第3話 神と契りを交わしし者
頬に優しい感触を感じて僕はゆっくりと目を開けた。痺れる左手でそっと僕の頬についた何かをとった。それは鮮血のように真っ赤な花弁だった。
「生きてる……?」
未だに頭は痛むし、身体はだるく吐き気もする。だけど傷は塞がっていて安全なところに寝かされている。
「一体誰が……、そしてここはどこ……」
「目が覚めたか、シュラン・アレクスタ」
振り向くと、そこには背の高く凛とした女性がいた。僕はあまりの神々しさに息を呑んでしまった。それ程までに女性は神秘的で、この世のものとは思えないほど美しかった。腰まで伸びた緑の黒髪、四肢を赤く薄い衣で申し訳程度に覆い、悠然とした様で佇んでいる。その幻想的な姿からは人と同じ見た目をしていても、全く違う存在であることを肌で理解することができた。
そして女性の背後には大きな桜の木があった。ただその木は普通の桜とは違い、僕の家が丸々入ってしまうのではと思えるほど太い幹が枝を広げ、血のように真っ赤な花を咲かせた禍々しい桜の木だった。一目見て、僕はこの桜が"鮮血の桜"だと理解した。
「ここは"境目"だ。汝ら人族と神々が唯一交わることのできる、歪んだ世界。通常では誰も入り込むことはできぬが、汝は特別、我直々に許可を与えられたのだ」
僕はぱっと周りを見渡す。確かに不思議な景色だ。幻想的で儚い"鮮血の桜"はその儚さゆえに消えてしまいそうな印象を受ける。何だかこの世界では全てが不安定で儚げだ。目の前の女性も、地面も、僕の身体も何かのきっかけで霧散してしまいそうだ。まるで白昼夢のようなふわふわとした、得体の知れない感覚。
「助けていただきありがとうございます。本当に助かりました。ところで、貴方の名前は?」
「我の名か?我に名などない。しかし、汝等からはラスティレッドの名で呼ばれている」
「じゃぁ貴方は……」
血の森の女神様ですか、と言おうとした僕を遮るかのように女性はさて、と口を開いた。
「シュラン・アレクスタ。汝は我の興味を大いに惹いた、ゆえに契りの儀をかわしてやろう」
目の前の女性は艶めかしい笑みを浮かべて、僕にそう語りかけた。
「契り?どうして貴方は僕の名前を……それに僕はそんなこと言ってないのに……」
「人族らのする"遠慮"という物か?ならばそんな無粋なもの、我の前ではいらぬ」
「えっと……僕はそもそも契約なんて結んでないはずじゃ……」
「言っただろう、遠慮など要らぬと。我はただ汝に、神と契約を結んだという栄誉ある証を授けようというだけだ」
「ごめんなさい……僕はそんなものには興味がないです」
話の腰を折られたことに驚いたのか、女神は怪訝な顔で僕を見つめた。契約というのがどんな物かよくわからないし、そんな物に興味はない。ただ、僕は後ろの桜にだけ用がある。
「そうか……まさかそんな返答をするとはな。予想だにしなかった」
ラスティレッドは全く予期していなかった新しい物を見たと興味深げに頷いた後、
しかし、と話を続けた。
「汝は我が直接干渉した存在だ、シュラン・アレクスタ。汝は我と既に契約を結んでおる。拒むことはもうできぬ」
「直接干渉をしたって一体……」
「気づかなかったのか?汝は既に我の手によって治療されておる。神は契りを結んだ者のみにしか干渉をすることはできぬ。ゆえに、汝は我と契約を結んでおるのだ」
ラスティレッドは知らなかったのかとでも言わんとばかりに平然と事実を突きつけた。僕は思わずえっと叫び、あわてて背中の傷に触れた。確かに傷が塞がっている。確かにあの怪我は治療もなしに塞がるほど浅い怪我ではなかった。
「でもいつ契約を……」
「よもや覚えておらぬのか?汝が魔獣の群れに襲われ、死の淵に瀕したとき、我は望みを叶えてやろうと言っただろう?」
僕は小さくこくりと頷いた。確かに覚えがある。僕が意識を失う寸前、天から女性の声が聞こえたような気がする。
「その時、汝は生きながらえたいと願った。我はその望みを聞き届け、治癒を施した。我は汝に干渉し、望みを叶えた。ゆえに、それが契約だ」
そう言って、ラスティレッドは鮮血の桜の下に歩み寄り、その小枝を優しく折り、そしてそっと息を吹きかけた。
桜の小枝は眩い光を発しながら徐々にその姿を変え、小さく円環状の物へと変化した。ラスティレッドはその円環状の物を手に持って僕の目の前へと差し出した。
「シュラン・アレクスタ。神と契りを交わしし者よ。汝に契りの証たる指輪を授けよう」
僕は差し出された円環状の物を右手でそっと受け取った。それは錆びついた指輪だった。きめ細やかな紋様が刻まれ、赤く錆びついた、金色で金属質の指輪。
「契、約……」
僕は左手の薬指にはめられた指輪を見てそう呟いた。さっきから訳のわからないことだらけだ。治療?神の干渉?契約?あぁ、混乱して頭が痛い。一体これから僕はどうなってしまうのだろうか。昔、悪い悪魔に騙された少年が、欲にくらんで愛する人をその手で殺してしまうという絵本を母さんが読み聞かせしてくれた気がする。そんな僕の不安を読み取ったかのようにラスティレッドは案ずるなと声をかけた。
「案ずるな、シュラン・アレクスタ。契約と言っても我に貢物を捧げるわけでも、我の傀儡にされるわけでもない。汝はただ我との繋がりを感じ、"来たるべき日"が来るまでその指輪を肌身離さずつけておくだけでいい。それが契約だ」
来たるべき日とは何ですか。そう聞こうとした瞬間、僕は不意に目眩を感じ、足がもつれて地面に倒れ込んだ。
「何で急に……今、吐き気が……」
「気にするな、我の施した感覚遮断の治癒がきれただけだ。いくら傷口を塞いでも、汝の傷では感覚遮断の治癒がなければ話すことどころか意識を保つことすらできぬからな」
「早く、言って欲しかった……」
「安心せい。治療はすでに終えてある。今気絶したところで死ぬわけではない。安心して眠れ」
「さ、最後に一つ良いですか?」
僕は腹の奥から込み上げる嘔吐感に無理矢理蓋をして、声を絞り出した。
「何だ?」
「"来たるべき日"って何なんですか?」
その質問を待っていたかのようにラスティレッドは不適な笑みを浮かべた。
その笑みが歪む、回る。いや、歪んでいるのは僕の視界だ。目がまわってクラクラする。頭がガンガン響いて、耳鳴りもする。もう意識が……
「言ってしまえば、汝が我をうk………
あぁ、もう何も聞こえないや。暗闇に意識が落ちていく寸前、僕は一つの声を聞いた。何故かその声は微かに震えていたような気がした。
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