第2話 お見合い
用意された召し物に袖を通す。今時、見合いと言えば、きれいめのフォーマルなワンピースが主流だろうに、父は曾祖母の着物を私に着せたがった。着物は好きだし、何より曾祖母、祖母、それから母へと代々受け継がれてきたものだと聞かされていたから、内心嬉しい気持ちもあったけれど。
橙のグラデーションの布地に小さな梅の花がさりげなく描かれており、帯は黒で、色とりどりの糸で金魚の刺繍が施されている。その中でも出目金だけ黄金の刺繍がなされていて、ふと曾祖母の賭けの話を思い出した。桐箪笥に大事にしまわれていたおかげか、未だに新品のような艶やかさがある。良いものは長く使えるというけれど本当らしい。
着付けは祖母とハルさんが二人がかりでしてくれた。成人式の前撮りの時にも一度晴れ着を着たことがあるけれど、何度着ても慣れそうにない。私が細身なのもあって着付けに時間がかかるし、重くて肩が凝るし、何より歩きづらい。美容院に髪を結いあげに行くにも一苦労した。
化粧は自前だけれど、いつものように赤い口紅を塗っていると父に文句を言われ、ハルさんにも肌が白いのに頬紅が目立ちすぎじゃないかしらなどと言われてもう一度やり直す羽目になった。私なりに着物に映える化粧を調べてきたのに、と思いながら、ナチュラルメイクに直していく。頬紅は血色がよく見える程度で、口紅も落ち着いた、肌になじむ赤色。確かにこちらの方がこの落ち着いた着物にはあっているかもしれなかった。
「きれいだわ、京子ちゃん。まちこさんに似て。これじゃ、相手方もイチコロね」
私の仲介人はハルさんにしてもらうことになっている。見合い会場に向かいながら、私は不安と焦燥に駆られていた。
こんな派手に着飾って、男受けの良さそうな、小綺麗な化粧をして。私は結婚をする気などさらさらないというのに、見も知らぬ男のためにどうしてこんなに頑張っているのか。もし、縁談に前向きだと勘違いされたら。張り切っていると思われたらどうしよう…。
でも、それだけではなかった。時代にそぐわぬ政略結婚の見合いに、どこか心踊らされている自分がいるのも確かだった。最初の化粧に気合が入りすぎたのも、実はそのせいかもしれない。私は今、大きな物語のレールの上を歩いている。父親の決めた縁談。結婚を決意した男との別れ。私は考えれば考えるほど自分が舞台に立つ悲劇のヒロインのように思えてきて、それでいてどこか楽しかった。もしかすると、見合い中に彼が障子を突き破り、「ちょっと待った!」と私を攫いにきてくれやしないだろうか。そんなありもしない妄想すら浮かんだ。昨夜はお見合い時のマナーと好印象について念入りに調べたりしてあまり眠れていない。それでもちっとも眠くはなかった。
目の奥に光が通ったら、けっこん。
曾祖母の言葉を、あの日から何度も反芻している。
◻︎◻︎◻︎
相手方はもう客室で待っているらしく、女将に案内されて部屋へ入った。広い和室に大きなテーブルがあり、左に男の人が二人座っていた。相手方から挨拶があり、次に紹介へと移ったけれど、私は顔を上げられなかった。あれだけ好印象の作り方について調べて、鏡の前で一丁前に予習なんかしていたくせに、実際は緊張して相手方の顔すらまともに見られていない。ただ、声の印象は誠実な感じでよかった。いかにも年上の男の人という感じがした。和彦さんというらしい。結婚したら何と呼べばいいのだろう。かずさん、とか。それとも、御曹司らしいから旦那様、なんて。いや、結婚する気はないけれど。
