さらば、愛しき夫よ

海野幻創

第1章 早苗

第1話 拾い間違い

 柏木かしわぎ早苗さなえは、スマホの家計簿アプリと財布の残高を見比べて、しばし考えた。


 今月は残り10日。緊急の出費用に分けていたお金にはまだ今のところ手を付けていない。生活費の残高は二万円。補充用の日用品は買いそろえたばかりだし、財布の中には5000円札が入っている。セルフカットが様になってきたから、手直しをする美容院代もかからなくなった。最近はわりと遣り繰りが上手くいっている。


 そう結論づけて、スーパーへの道とは反対の方へ足を向けた。

 今日は智也ともやのビールを買う必要があるため、買い物を済ませたあとは寄り道をしたくない。行くと決めたのならば先にしようと考えたからだ。


 早苗は無類のコーヒー好きである。


 毎月渡されるごくわずかな生活費では、夫婦二人の生活は賄えず、大学時代にバイトで貯めた口座貯金に手を出さなければならない。それでも豆から挽くコーヒーを諦められないのである。

 専業主婦なので、時間だけはゆとりがある。安い材料で栄養と満足度を得られる料理を研究することはもちろん、足で探せる範囲であちこちのコーヒーショップを巡って、美味さと安さを兼ね備えた喫茶店を探しだした。


 間口は広いと言えないその店のドアを開け、からりとベルの音を鳴らした。


「柏木さん、ちょうどよかった。今朝入荷したばかりだよ」

 オーナーが言った。初老の男性で、カウンターの中から穏やかな笑みを向けている。


「そんな気がしたんです」

 早苗は笑みを返しながら答えて、三組しかないテーブルセットの一つに腰を下ろした。


 客はカップル一組と、サラリーマン風の男性客が一人。早苗が座るとカウンター席しか残らないが、この店でこの客の数は大盛況と言えるので、遠慮はしなかった。


「今日はこれ試してみて」

 注文をしていないのに、目の前にカップが置かれた。


 早苗は「わぁ」とその香りに喜びの声を上げ、オーナーにお礼を伝えて早速口をつけた。


「これマンデリン? しかも水出しですか?」

「御名答。さすがだね」

「さすがなのはオーナーのほうです。苦味が旨味になっていて美味しいし、なにより香りが最高」


 早苗がうっとりと言うと、オーナーは嬉しげに頷いて、「髪型いいね」と言ってカウンターの中へと戻った。

 

 ロングをばっさりと切ってボブにしても、智也は何も言わなかった。夫以外に誰に見せるわけでもないが、褒められると嬉しいものである。

 服も大学時代のを着回すだけで洒落っ気はない。それでもなんとなく流行の色味を選んだり、コーディネートに努めているのは自己満足だ。

 

 その『カフェ・モンパルナス』は、自宅を兼ねたこじんまりとした店で、オーナーが一人でやりくりしている。繁華街からは距離があるため、近所の人向けに道楽半分でやっている趣きではあるものの、長年様々なコーヒーを味わってきた早苗でも「これは」と満足できる味を提供してくれる、隠れた名店なのである。

