金魚すくい

夜市川 鞠

第1話 曽祖母の話

 


 青い水槽に紅の肢体がどぼんと投げ出される。ひたすらに泡の生み出される音が閑静な室内に響き渡った。窓からの採光で二匹の身体は黄金に輝いている。


「わざわざありがとうございます」


「いえいえ、私も置き場所に困っていたものだから丁度良かったわ」


 曾祖母がどうしてもというので、ハルさんがわざわざ家から持ってきてくれたのだ。あまり日に当たると良くないからと、ハルさんは曾祖母の唯一の外との繋がりを断ち切った。


「たかさんに初めて会うたのは見合いの時じゃった」


 曾祖母はお見合い結婚をした。私と同じ二十歳という齢で。親に決められた人と結婚をした。彼女は大正生まれだから、当時は別段珍しいということもなかったのだろう。窓辺に飾られた金魚を眺めながら、今日もまた、しどろもどろな口調で語りだした。


「初めて二人で出かけたのは地蔵祭りじゃて…今は夏祭り言いよるかね。わたしはねぇ、賭けをしようと思うちょった。このひとに一生捧げられるかどうか、金魚に…」


 曾祖母は、出店の金魚すくいで珍しい出目金を見つけた。そして、それを獲ることができたならば、結婚するというある種の賭けを自分の中でしたらしかった。


「出目金がとれよって、こりゃあれだ、運命ちゅうんかね。弘法大師様のお決めになったことと思うて」


「結婚したんだね」


 曾祖母は細い首で「うんむ」と大きく頷いた。もう何度も聞かされた話だった。


「京子ちゃんも、もうすぐお見合い。いつになるかいね」


「二日後だよ」


「ええ?何て。耳が遠いけえ、よう聞こえん」


 曾祖母と話しているときにはよくあることだった。ただ、最近は特に耳が遠くなったような気がする。

「あ、さ、っ、て」とさっきより大きな声で、一言一句はっきりと言った。曾祖母は私の言葉を独り言のように繰り返した。


「そうだ。ひいおばあちゃんにね、これ、作ってきたの。最近プリンが気に入ってるってハルさんが言うから」


「ハルさんちゅうのは誰かいね」


「ほら、さっきそこに金魚を飾ってくれた人だよ。いつもおばあちゃんの世話してくれるでしょう」


「あの人、ハルさんちゅうんかいね。そぉかね、そぉかね」


 今や、曾祖母が覚えているのは自分の子どもと私の名前くらいじゃないだろうか。最近は物忘れがひどくて、しばらくしたらちゃんと思い出すこともあるけれど、大抵の人の顔と名前が一致しない。この前、父と来た時も「誰かいね」と言い、挙句の果てに「めのとかいね」とさえ言うものだから参ってしまう。

 テーブルの上にプリンを出すと、手を摺り寄せて、何度も「ありがたい」と言った。曾祖母はいつも弘法大師様に感謝をしていて、そのおかげか、もうすぐ百歳になるのに口が達者だ。コーヒーが飲みたいと言うので、ハルさんに持ってきてもらった。

 曾祖母はリウマチでペンすら握れないため、私がスプーンでゆっくり口に運ぶ必要があった。


「おいしいねぇ、愛がある」


 曾祖母の口癖だった。おいしいものを食べた時、曾祖母は決まって「愛がある」と言う。私はこの言葉が昔から大好きで、短大で栄養士の資格を取ったのも、曾祖母のいる老人ホームで介護食を作りたいと思っていたからだった。

 これも弘法大使様のご加護なのか、曾祖母はこの年になっても食欲が失せる気配がない。一緒に食べようと持ってきた私の分までぺろりと平らげてしまった。よく、頭が痛くなっても弘法大使様にお祈りすると治る、朝晩毎日お祈りをしたおかげで戦時中も生き抜いたし、生まれてこのかた大病をしたことがないというのだから、本当にそうなのかもしれない。食べ終わってからも再び「ありがたいねぇ」と手を摺り寄せていた。


「あのね、ひいおばあちゃん。私ね…本当は、嫌なの。お見合い」


 専用の容器でコーヒーを飲ませている時、とうとう言ってしまった。そもそも、これを言いたくて、今日ここへ来たようなところがある。


「好きおうた人がおっちゃってか」と曾祖母の目が少し暗くなった。


「うん…。いたんだけどね、逃げられちゃった」


 こういうとき、無理にでも笑顔を作ろうとする自分が何よりも嫌になった。

私には短大で出会った同い年の恋人がいた。一年の時に彼から告白されて、私自身結婚も考えた相手だった。父に見合いの話をされた時、恋人がいるからと断ったけれど、もう決まった縁談だからと言って聞こうとしなかった。

