第十三幕


 第十三幕



 やがてとっぷりと陽も暮れて、真冬のイングランドの夜空に白く輝く寒月が上る頃、僕と淑華とグエン・チ・ホアの三人はエセックス州警察ロートン支署でもって執り行われた事情聴取からようやく解放された。

「ああ、疲れた」

 警察署の正面玄関の自動扉をとぼとぼとした足取りでもって潜り抜け、今にも小雪が舞い落ちて来そうな夜空を見上げながら溜息交じりにそう言った僕の言葉に、ラタンの旅行鞄を手にしたグエン・チ・ホアと淑華の二人もまた同意する。

「ええ、そうね? こんなフォルモサから遠く離れた異国の地でもって警察の方々のご厄介になってしまうだなんて、不運にも程があるのではないかしら?」

「そうよそうよ! こっちは純然たる被害者だって言うのに、どうしてこんな時間になるまで拘束されなきゃならないってのよ! まったくもう! これだから、警察なんて大っ嫌い!」

 僕と一緒に警察署から退出したグエン・チ・ホアと淑華はそう言って、特に淑華はぷりぷりと怒りを露にしながら、自分達が警察から事情聴取を受けねばならなかった事に対して愚痴を漏らさざるを得ない。

「何はともあれ今夜ばかりはなるべく早めにお宿を探した上でもって、さっさと夕食を召し上がってしまわれてから、ゆっくりお休みさせていただく事になさいましょうね? お二人とも、それでよろしくて?」

「そうね、まあ、それでいいんじゃない?」

「ええ、僕も異論はありません」

 僕と淑華がそう言ってグエン・チ・ホアの提案に賛同の意を表明したならば、純白のアオザイ姿の彼女は「でしたら、急ぎましょ?」と言って、ロートンの町の中心部の方角へと足を向けた。そして僕らを先導するかのような格好でもって歩き始めたグエン・チ・ホアの背中を追いながら、僕はつい数時間前の、僕ら三人が警察から事情聴取を受けねばならなくなった直接の原因である出来事について思い返す。

「危ない!」

 そう言って警告の言葉を発した僕の努力も空しく、ハンチング帽の男は大型トラックに撥ねられた衝撃でもってごろごろと転がってから車道の上に横たわり、そのままぴくりとも動かなくなってしまった。

「あらあら、大変ね?」

 そしてそんなハンチング帽の男の身体から真っ赤な鮮血がじわじわと染み出すのを横眼に、グエン・チ・ホアはまるで他人事の様な表情と口調でもってそう言うものの、勿論彼女だって、その場でぼーっと突っ立ったまま傍観していたと言う訳ではない。

「万丈くん、あなたさえよろしければ、今すぐにでも警察と救急に通報してはいただけないものかしら? イングランドの緊急通報用電話番号は999、もしくは112でしてよ?」

 やがて気を取り直したグエン・チ・ホアはそう言って警察と救急への通報を僕に依頼した後に、決して焦る事無く、しかしながらのんびりしていると言う訳でもない程度の軽快な足取りでもって車道へと足を踏み入れた。そして車道の中央で横たわったまま動かないハンチング帽の男の傍らでもって跪くと、彼の容態を一旦確認してから、今度は停車した大型トラックの運転手に檄を飛ばす。

「そこのあなた、そのような所でおろおろと狼狽なさっている暇がありましたら、どこかその辺りのお店や施設からAEDを拝借して来てはくれないものかしら? こちらの方はどうやら心肺停止の重篤な容態ですので、このまま息を吹き返されない事には、あなたは人殺しの汚名を着せられる事になってしまいましてよ?」

 くすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアから、まるで半ば恫喝されるかのような格好でもってAEDを持って来るよう命じられた運転手は、その場に大型トラックを残したまま「は、はい!」と言って命令を了承してから走り去った。そして走り去った大型トラックの運転手がAEDを持って来る、もしくは僕が通報した警察か救急が到着するまでの時間を無駄にしないためにも、グエン・チ・ホアは救急救命処置に取り掛かる。

「意識は無く、脈拍も停止なさっておられますから、胸骨圧迫による心臓マッサージが必要ね? でもまずはその前に、致命的な外傷が無いかどうかを確認してみなければならないのではないかしら?」

