006 髪

 食事が終わったら風呂の時間だ。

 風呂の入る順番にも『暗黙の了解』がある――一番風呂は那由他さんだ。彼女が絶対に一番風呂に入る。二番目は特に決められていないが、宵乃が入る事が多い。その次に俺が入り、風呂の栓を抜く。二階で引きこもっている同居人は日中に人知れずシャワーを浴びているので考慮しなくていい。

 しかし、今日に限っては、その暗黙の了解は破られた。

 那由他さんの提案で、歓迎すべき新顔である凌子ちゃんが一番風呂を入る事になったのだ。そして審議の結果、二番目に那由他さんで、三番目に俺が入る事となった。宵乃はナントカ彗星を見終わってから入浴するらしい。

 凌子ちゃんの風呂は短かった。ほんの五分程度で上がってきた。

「ゆっくり浸かれましたか?」那由他さんは言った。

「あっ、はい。ありがとうございます」凌子ちゃんは控え目に頭を下げた。

「それはよかったです。次、私がいただきます」

 言って、那由他さんは風呂場へ行った。

 リビングに残されたのは俺と凌子ちゃんだけとなった――俺はコタツに入り小説を読み、凌子ちゃんは襖の前に立ったまま微動だにしなかった。髪から雫が垂れても、だ。

 彼女の行動についてトヤカク言う気はなかったが――十分以上突っ立っている彼女を見かねて、とうとう言ってしまった。

「寒くないの?」

「は、はい」

「そう……。遠慮してるなら、しなくてもいいぜ。コタツに入りたければ好きなタイミングせ入ればいいし、ストーブの前が好きならストーブの前で丸まってくれてもいい。勿論、自分の部屋に戻りたければ好きなタイミングで戻りな。今日から此処が君の家だからな」

「わかりました」

「敬語はよせって言ってるだろ。俺と君は今や兄妹だ。兄貴に敬語を使う妹がいるか?」

「私の家では言ってました……」

「マジかよ。あ、俺の実家でも使ってたわ……」

 妹の優歌は俺に敬語を使っていたっけ。

「あの異常な連中の風習は忘れろ。普通の家庭じゃ、妹は兄貴に敬語は使わない」

「わかり……わかった」

「よろしい」

 ここまで言って、自分の犯した罪に気が付いた――そうだ、彼女はさっき家に来たばかりで、右も左もわからないじゃないか。ドライヤーの位置など知るはずがない。

 俺は慌ててコタツから飛び出し、後ろの箪笥の二段目の引き出しからドライヤーを取り出した。それを彼女に渡す。

「悪いな、気が利かなくて。これ使ってくれ」

「ありがとう……」

 受け取る彼女の表情はきょとんとしていた。

「どうした?」

「これは……どうやって使うの?」

「はァ? どうやってって――コンセント差して、スイッチをオンにして、出てくる熱風で髪を乾かすんだよ」

「そう……」

 ピンときていない様子だ。

「まさか、使った事がないのか?」

「はい……。すみません……」

「いや、謝らなくていいけど――」

 なるほど、段々彼女の『前世』が見えてきた。

「凌子ちゃん、ちょっと待っててくれ――宵乃を呼んでくる」

「ん? どうしてですか?」

「君にドライヤーの使い方をレクチャーさせる。女の子が髪を濡らしたまま居るのは拙い」

「貴君。それは性的差別だぞ」どこからともなく現れた宵乃は言った。「女の子はドライヤーを使うべきというのは、前時代的な思想だ。ツイッターで呟いてみろ、大炎上するぞ」

「じゃあ言い直してやる。男だろうが女だろうが髪を濡らしたままは拙い。髪の毛が痛むし、風邪を引く」

「貴君は本当にオカンみたいだな」

「軽口はそのくらいにして、凌子ちゃんにドライヤーの使い方を教えてやってくれないか?」

「嫌だよ。なんで私が――私はミカンを取りに来ただけだ。貴君が教えてやればいいだろ」

「男の俺が教えるより女のお前が教える方が良いだろ。女同士なんだし」

「出た。貴君はすぐに男とか女とか言うな。男子高校生か」

「男子高校生だ」

「兄貴が妹に髪の乾かし方を教えてあげるだけだ、そう難しく捉えるなよ」

 宵乃は憎らしくウインクをする。そしてコタツの上に鎮座していたミカンを一つ拾って二階に戻った。

「はぁ……。凌子ちゃん、コタツに入って待っててくれ」

「わ、わかりました……」

 凌子ちゃんは言われた通りコタツに入った。俺はその間に脱衣所からタオルを一枚拝借し戻ってきた。

「今から髪の乾かし方を教えるから、明日からは自分でやるんだぞ」

「わかりました」

「髪を触るが許してくれ」

 凌子ちゃんの後ろで膝立ちをした俺は彼女の髪をタオルで挟んだ。

「こうやって、毛先はタオルで挟んで水気を取る。雫が垂れないくらいに水気を取ったらオッケーだ。次に、ドライヤーをコンセントに差す。コンセントは壁にある」

 言って、俺は壁コンセントにドライヤーのコネクターを接続した。

「そんでドライヤーを使う訳だが、その前に気を付けて欲しいのが、コタツの電源を切る事だ。我が家のブレーカーは雑魚だからドライヤーとコタツとヒーターを同時に使ったら飛ぶ。覚えててくれ」

「わかりました」

「今からスイッチをオンにするぞ。温風が出てくるけど、ビックリしないでくれよ」

「はい……」

 俺はドライヤーのハンドル部にあるスイッチをスライドさせる。すると、噴出口から温風が勢いよく発射された。

 温風が凌子ちゃんの髪をふわっと撫でる。

「わっ……」

「熱くないか?」

「大丈夫です……」

「オッケー、じゃあ続けるぞ。ドライヤーの風は髪の根本に上から当てろ。下から当てたり、毛先に当てたら髪型が崩れちまう。上から、根元に、だ。ある程度乾いたら毛先に風を当てて乾かす。それだけだ。簡単だろ?」

「はい」

「じゃあ、やってみろ」

 俺はドライヤーのスイッチを切り、それを手渡した。

 受け取った凌子ちゃんは再びスイッチを入れ、温風を髪に当てて乾かし始めた。

「これであってますか……?」

「ああ、良い感じだ。上手いよ」

「ありがとうございます」

 凌子ちゃんは小さく微笑んだ。

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