壱章 枕野凌子

001 進路希望

 吐息が白い。耳が痛い。寒い。寒すぎる。

 廊下は校舎内だというのに、これでは屋外と変わりない。

 このまま暖を取らなければ身体は凍り付いてしまい、来春まで学校の霜として過ごす羽目になるだろう。それはそれで面白そうだが、折角拾って貰ったこの命をそんな事で手放すのも少し惜しいように思われた。

 兎も角、もう我慢ならない。

 一刻も早く温まりたい。

 そう思った時である、教室の戸が開いた。

「やぁ、貴君。待ったかい?」

 蒸したての肉まんのようにホカホカとした形相の猫崎宵乃が出て来た。

「廊下は冷えるだろ。可哀想に。尻は冷えてないだろうな?」

「……なんで尻?」

「尻は冷やしたら駄目だぞ。万病の元だ」

「ジジィみたいな事言いやがって」

 誰の受け売りだよ、と言って、一刻も早く教室に入りたかった俺は出入口に向かう。が、宵乃は意地の悪い事に、それを遮るかのようにドアを後ろ手に閉めた。

「貴君」そして意味もなく俺に顔を近付けて言った。「貴君の進路相談が終わるまで廊下で待っていてやる。だから一緒に帰ろう」

「恩着せがましんだよ。待っていらねェし、一緒にも帰らねェよ」

「なんでさー」

「寄って帰らなきゃならねェとこがあるんだよ」

「どこ?」

「八百屋に魚屋に味噌屋だ。後、花屋」

「全部スーパーで事足りるだろ。貴君は要領が悪いな」

「スーパーは割高なんだよ」

それに、スーパーに花は売ってない――そう付け加えたタイミングで、再び教室のドアが開かれた。視線をやると、髭面のオッサンが気怠そうにこっちを見ていた。

「おい、猫崎」

「はい」

 俺と宵乃は返事をすると、オッサンもとい嬉野先生は「小唄の方だ」と俺を指をさした。

「さっさと教室に這入れ」

「へいへい」

「あと宵乃の方――さっさと帰れ」

「嫌でーす。世界が滅ぼうとも弟を待ち続けまーす」

「好きにしろ」

 バシンと音が鳴るくらい勢いよくドアを閉めた嬉野先生は、隙を見て教室内に這入ったばかりかストーブで指先を温めていた俺に「俺はてっきりお前が兄貴だと思ってたぜ」と言った。

「誕生日は俺の方が先ですけどね……何故かアイツは姉を自称してるんです」

「そうか。相変わらずお前のトコは複雑だな」

「アイツがアホなだけです」

「アホはお前も同じだぜ、猫崎」

 嬉野先生は教室の中央で向かい合わせに並べられた机の上の紙を拾い上げると、俺の隣に立った。

「おい猫崎。なんだ、これは?」

「進学希望調査書」

「ンな事はわかってんだよ。おじさんを馬鹿にすんじゃねェよ――なんで白紙なんだって訊いてんだ」

「まだ二年生なんで進路なんてわからないです」

「馬鹿野郎。春になれば三年だ。三年は全部受験にあてるために、二年の内に進路をきめておくんだよ」

「そうっすか」

「そうだ――で? 薄ぼんやりでもいいから、進路希望を言え。今、ここで」

「高校を出たら働こうと思ってます」

「……今、なんて言った?」

「高校を出たら働こうと思ってます」

「はぁ……」

 先生は大きなため息をついて、髭をボリボリと掻いた。

「金がないのか?」

「ないわけじゃありません。たぶん『あの人』は持ってると思います。でも、これ以上出させたくないんですよ」

「だったら借りればいいんじゃねェか」嬉野先生は手を擦る。「お前の成績なら利息のない奨学金が借りれるだろ?」

「それで賄えるのは授業料だけです。学校を通ってる間の生活費は、どれだけバイトしてても、絶対に那由他さんに賄って貰う。……それが嫌なんですよ」

「だからって短絡的すぎるぜ。それなら、良い大学行って、良いトコに就職して、倍にして返してやればいい。それが孝行ってモンだ」

「………」

 言いたい事は山ほどあった。しかし俺はぐっと堪えた。どんな言葉を並べても嬉野先生が意見を曲げないのは目に見えていたからだ。

 それを察したのだろう――嬉野先生は俺に白紙の進学希望調査書を渡してきた。

「親御さんとよく話し合って決めろ」

「……どうして先生は進学させたがるんですか?」

「進学校の教師だからだよ」

「ストレートっすね」

「嘘言っても仕方がないだろ――俺は進学校の教師で、俺のミッションは生徒を全員良い大学に入れる事だ。特にお前みたいな優秀な奴は、是が非でも上等な大学に入れなきゃならねェ。それが世の為、人の為、親御さんの為、給料の為だ」

「ミッションねぇ……」

「お前のミッションは何だ?」

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