食事に移っても私はまともに顔もあげられないまま、不愛想にしらを突き通した。ただ、高級旅館の食事とあってどれも繊細な味がした。どんな時でもご飯はおいしい。母を亡くした時も、彼氏に振られたときも、ご飯にはちゃんと味があった。口数少なく黙々と平らげたものだから、食い意地ばかりは張った娘だと思われたかもしれない。そうしているうちに、恐れていた二人きりの時間になった。私が黙りこくっていたせいか、和彦さんも何も言ってこない。こうも静かだと、入る時気にも留めなかった庭の鹿威しの音さえ鮮明に聞こえてくる。気まずい…。
そんな長い沈黙を突き破ったのは和彦さんだった。
「京子さんは」
「はっ、はひぃ!」
驚きのあまり変な声が出てしまう。あまりの恥ずかしさに動揺して油断していたら、不覚にも目が合ってしまった。
「あ、やっと顔を上げてくれた」
と和彦さんが笑う。私は今までにないような衝撃を胸に覚えた。じわぁっと手花火がくすぶって燃え広がっていくような、そんな感覚。
目の奥に光が通ったら、けっこん。
通ってしまったかもしれないと思った。
それから私たちは糸がほどけたように話しだした。お見合いに緊張していたこと。料理が好きなこと。本が好きなこと。好きな作家のこと。私と和彦さんには驚くほど共通点があった。私の手が小さくて可愛いと言ってくれたのを机越しに重ねるふりをしていたら、お互いの左手の手相が驚くほどよく似ているのに気づいた。
和彦さんの仲介人の方とハルさんが戻ってきたとき、私たちの仲睦まじげな様子を目の当たりにしてたいそう驚かれ、同時に安堵された。
「すぐに結婚を決めなくても大丈夫だよ。その、京子ちゃんはまだ若いし、よく考えた方がいい」
そんな気遣いさえ愛おしいと思うほど、私は和彦さんのことが頭から離れなかった。それでも、すぐに結婚を決めるわけにはいかない。光が通ったのも勘違いだったかもしれないし。ただ、和彦さんをもっと知りたいと思ったのは確かだった。
そうだ、ひいおばあちゃんに見極めてもらおう。大正、昭和、平成といくつもの時代を見てきた曾祖母に判断を委ねるのが、なんだか一番の正解のような気がした。連絡先を交換していたから、私はすぐに和彦さんに曾祖母に会わせたいと言った。和彦さんの仕事の都合もあって、八月の頭に会うことになった。曾祖母にもハルさん伝いで伝えてもらったが、たいそう楽しみにしているという。
最近は何か書くものが欲しいとせがまれ、書けないでしょうと言ったのに引かないからしかたなく翌日に持って行ったら「なしてそげなことをするぅ」とひどく悲しまれたことがあった。そんな具合だから、楽しみにしているというのもほんの一時的なものかもしれないけれど。
でも、紹介したとき、思い出す前にまた「めのとかいね」なんて言われたら私はきっと照れてしまう。
ところが、私がお見合いをして一週間が経ったころ、和彦さんとの約束まであと二日を切った時、曾祖母が息を引き取ったとの訃報が届いた。私は曾祖母にもう会えないのかと思うと涙が止まらなくて、曾祖母のしてくれた話の一つ一つがまるで走馬灯のようにまざまざと思い出された。それだけではない。曾祖母に見極めてもらうはずだったのができなくなってしまって、私は踏ん切りがつけられそうもない。和彦さんはゆっくりでいいと言ってくれたけれど、父の顔を潰さないためにも、返事は早くしないといけなかった。
お通夜や葬儀で家が慌ただしくなる中、私は曾祖母の遺品を取りに老人ホームへ向かった。
衣類や弘法大使様の像などを次々に箱に詰めていく。ハルさんの置いてくれた金魚はいつのまにか水槽ごとなくなっていた。廊下を歩いていると、曾祖母の生きた証が掲示板に飾られたままで、私はまた泣きそうになった。ふと、隣に張られたあるポスターに目が留まった。
8月7日、夏祭り―――。
私は急いで和彦さんに電話を掛けた。
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