 ハンチング帽の男の傍らに跪き、まるで独り言つかのような格好でもってそう言ったグエン・チ・ホアは、生きるか死ぬかの瀬戸際を彷徨さまよっている眼の前の男の衣服をおもむろに脱がし始めた。どうやら先程彼女が独り言ちた言葉の通り、本格的な救急救命処置に取り掛かるその前に、まずは致命的な外傷が無いかどうかを確認するつもりでいるらしい。そしてハンチング帽の男の身を包む上着とシャツを脱がし終えたところで、事故現場を一目見てみようと集まった数多の野次馬達に取り囲まれながら、グエン・チ・ホアはとある事実に気付く。

「あら?」

 上着とシャツを脱がされ、白日の下に晒されたハンチング帽の男の胸には大きな刺青によるメッセージ、つまり俗に言うところのレタリングタトゥーが彫られていたのだ。

「?」

 そのレタリングタトゥーは書体こそアルファベットではあるものの、英語やフランス語やドイツ語などのそれとは文法が異なっていたので、僕には読む事が出来ない。

「これは……ウェールズ語ね? それも古いウェールズ語、おそらくブリトン語に近いものと思われましてよ?」

 しかしながら僕なんかよりもずっと聡明で博識なグエン・チ・ホアはそう言って、ハンチング帽の男の胸に彫られていたレタリングタトゥーが何語であるのかをあっさりと看破し、それを読み解いてみせる。

「どうやらこのタトゥーは、ブリトン語でもって『アーサー王に栄光あれ! 我らブリトン騎士団は、偉大なるアーサー王と共にあり!』と彫られているのではないかしら?」

「アーサー王? ホアさん、アーサー王って、あのアーサー王の事ですか?」

「ええ、そうね? アーサー王伝説でもって有名な、あのアーサー王の事でしてよ?」

 心肺停止状態のハンチング帽の男の胸に彫られていたレタリングタトゥーの内容を読み解きながら、グエン・チ・ホアはそう言って、僕の問い掛けに返答してみせた。彼女が読み解いたレタリングタトゥーの内容が事実であるとするならば、どうやらこのハンチング帽の男は、かつて大ブリテン島を統べる偉大な騎士王であったと言うアーサー・ペンドラゴンとその英雄伝説に、いたく心酔してしまっているらしい。そして不意に次の瞬間、事故の衝撃でもってハンチング帽が脱げ落ちた男の頭髪が見事な赤毛であった事から、ようやく僕は気付くのだった。グエン・チ・ホアの手からラタンの旅行鞄を引っ手繰ろうとしたこの男こそ、今朝の民宿の食堂でそれとなく僕ら三人を監視していた、あの赤毛の大柄な白人男性である事に。

「ちょっと、万丈ったら、さっきから一体どうしちゃったの? あたしの話、ちゃんと聞いてる?」

 するとハンチング帽の赤毛の男が大型トラックに撥ねられた直後の出来事を思い返していた僕の意識は、そう言った淑華の言葉によって、今現在の時間と空間へと一瞬で呼び戻された。

「え? あ、ご免、ぼーっとしてて聞いてなかった」

 はっと我に返った僕がそう言って謝罪したならば、謝罪された淑華はロートンの町の中心部を目指して僕と一緒に歩きながら、ぷりぷりと怒りを露にする。

「まったくもう、万丈ったら、あたしが喋ってる時にぼんやりしてないでよね! 只でさえあんたはうっかり者で、昔っから不注意なんだから!」

「うん、だからさっきから、こうしてご免なさいって謝ってるじゃないか。えっと、それで、何の話をしてたんだっけ?」

「あのトラックに撥ねられた男の人が、せっかく止まってた心臓を再起動させてあげたって言うのに、このまま意識が回復せずに死んだりしなきゃいいなって話してたところじゃないの! 勿論悪人には相応の裁きの鉄槌が下されるべきだって思うけど、さすがに只の引っ手繰りに過ぎないあの人が死んじゃったら、まるであたし達のせいで死んだみたいで夢見が悪いもんね!」

 真冬のイングランドの夜空の下を歩きながらそう言った淑華の言葉通り、件のハンチング帽の男改め赤毛の男は、グエン・チ・ホアの手による救急救命処置によってからくも息を吹き返す事に成功したのであった。しかしながら心肺停止状態から奇跡的に一命を取り留めたにも拘らず、赤毛の男の意識は未だ回復の兆しを見せぬままであり、今現在の彼は警察病院のベッドの上で昏々と眠り続けているのである。

