005 旧姓

 我が家には暗黙の了解がいくつもある。

 鍋の具を装うのは那由他さんから――これも暗黙の了解の一つである。那由他さんの名誉の為に言っておくが、これは彼女が言い出した事ではない。那由他さんがそんなみみっちい事を言い出すわけがない。俺達『子供』が『母』に対して敬意を払っているからこのような暗黙の了解が生まれたのだ。

 兎も角、鍋の時はそのような暗黙の了解がある。

 今日も例に漏れなかった。

 しかし、お椀に具材を装った那由他さんはそれを自分の前に置かずに『新顔』の前に置いた。

「はい、凌子ちゃん。小唄くんお手製の石狩鍋ですよ。たーんとお食べ」と言って。

 凌子ちゃんと呼ばれた少女はペコリと遠慮がちなお辞儀をした。

 続いて那由他さんは自分の分を装い、宵乃が装い、俺が装い――これで全員の手元に石狩鍋が行き渡った。

「さて、何から語りましょうか」

 那由他さんは半纏を脱ぎながら言った。それに対してフライングで両手を合わせていた宵乃は「え、今?」と言った。

「あ、食べながらの方が良かったですか?」

「そりゃそうでしょ。さっさと食べないと冷めちゃうじゃないか。喋るならせめて装う前だろ。なぁ? 貴君」

「まぁ、そうだな」

 今回に関しては完全に同意だ。

「そうですか……。それもそうですね。そしたら、まず『いただきます』をしましょうか。皆さん、手を合わせてください――いただきます」

「いただきまーす」

 言って、俺は鮭を口に放り込んだ。じっくり煮込まれた鮭はとても美味く、五臓六腑が喜んでいるような気がした。次に野菜を頬張る。これも美味しい。中でもクタクタになったキャベツは仄かに甘く、いくらでも食えるような気分になる。

「さて、何から語りますか」那由他さんはモグモグしながら言う。「まずは名前からですね――彼女は凌子ちゃん。中学二年生です。今日からここで暮らします!」

 さもサプライズかのように言う那由他さん。

 俺は「おー」と言うのが精々だった。

「さて」那由他さんは凌子ちゃんの方を見る。「こっちの男の子が小唄くん。こっちの女の子が宵乃ちゃんです。二人とも高校二年生。で、ここにはいないけど、二階に美弥子ちゃんという一四歳の女の子がいます。後で改めてきちんと紹介しますね」

「那由他さん、質問!」宵乃は高々と手を挙げる。「凌子ちゃんの事は何て呼べばいいですか?」

「さぁ。本人に訊いてください」

 全員の視線が凌子ちゃんと呼ばれた少女に注がれる。

 しかし彼女は俯いたまま微動だにしない。よく見ると、食事にも手を付けていない様だ。

「凌子ちゃんって呼んでいいかい?」

 宵乃が問うと、凌子ちゃんはコクンと頷いた。

 俺はその姿に少し安堵した――那由他さんに拾わられるのは曰く付きな連中ばかりだ。人格が破綻していたり、精神が破綻している奴も少なくない。意思の疎通が出来ない奴は珍しくない。そんな難しかない拾われっ子の中で、彼女は群を抜いてマトモに見える。

「那由他さん、凌子ちゃんの部屋は決まってるんですか?」

「はい。小唄くんの隣の部屋で寝てもらおうと思います」

「あそこ、埃まみれですよ?」

「大丈夫です。掃除しましたから」

「まさか、そのために今日はやく帰ってきたんですか?」

「そのまさかです」

「言ってくれれば学校休んで掃除したのに」

「だから言わなかったんです」

「貴君の負けだな」そう言って宵乃は汁を啜る。「なぁ凌子ちゃん。自己紹介してくれないか?」

「えっ……」

 凌子ちゃんの手から箸が落ちる。

 俺はすかさず「おい宵乃、新人いびりはよせ」と窘める。

「自己紹介が新人いびだとすれば、この社会はいびり地獄だ。なに、私は凌子ちゃんがどんな花が好きで、どんな歌が好みなのか知りたいだけだ」

「だ、そうですよ」那由多さんは凌子ちゃんに微笑む「頑張れそうですか?」

「は、はい……」凌子ちゃんは一回視線を落としてから、顔を上げた。「枕野凌子って言います……。十四歳です……。す、好きな花は……藤の花です。音楽は……ちょっとわかりません。ごめんなさい」

「枕野って――あの『針姫五角家』の?」

 思わず反応してしまった俺に、凌子ちゃんは点頭で応じる。

「そうか」

「どうかしましたか……?」

「いや、なんでもない。――ほら、宵乃。今度はお前の番だ。お前も凌子ちゃんに自己紹介しろよ」

「むぅ。仕方がない――私は猫崎宵乃。旧姓は三十日。十七歳だ。好きな花はアセビで、好きなロックバンドはコールド・プレイだ。よろしく」

「よ、よろしくお願いします」

「はい、じゃあ貴君」

「……仕方ねェな」俺は箸を置いた。「さっき那由他さんが言った通り、俺の名前は小唄って言うんだ。好きな花はアネモネかな。好きな音楽はオルタナティヴ・ロックだ」

「貴君、旧姓は?」

「あん? 言う必要ないだろ」

「あるさ。貴君の旧姓を知れば彼女も親近感が湧くだろう」

「………」

 まぁ、そうだろうな。枕野と言えば、あの『針姫五角門』の一角を担う名家だし……。

「俺の旧姓は針姫だ」

「は、針姫って……」予想通り、凌子ちゃんは反応した。「あの針姫ですか?」

「ああ。あの針姫だ」

「針姫様がどうしてここに……?」

「様はよせ。あと敬語もやめろ。俺は葦子としてとうの昔に棄てられた身だ。今は猫崎小唄――それだけだよ」

「………」

 凌子ちゃんは口を噤んでしまった。

 名乗らなければよかったと思ったのは言うまでも無い。

「じゃあ最後は私の番ですね!」那由他さんは手をパンと叩いて嬉しそうに言った。「私の名前は猫崎那由他。旧姓は鍛冶屋です。好きな花は藤の花で、音楽はピアノジャズです」

「なぁ那由他さん――ちょっと訊いていいか?」宵乃は手を挙げた。「その旧姓というのは、いつ名乗っていた旧姓だ?」

「お前、そこツッコムのかよ……」

「貴君も気になるだろ?」

「なるけどさ……」

 デリカシーという言葉は宵乃の辞書には無いらしい。

「で、那由他さん。いつ名乗っていた旧姓なんだ?」

「結婚する前ですよ。言ってませんでしたっけ? 私、未亡人なんですよ」

 初めての情報に、俺も宵乃も声を上げて驚いた。

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