間は常に緊張している。教えられたことが守られていないと叱責されるからだ。
寝ていても、緊張していなければならない。いつ、智也が触れてきてもいいように。受け入れないなんて選択肢はない。智也のために、存在しているのだから。
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