「ええ、そうね? せっかく息を吹き返してくださったと言うのに、このまま意識が戻らなければ、彼の身元や犯行動機が分からないままなのではないかしら?」

 すると僕ら二人の前を歩くグエン・チ・ホアもまたそう言って、小首を傾げながら、困惑の溜息を吐くのであった。

「せめてほんのちょっとでも意識が回復なさってさえいれば、あたしが得意とする催眠術でもって、彼が所属されている筈の組織やその目的を白状させる事が出来るのですけれどもね? けれどもさすがに昏睡状態のままですと、そうも行かないじゃない?」

 やはり小首を傾げて溜息を吐きながら、ややもすれば不穏当な発言をも厭わぬままそう言ったグエン・チ・ホアに、僕は問い掛ける。

「え? 所属している筈の組織やその目的を白状させるって事は、つまりあの赤毛の男は偶々たまたまあの場に居合わせたホアさんを狙った只の通りすがりの引っ手繰りって訳じゃなくて、意図的にホアさんの鞄を狙って引っ手繰ろうとした確信犯だったって事ですか?」

「ええ、そうね? それに万丈くんだって、あの方が昨夜からずっとあたし達を監視されていた事に、薄々勘付いていらしたんでしょ?」

 僕の問い掛けに対して、グエン・チ・ホアは事も無げにそう言って問い返しながら、くすくすと愉快そうにほくそ笑んだ。

「え? 何? つまり、あのトラックに撥ねられた男の人って、あたし達を昨日の夜からずっと監視してたって事なの? 嫌だ、何それ、キモい! 超キモい! それに万丈ったら、そんな大事な事を、知ってて今まで黙ってた訳?」

「いやいやいや! 違うって! 僕はそんな前から監視されてただなんて、全然気付いてなかったよ! 僕はほんの数時間前の事故の直後に、B&Bの食堂で朝食を食べていた時に見掛けた男がホアさんの鞄を引っ手繰ろうとした男と同一人物だって事に、やっと気付いただけだってば!」

 僕が慌てふためきながらそう言って、淑華によって掛けられた嫌疑に対して必死に釈明したならば、グエン・チ・ホアは先の彼女の発言を補足する。

「あら、そうですの? あたしはてっきり、昨夜ヒースロー空港の到着ロビーに足を踏み入れた瞬間からずっとあの方が尾行と監視を継続なさっておられる事に、万丈くんも淑華ちゃんも、それとなく気付かれていらっしゃるものとばかり思っていましてよ? 違いまして?」

「気付きませんよ、そんなの!」

「そんなの、気付く訳ないじゃない!」

 赤毛の男による尾行と監視に気付いていたのではないかと言うグエン・チ・ホアの問い掛けに対して、僕と淑華はそう言って即座に断言し、これを真っ向から否定した。そしてロートンの町の中心部目指して月夜の下のハイ・ロード、つまり国道A121号線を南下しながら、僕は改めて彼女に問い掛ける。

「だとしたらホアさん、僕らを監視していたあの赤毛の男は、一体何者なんですか?」

 僕がそう言って問い掛ければ、僕と淑華を先導するかのような格好でもって歩いていたグエン・チ・ホアは、不意にぴたりと足を止めた。そして夜のハイ・ロード沿いに建つ一軒の店舗を指差しながら、僕ら二人に提案する。

「そこから先の込み入った事情についてのお話は、あちらのお店でもって、夕食を召し上がりながら解説させていただくと言うのは如何なものかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアが指差す先には『Mary's』と言う屋号が掲げられた一軒のパブが在り、室内と室外の気温差によって結露したガラス窓の向こうから、温かなオレンジ色の光が暗く冷たい夜道の向こうへと投げ掛けられていた。ちなみに何故その店舗がパブである事が一瞥しただけで分かったのかと問われれば、屋号が掲げられた鋳鉄製の吊り看板の下に、やはり『Pub』と『fish-and-chips』と書かれた小さな吊り看板もまた掲げられていたからである。

「こんばんは、お席は空いてまして?」

 僕ら二人の返事を待つまでもなく、正面玄関の扉を潜ってパブの店内へと足を踏み入れたグエン・チ・ホアは、カウンターの向こうに立つ店主と思しき人物に向かってそう言って問い掛けた。