 早苗は少ない予算を遣り繰りして小金を作り出し、この店でコーヒーを楽しむことと、豆を買って帰り、自宅でも味わうことを日々の喜びにしていた。


 今月は二回も来ることができた。

 特売でまとめ買いできたことが大きい。普段も智也が車を出してくれて、遠方のスーパーへ行ければ、また今月のように遣り繰りが上手くいくのに。


 楽しいはずの時間も、日々の悩みを思い出すとついため息が出てしまう。


「はい、15時に工科大学駅前ですね。何か必要なものはありますか?」


 後ろのテーブルからハキハキとした男性の声がして、考えに沈んでいた早苗は意識を逸らされた。後ろのテーブルは一人客だったはずだから、どうやら電話をしているらしい。


 それで思い出し、スマホをポケットから取り出した。

 画面を見たところで通知があるわけもなく、好きなアプリを操作することもできない。このスマホは智也のものなので、勝手なことはできないのだ。


「はい。承知しました」


 後ろのサラリーマンは当然そんなことはなく、喫茶店でコーヒーを飲みながらSNSを見たり、動画やゲームを楽しむことができるのだろう。


 自分にはできない。

 多少の妬みを感じながら、天気と時間だけを見て、ロックもかけていないそれを再びポケットに戻した。

 そのとき、沈んでいた気の緩みからか、手元が狂ってスマホを落としてしまった。


 慌てて椅子を引き、床に落ちたスマホを拾おうとした。

 すると椅子の背もたれがぶつかった衝撃と、視界に同じスマホが二つ見えた。

 スーツの腕も見えて、後ろのサラリーマンも同じタイミングでスマホを落としていたことに気がついた。


「すみません」


 何も悪くないのに、こういう場合にすぐに謝ってしまう癖がついている。


「いえ……」


 サラリーマンは素早い動作でスマホを掴み、慌てたように立ち上がって、そそくさと店を出て行った。


 早苗は間違いなく自分のスマホであると確認して、カップの中身を飲み干して立ち上がった。


「もう帰るの?」

「ええ。今日はオーブン焼きなんです」

 注文していた豆を受け取り、会計を済ませながら今夜の献立を説明した。


「手間がかかるね」

「趣味なんですよ」

「コーヒーも豆から拘ってるし、いい奥さんだね」


 その言葉を背に聞いて、早苗はスーパーへの道を歩き出した。


 買い物を終えた早苗は、両手いっぱいの荷物を手にして自宅へと帰ってきた。徒歩圏内とは言え疲弊する。買える量も、車での買い物とは比較にならない。

 すぐに冷蔵庫にしまい込み、買ったばかりの豆を瓶に移した。その香りをかぎながら、今日は既に一杯飲んだのだからと、コーヒーミルに目を向けないようにさっさと終わらせた。


 料理は昼食後からでも間に合うからと、掃除を始めたとき、スマホが振動した。

 早苗のスマホが鳴るという事案は、仕事中の智也からの飲み会の報せか、義母からの小言以外にあり得ない。しかも振動の長さからLINEではなく電話である。掃除の気力が一気に萎えた。


 ため息をつきながら、キッチンカウンターに置いたままのスマホを手に取った。

 画面には見知らぬ番号が表示されている。義母や智也は登録されているため、間違い電話か迷惑電話に違いない。

 しかし、義母が番号を変えたのだろうか?とふと頭によぎり、それならば出なければならないと考えて、受話ボタンを押した。


「はい」

『あ、すみません』


 知らない男性の声だった。間違い電話だ。


「番号、間違えてますよ」


 伝えると『いえ、あの……』としどろもどろな声が返ってくる。


 気持ち悪くなり、通話を終えようと耳を離すと『さっきモンパルナスでスマホを落として──』とスマホのスピーカーぐちから聞こえてきた。


 話を聞くと、電話口の相手はあのときのサラリーマンだった。偶然にも同じ機種で、互いに間違えて拾い上げたらしかった。しかも二人ともしばらくの間それに気づかず、二時間も経た今になり、男性はようやく自分のスマホではないことに気づいたらしい。


 思えば電話番号は自分のものだった。誰かに教えることも、何かに書き付ける必要もないためすっかり忘れていた。

 スマホ自体はカバーをしておらず、ストラップもない。よく見れば傷や汚れに見覚えはなかったものの、見た目にはまったく同じだった。


『申し訳ありません、用事があるので、差し支えなければ早めにお会いしたいのですが』


 焦っている様子だ。確か、喫茶店でも待ち合わせがあるようなことを言っていたと思い当たる。


「私も今のほうがありがたいです」


 夕食の料理を始める前に済ませてしまいたい。早苗も同意して、最寄り駅で待ち合わせることにした。駅まではバスの距離だが、歩けないこともない。

 到着時間を伝えると多忙だと思われたのか、『ではお近くまで向かいます』と言ってくれた。


 自宅から二番目に離れたコンビニの前で待っていた。声をかけられたため、振り返ると確かにスーツのサラリーマンがいた。その場には早苗しかいなかったからか、確認することもなくスマホを差し出された。


「申し訳ありません」

 何も悪くないのに、と頭によぎって、ふと顔を見上げた。


 若々しく艶があり、大きくぱっちりとした目にも可愛らしい印象を受けた。同年代か少し年下だろうか?

 黒い髪を無造作にセットしている様に、まだ学生の名残を感じる。ブランドも値段もわからないが、スーツの生地は高級そうだった。


「いえ、わざわざこんなところまで来ていただいて、すみません」


 他人と目を合わせるとドギマギしてしまう。すぐに目を逸らし、遅れてスマホを手渡した。


 お互いに画面を操作して、間違いないことを確認する。


「すみません」男性はおずおずとした声で言った。「ロックがかかっていなかったので……」


 ああ、と言って、気にする必要はないと示すために笑い返した。

「見られて困るものはありませんから大丈夫です」

 クレジットカードも持っていなければ通販もしない。盗まれたとして困るのは智也や義母の連絡先くらいである。


 もう一度改めて礼を言って、自宅への道を戻ろうとすると「柏木さん」と声をかけられた。


「……ですよね?」

「はい」

「あの、モンパルナスでよくオーナーと話していらっしゃって」


 ということは、この男性も常連客なのかと気づく。専業主婦になり、引っ込み思案な性格が加速していて、周りの目を避けているから気づいていなかった。

 じっと見られているような気がして、顔が熱くなる。イケメンに部類してもよさそうな若い男性を前にして、何の変哲もない凡庸な自分が恥ずかしくなる。


「私は桐谷きりたに俊介しゅんすけといいます」

 そう言って、桐谷は名刺を差し出した。


 もう受け渡しは終わったのだから、そんな必要はないと思うが、サラリーマンは初対面の人に名刺を渡さねば去れないのだろうか。


「あ、はい」

 受け取ってすぐに、「では失礼します」と言ってタクシーに乗り込んで去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る