 彼に事情を話した後、駆け落ちをしてくれと頼んだ。二十歳の誕生日に親にお見合いをさせられるから、と。彼となら一緒にやっていけると思っていた。私にはこのひとと一緒になって、幸せになれる自信があった。でも、実際のところ、「ねえ、私と一緒に…」と紡ぎかけた言葉は空を掴み、返ってきたのは「重い」という鉛のような言葉だけだった。

 そんな具合だから、未だに見合い相手の顔写真すらまともに見ていない。取引先の大手企業の御曹司らしいけれど、そんなことはどうでもよかった。私はまだ二十歳だし、結婚なんて、知りもしない男の人と結婚なんて。しかも、相手は私より六つも年上だという。

 さまざまな思いが込み上げてきて、頭痛がした。わかっている。父が時代遅れの昔かたぎなのもあるけれど、私が早く結婚して、専業主婦となって幸せな家庭を築くことを望んでいるのは、天国にいる母を安心させたいからだろう。きっと、自分も安心したいに違いない。私がお嫁に行って、幸せになって、そうしたら、父はようやく肩の荷が下りるに違いないのだ。


「そりゃあ、をとこがいけんねえ」


 金魚がぽちゃんと跳ねて水槽から飛び出した。はっとして、窓辺でぴちぴちと動くそれをそっと水槽へ戻した。体温がないくせに、妙な滑りがあって気持ちが悪い。

 洗面台で手を洗っていると、曾祖母がまた、「そりゃ、をとこがわりぃね」といった。私の数々の悩みも、そんな一言で片づけてしまわれては、何だか拍子抜けしてしまう。挙句の果てに、「もう二人も産んだね。わたしはこれがさいごっちゅうて…」と夜の営みの話を始めたものだから参ってしまった。それから芸能人の恋愛のゴシップやら世間話になり、ハルさんが不在の時、お風呂を男の人に入れてもらったのがたいそう不満だったことを話してくれた。この年になっても乙女心とやらは健在らしい。ただ、私のズボンの中に手を入れてきた変態がおったというのは、多分若手の男のヘルパーさんが、シャツをズボンにしまうのを手間取っているのを見かねて手伝ってくれたのだと思う。


「きみゑさぁん、もうすぐ晩御飯ですよ」


とハルさんが呼びに来た。時計は十七時を回っていた。十四時くらいにここへ来たから、曾祖母とは随分話していたことになる。つくづく曾祖母の話術には感心する。

 ハルさんが曾祖母を車椅子へ乗せてくれた。そのまま見ているとここでお別れになってしまいそうなので、「私が押していきます」と慌てて言った。普段ならそれでいいのだけれど、今日はもう少しそばにいたかった。

 廊下を歩いていると、施設のご老人たちの描いた絵や書道、俳句などが向かい側からの採光でライトアップされていた。初夏の午後はいつまで経っても真昼のような顔をしている。曾祖母は、あれは自分の句だと指差しては子どものように喜んだ。


「見合いの時はな」


 食堂に着き、お別れしようとすると曾祖母が口を開いた。


「ちょっと、きみゑさん。今日はもうたくさんお話したでしょう。京子ちゃんも…」


とハルさんが言うのを、いつもなら埒があかなくなるからとのみ込んでいたが、今日はこれだけ聞いたら帰りますと言った。


「目の奥に光が通ったら、けっこん」


 ―――目の奥に光が通ったら、けっこん。


「あれ、でもいつもは」


「きみゑさん、みなさんも待ってらっしゃるから。今日は京子ちゃんとたくさんお話しできてよかったねえ」


「うむ、うん。よかった。弘法大師様、ありがたうございます。京子ちゃんとお話しできて、ねぇ。ありがたい、ありがたい」


 この施設では決まった時間に全員で食事をする決まりになっている。すでにほとんどの人が集まっていて、年齢を感じさせない弾丸トークがあちらこちらで沸き起こっていた。

 曾祖母は私を玄関まで見送ると言って聞かなかったけれど、また来るからねとなだめてここでお別れした。曾祖母はリウマチで痛いという手を、私が見えなくなるまで振り続けてくれた。

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