「お客さん、一人だけかい?」

 僕らに先んじて入店したグエン・チ・ホアにそう言って問い返したパブの店主は、がっちりした厳つい顔立ちと体型の中年の白人男性であり、顔の下半分がもじゃもじゃの髭でもって覆われた偉丈夫である。

「いいえ、あたしの他にももう二名ばかり連れがりますから、全部で三名でしてよ? それからあたし以外の連れの二名は未だ十七歳、この国の基準ですと未成年なのですけれども、よろしくて?」

「ああ、別に構わないさ。この国では大人が同伴していれば、たとえ十八歳未満の未成年であったとしても、十六歳以上ならうちみたいな飲食店でもって飲酒も出来る。だから未成年かどうかなんて些細な事は気にせずに、空いている席に適当に座ってくれ」

「あら、そうですの? でしたら遠慮無く、お酒とお食事を三人揃って楽しませていただきましてよ?」

 髭もじゃのパブの店主の返答に対してそう言ったグエン・チ・ホアが、多くの地元民や観光客達でもって賑わう店内の一角のテーブル席に腰を下ろしたので、後から入店した僕と淑華もまた彼女と同じテーブル席に腰を下ろした。

「さあ、でしたらまず手始めに、どのようなお飲み物を注文されまして? あたしはせっかくのイングランド旅行なので地元の醸造所のエールビールをいただきますけれども、どうやらこの国では父兄同伴の十六歳以上の飲酒は合法だそうなので、この機会に万丈くんと淑華ちゃんのお二人もまたお酒をいただいてみては如何かしら?」

「え? いいんですか?」

 グエン・チ・ホアの提案を耳にした僕がそう言って、待ってましたとばかりにテーブルの上に身を乗り出せば、そんな僕の脇腹を小突きながら淑華が警告する。

「ちょっと、万丈ったら、何調子に乗ってんの? いくらこの国では未成年の飲酒が合法だからと言ったって、あたし達はフォルモサの国民なんですからね! ちゃんとフォルモサの国内法を守りなさいよ!」

 意固地で天邪鬼な性分である淑華はそう言って法の遵守を声高に推奨するものの、今回の旅で僕らの保護者役を買って出た筈のグエン・チ・ホアは、その限りではないらしい。

「あらあら? 淑華ちゃんったら破廉恥博士であられるばかりか、どうやら未成年の飲酒もまた許さない、飲酒博士でもあられるように見受けられましてよ? でもね、淑華ちゃん? 飲酒が合法の国でもってお酒をお飲みになられるのは、アメリカ合衆国を訪ねられた方々が実弾射撃を体験されたり、オランダ王国を訪ねられた方々が大麻マリファナを吸われたりするのと同程度の、法的にギリギリ許容され得る範囲のグレーゾーンのお遊びなのではないかしら? それに淑華ちゃんだって、お酒に全く興味が無いと言う訳ではないのでしょう?」

「ふん、詭弁ね! ……まあ、そりゃあたしだって、少しくらいだったらお酒を飲んでみたいと思った事が無い訳じゃないけどさ……」

「でしたら、決まりね? 万丈くんも淑華ちゃんも、せっかくのこの機会に、お酒を飲んでご覧になられる事をお勧めさせていただきましてよ? そうね、初めてお飲みになられるお酒でしたら、あまりアルコール度数の高くない林檎のシードルなどを注文されてみては如何かしら?」

「はい、そうします!」

「……もう! そこまで言われたら、あたしもそうするしかないじゃないの!」

 飲酒を推奨するグエン・チ・ホアの提案に対してそう言って、僕は俄然乗り気で、淑華は表向きは渋々ながらと言った表情と口調でもって本音を誤魔化しつつも、これを了承した。

「でしたらあたしが全員分のお飲み物とお料理を注文して参りますので、少々席を外させていただきましてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアはテーブルに備え付けられていた献立表メニューを一瞥してから席を立ち、髭もじゃの店主が待つカウンターの方角へと足を向け、そこそこ混み合ったパブの雑踏の向こうへと一旦姿を消す。どうやらこのパブは客自らがカウンターへと赴いて酒や料理を注文し、料金と引き換えに受け取ったそれらを自分達の手でもって客席へと運ぶ、俗にキャッシュ・オン・デリバリーと呼ばれるシステムを採用しているらしい。

「あたし個人の好みと直感でもって適当に注文させていただきましたけれども、取り敢えず、これでよろしくて?」

 やがて注文と会計を終えたグエン・チ・ホアがそう言いながらテーブル席へと運んで来たのは、彼女が飲むためのエールビールと僕ら二人が飲むための林檎のシードル、それにラージサイズのフィッシュ&チップスが二皿と、山盛りのマッシュポテトとクレソンが添えられた大きなローストビーフであった。

「でしたらせっかくのお料理が冷めてしまわれない内に、さっそく召し上がる事になさいましょうね? 警察署での事情聴取がなかなか終わらなかったおかげでもって、万丈くんも淑華ちゃんも、すっかりお腹が空いてしまっていらっしゃるに違いない筈でしょう?」

「はい、いただきます!」

 そう言った僕はさっそくテーブルの上へと手を伸ばし、まず手始めに、大きな一パイントのグラスに注がれた林檎のシードルをごくりと一口だけ飲み下す。

「へえ、こんな味なんだ」

 林檎のシードル、つまり林檎をアルコール発酵させて造った発泡性の果実酒の口当たりは林檎ジュースと大差無いものの、飲み終えてからの後味にほんのちょっとだけアルコールの風味が感じ取れた。

「如何かしら? 異国で味わう初めてのお酒のお味を、楽しめていただけて?」

 すると琥珀色のエールビールをすいすいと軽快に飲み下してみせながらそう言ったグエン・チ・ホアの問い掛けに対して、僕の隣に座る淑華は返答する。

「何よ、シードルはお酒だって言うからちょっとだけ身構えてたって言うのに、こんなの只の林檎のジュースじゃない!」

 まるで勝ち誇ったかのような表情と口調でもってそう言った淑華はふんと鼻を鳴らしながら、一パイントのグラスに注がれた林檎のシードルを、ぐびぐびと豪快に飲み下してみせた。

「あらあら? 意外ですけれども、どうやら淑華ちゃんは未だお若いにも拘わらず、なかなか行ける口でらっしゃるようね? これは未来の栄えある酒豪候補のお一人として、今からご期待させていただいてもよろしくて? さあ、でしたらお二人とも、こちらのお料理の方にも手を付けてみられては如何かしら?」

 くすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアの勧めに従うかのような格好でもって、僕と淑華の二人は、テーブルの上に並べられたフィッシュ&チップスとローストビーフの皿にも手を伸ばす。

「うん、美味い」

 一口食べてみたフィッシュ&チップスもローストビーフも、腰を抜かして驚くほど美味しいと言う訳ではなかったが、付け合わせのマッシュポテトやグレイビーソースも含めてどれもそれなりに美味しかった。

「ええ、そうね? 幸運にもこちらのお店のお料理は、どれもイングランドの一般的なパブのそれとしましては、比較的レベルの高い完成度と言っても差し支えが無いのではないかしら? 何しろかつての産業革命の頃の世に出回り始めたばかりのフィッシュ&チップスと言ったら、碌に血抜きもされておられない白身魚が生臭かったばかりか、すっかり酸化してしまったぎとぎとの揚げ油を何度も何度も使い回しておられたので、それはそれは酷いお味だったものですからね?」

 ナイフとフォークを使って、優雅で上品な仕草でもって切り分けた白身魚のフライを口に運びながらそう言ったグエン・チ・ホアに、僕は素朴な疑問を投げ掛ける。

「へえ、そうなんですか。それにしてもホアさんってば、まるで産業革命当時のイングランドに行って、当時のフィッシュ&チップスを実際に食べた事があるみたいな口振りですね?」

 僕がそう言って問い質せば、グエン・チ・ホアは「さあ、どうかしらね?」と言いながら、くすくすと殊更愉快そうにほくそ笑むばかりであった。

「ところでさ、このフィッシュ&チップスの白身魚って、何のお魚なのかしら? あんまり食べた事が無いような味だけど」

 そして僕の疑問に対する返答はそれとなくはぐらかしたにも拘らず、グエン・チ・ホアは琥珀色のエールビールをすいすいと飲み下す手を止めぬまま、そう言った淑華の素朴な疑問に対しては蘊蓄を傾けながら返答してくれる。

「そうね、このお魚は、たぶんハリバットなのではないかしら? やはり本場イングランドのフィッシュ&チップスと言いましたら、北大西洋沖や北海沖で捕れたたらかハリバットでもってこしらえると言うのが、定番のレシピですものね?」

「ハリバット? それって確か、ネットやテレビのびっくり画像特集なんかでたまに見掛ける、あの馬鹿みたいに大きなヒラメの事だっけ? へえ、あのヒラメって、こんな味なんだ」

「ええ、そうね? でもね、淑華ちゃん? 正確に言うならばハリバットはヒラメではなく、カレイ目カレイ科に属するカレイの仲間でしてよ? とは言え、より正確に言うならばヒラメもまたカレイ目のお魚なのですから、この際ハリバットがカレイなのかヒラメなのかなどと言うのはほんの些細な問題なのではないかしら?」

 そう言って蘊蓄を傾け終えるのとほぼ同時に、グエン・チ・ホアは大きな一パイントのグラスに注がれていた最初の一杯目のエールビールを、顔色一つ変えぬままあっと言う間に飲み干してしまった。そして「ほんのちょっとだけ、ご免あそばせ?」と言ってから一旦席を立った彼女は、髭もじゃの店主が待つカウンターでもって都合二杯目のエールビールのグラスを受け取ると、僕らが待つテーブル席へと戻って来て腰を下ろす。

「ところでホアさん、そろそろ本題に入らせてもらってもいいですか?」

 やがてグエン・チ・ホアの手元の二杯目のエールビールのグラスが半分方空になり、僕と淑華の手元の林檎のシードルのグラスもまた半分方空になったところで、僕はそう言って話題を切り替えた。

「ええ、そうね? それで万丈くんは、何をお聞きになりたいのでしたっけ?」

「あのホアさんの鞄を引っ手繰ろうとして失敗したハンチング帽の男が、昨夜から僕らをずっと監視していたあの赤毛の男が、果たしてどこの何者なのかって事ですよ」

 僕がそう言って改めて問い掛ければ、問い掛けられたグエン・チ・ホアは暫し沈黙した後に、グラスに注がれたエールビールをもう一口だけ飲み下してから口を開く。

「残念ながらこのあたしの知見を以てしても、あの赤毛の方が果たしてどこの何者なのかについては、はっきりとは断言出来かねましてよ? けれどもね、万丈くん? あの方の胸に彫られていたブリトン語のタトゥーが、何かしらの手掛かりになると考えてもよろしいのではないかしら?」

「タトゥー? それって、あのアーサー王がどうとかこうとかって言うタトゥーの事ですか?」

「ええ、そうね? 正確にはブリトン語でもって『アーサー王に栄光あれ! 我らブリトン騎士団は、偉大なるアーサー王と共にあり!』との文言が彫られていたタトゥーの事なのですけれども、これらの文面から察するに、あの赤毛の方はブリトン騎士団とやらに所属されている人物のお一人と考えるのが妥当なのではないかしら?」

「ふんだ、何が騎士団よ、カッコつけちゃってさ! 戦場で馬にまたがった騎士達が活躍するような、中世のヨーロッパみたいな時代じゃあるまいし!」

 すると『騎士団』と言う日常生活では使い慣れない単語を耳にした淑華はふんと鼻を鳴らしながらそう言うが、そんな彼女の言葉に対して、グエン・チ・ホアは異を唱えざるを得ない。

「あらあら? 淑華ちゃんはご存知ないのかもしれませんけれども、現代社会に於かれましても騎士団と呼ばれる組織や団体は、なかなか侮れないものでしてよ? 現に有名なところですとマルタ騎士団やガーター騎士団などと言った伝統と格式ある騎士団が、二十一世紀を迎えた今も尚、世界各地でもって活動を続けておりますものね?」

 賑わうパブの喧噪の真っ只中で、グラスに注がれた都合二杯目のエールビールを更にもう一口だけ飲み下しながら、純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアはそう言ってほくそ笑んだ。

「だとしたらホアさん、その騎士団って言うのは、一体どんな組織なんですか?」

 そしてそう言った僕の問い掛けに対しても、無学無教養で無知蒙昧な僕と違って聡明で博識なグエン・チ・ホアは、蘊蓄を傾けながら返答してくれる。

「ええ、そうね? 元々人類の歴史上に騎士団と呼ばれる存在が姿を現したのは、十一世紀から十二世紀へと世紀が移り変わったばかりの、十字軍の第一次遠征がキリスト教徒側の勝利でもって幕を閉じた直後の頃の事でしてよ? そして十字軍が占領した聖地エルサレムを目指す巡礼者達を盗賊などから守護すべく、腕に覚えのある騎士達がこの護衛の役を買って出たのが、騎士団の始まりなのではないかしら?」

「つまり、騎士団って言うのは、ある種の用心棒やボディガードみたいな立場の人達の集まりだったって事ですか?」

「ええ、そうね? まさに万丈くんの仰る通り、神とその信徒達への奉仕と献身のために集まった、聖地や巡礼者達を守らんとする半ばボランティア的な用心棒の集団こそが騎士団の出発点でしてよ? けれども時代が下る内に彼らは修道会に所属する正式な騎士兼修道士として取り立てられ、やがて聖地エルサレムや巡礼者達を守護するだけでなく、主にヨーロッパ各国の様々な紛争や経済や政治にも影響を与えかねない巨大な組織へと成長してしまうのよね?」

「様々な紛争や経済や政治にも影響を与えかねないって言うと、つまり、具体的にはどんな影響を?」

「あらあら? 具体的な影響ですって? そうねえ、例えば世界最大の騎士団であったテンプル騎士団は騎士達がお守りしてくださると言う名目でもって諸国の王侯貴族の方々の財産をお預かりし、資産管理だけでなくこれらを中長期的に運用される事によって、中世ヨーロッパ有数の規模の国際金融機関として巨万の富を築き上げてしまわれたのではないかしら? それに、かつて聖ヨハネ騎士団と呼ばれていたマルタ騎士団などはその名の通り地中海のマルタ島を領有された上でもって、ヨーロッパの主権国家の一つとして宮殿や教会や病院を建造し、キリスト教圏の仇敵であったオスマン帝国と死闘を繰り広げられた事実が在りましてよ?」

 グエン・チ・ホアはそう言って、ヨーロッパ大陸に於ける騎士団とやらの影響力が如何程のものであったのかをざっくりと解説してくれはしたものの、ここで僕は疑いの言葉を差し挟まざるを得ない。

「だとしたら、そんな巨大な組織だった筈の騎士団が、どうして今はその影響力を失ってしまったんですか? 事実、僕も淑華も、今の今までその存在を知らなかったくらいなんですから」

 手にしたグラスの中身をゆっくりちびちびと飲み下しながら、僕はそう言って問い掛けた。

「ええ、そうね? かつての騎士団がその影響力をすっかり失ってしまわれたまず第一の原因は、やはり中世の時代の終焉とほぼ同時に、ローマ教皇を中心としたキリスト教圏のヨーロッパ諸国が十字軍遠征を取り止めてしまわれた事に在るのではないかしら? しかも聖地エルサレムがイスラム教徒の手に渡ったまま遠征を取り止めてしまわれたものですから、その聖地と巡礼者達を守護する事を建前としていた騎士団の面目は、まさに丸潰れ以外の何物でもなくってよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは、相変わらずすいすいとエールビールを飲み下しながら蘊蓄を傾け続ける。

「そして第二の原因は、まさにその影響力が肥大化し続けた事そのものに在るのではないかしら? つまり『出る杭は打たれる』と言う日本のことわざではありませんけれども、あまりにも肥大化し過ぎた騎士団の影響力が、時の市民や権力者達からの不興を買い過ぎてしまいましてね? そのおかげで先に紹介したテンプル騎士団などは、その莫大な財産をフランス王国の国王であったフィリップ四世の手によって没収されてしまったばかりか、多くの騎士達が異端の濡れ衣を着せられたまま強制的に騎士団を解散させられてしまいましてよ?」

 グエン・チ・ホアはそう言うと、グラスの底に残っていたエールビールをぐっと一息でもって飲み干した。そして「ちょっと、お待ちになっていていただけるかしら?」と言って席を立ち、やはりカウンターでもって受け取った都合三杯目のエールビールのグラスを手にしながら戻って来る。

「こうして聖地エルサレムを守護する者と言う建前を失った騎士団は軍事力を誇示すべき根拠をも失い、戦う者としての騎士の看板を下ろして解散するか、もしくは活動の規模や内容を大幅に矮小化する事を余儀無くされましてよ? ところが皮肉にも、自然科学や技術の発達によって戦場に於ける騎士の優位性が失われるに従って、今度は逆に騎士の高潔な精神性が持て囃される『騎士道ブーム』とも呼ぶべき現象が巻き起こりましてね? その結果、軍事力としてのそれではなく騎士の地位や名誉、それに勲章や称号などを授与するための、戦場で戦う騎士としての実体の無い名ばかりの騎士団が数多く創設されたのではないかしら? そして今しがた言及しました中世ヨーロッパの『騎士道ブーム』の火付け役の一つであり、また同時にこのブームを数世紀に渡って持続させた立役者の一つこそが、件のアーサー王と円卓の騎士達の物語でしてよ?」

 そう言って蘊蓄を傾け終えたグエン・チ・ホアはフィッシュ&チップスの皿へと手を伸ばし、摘まみ上げたフライドポテトを口の中へと放り込むと、冷やし過ぎない程度に冷やしたエールビールでもってそれを胃の中へと流し込んだ。

「だとすると、あの赤毛の男が所属しているらしいブリトン騎士団とやらも、そう言った騎士団の内の一つかもしれないって事ですか?」

 そして僕がそう言って問い掛ければ、グエン・チ・ホアはその整った顔立ちにちょっとだけ困ってしまったかのような表情を浮かべながら、肩を竦める。

「さあ、それはどうかしら? と言いますのも、今の時代の騎士団は主権国家の君主やバチカンのローマ法王、それに王侯貴族などの主体から騎士の称号を授からねばならないと国際法によって規定されておりましてね? そしてあたしの記憶が確かならば、そう言った国際法でもって公式に認められた騎士団のリストの中に、ブリトン騎士団なる組織や団体の名前は無かった筈でしてよ? ですからもし仮にブリトン騎士団とやらが実在するとしたならば、それは公認の騎士団ではなく、騎士団を自称する非公認の民間団体なのではないかしら?」

 肩を竦めながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉に依るならば、どうやら赤毛の男が所属するものと思われるブリトン騎士団とやらは、伝統や格式ある公認の騎士団などではないらしい。

「だとしたら、そのブリトン騎士団とか言う名の自称騎士団は、一体何の目的でもって僕らを監視したりホアさんの鞄を引っ手繰ろうとしたりしたんですか? それに、その自称騎士団とアーサー王に、一体何の関係が? さっきホアさんが言っていた、中世ヨーロッパの『騎士道ブーム』の立役者がアーサー王と円卓の騎士達の物語だったって事と、何か関係が?」

 若干早口になった僕は矢継ぎ早にそう言って、咄嗟に頭の中に思い浮かんだ疑問の数々を、グエン・チ・ホアに向かって手当たり次第に投げ掛けた。すると彼女は都合三杯目のエールビールをすいすいと飲み下しながら、そんな僕に逆に問い返す。

「でしたら万丈くん、あなたはアーサー王と円卓の騎士達の物語と、歴史上のアーサー王に関しまして、どの程度の知識を有しておられまして?」

「え? アーサー王と円卓の騎士達に関する知識ですか? えーっと……その……聖剣エクスカリバーがどうだとか……ランスロット卿がどうだとか……」

 アーサー王と円卓の騎士達の物語、更には歴史上のアーサー王に関する知識をどの程度有しているのかと問われた僕はそう言ってもごもごと口篭もり、思わず言葉に詰まってしまった。何故なら僕が有している知識は主にゲームや漫画やラノベなどから仕入れたものばかりであって、イングランドの伝承である本家本元のアーサー王伝説については、殆ど何も知り得ていなかったからである。

「あらあら? どうやら万丈くんったら、肝心要のアーサー王に関しましては、あまり造詣が深くはあられないようにお見受けいたしましてよ? でしたらこの機会にあたしが解説させていただきますけれども、その前に、もう一杯だけエールビールをお代わりさせていただいてもよろしいかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは僕の返事を待たぬまま席を立ち、その場でくるりと踵を返すと、やはり髭もじゃの店主が待つカウンターの方角へと一旦姿を消した。そしてパブの喧騒の向こうへと姿を消した彼女が戻って来るのを待ちながら、僕は手元のグラスに注がれた林檎のシードルを、舐めるかのようにちびちびと飲み下す。

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