第十二幕


 第十二幕



 朝食を食べ終えた僕と淑華とグエン・チ・ホアは外出の準備を整え、やがてチェックアウトの手続きを済ませてから民宿を後にすると、昨夜移動した経路を逆に辿るかのような格好でもって一旦ロンドン・ヒースロー国際空港の敷地内へと取って返した。そして空港の敷地内に在るロンドン地下鉄ピカデリー線の駅舎内へと移動し、数多の観光客や地元民達と共に地下鉄の車輛に乗り込めば、僕ら三人もまた霧の都とも呼ばれるロンドンの街の中心部を目指す事となる。

「ねえ、ホアさん? 確かロンドンも、と言うかイングランドも、日本なんかと同じく鉄道マニアの活動が活発な事で有名な国だった筈ですよね?」

 地面の下を走る地下鉄の車輛に揺られながら、肘掛け付きの座席に腰を下ろした僕は何の気無しに、そう言ってグエン・チ・ホアに問い掛けた。

「ええ、そうね? 何と言いましてもイングランドは世界で初めて蒸気機関車が発明された鉄道発祥の地でもありますし、やはり現代のイングランドの鉄道マニアと言ったら、トレインスポッターの方々が有名なのではないかしら?」

「トレインスポッター?」

 僕がそう言って半ば鸚鵡返しになりながら問い返したならば、やはり聡明で博識なグエン・チ・ホアは蘊蓄を傾けながら、丁寧に解説してくれる。

「有名なサブカル映画のタイトルとしても知られております通り、イングランドやその周辺国では俗にトレインスポッティングと呼ばれる、走行する電車や列車の姿を観賞する行為が趣味の一つとして市民権を得ておりましてね? それに単に観賞する以外にも、自分自身がお乗りになられた車輛の車体番号を記録する行為もまた鉄道マニアの方々の間では一般的でして、国内に出回っている全ての鉄道車輛の車体番号が列挙されたそれ専用の手帳なども販売されておりましてよ?」

「ああ、成程。それでそう言った趣味の鉄道マニアの人達を、この国ではトレインスポッターと呼ぶ訳ですね?」

「ええ、そうね? まさにその通りなのではないかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの丁寧な解説に、僕はうんうんと首を縦に振りながら得心するばかりであった。

「ところで万丈くんは、鉄道はお好きでして?」

「え? 僕ですか? いや、僕は別に、これと言って、特別電車が好きとか嫌いとかそう言った感情は持ち合わせていませんよ? 所謂いわゆる乗り鉄とか撮り鉄とか、ああ言った鉄道マニアの人達に知り合いも居ませんし。だから電車は普通に、まあ、乗り物として普段から利用しているだけです」

 グエン・チ・ホアの問い掛けに対して僕がそう言って返答すれば、彼女はちょっとだけ残念そうな顔をする。

「あら、そうですの? それは残念ね? イングランドの鉄道マニアの方々についてお聞きになられるものですから、てっきり万丈くんも、鉄道がお好きなのかと邪推してしまいましてよ? それにもし仮にあなたが鉄道がお好きなのでしたら、フォルモサのあたしのお店で取り扱っている商品の中にも、鉄道マニアとしての万丈くんにお薦め出来る商品が幾つか在るものですからね?」

「はあ……」

 鉄道マニアにお薦めの商品が在ると言うグエン・チ・ホアの言葉に、僕はそう言いながら、それは一体どんな商品なのだろうかとあれこれ想像する事しか出来なかった。そしてそうこうしている内に、僕ら三人を乗せた地下鉄の車輛は、ロンドン地下鉄ピカデリー線のホルボーン駅へと辿り着く。

「でしたらこちらの駅でもって、同じロンドン地下鉄のセントラル線へと乗り換えましてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉に従って、ラタンの旅行鞄を手にした彼女と僕と淑華の三人は一旦ホルボーン駅のプラットフォームへと降り立つと、やがてロンドン地下鉄ピカデリー線の車輛からセントラル線の車輛へと乗り換えた。ちなみにロンドン地下鉄が運営するほぼ全ての路線の車輛は、どうやら会社のトレードマークと同じ赤白青の三色の塗料でもって塗り分けられているらしく、ピカデリー線もセントラル線も車輛の見た目は変わらない。

「ここまで来れば、後はもう、終点の少し手前のロートン駅まで乗り換える必要は無くってよ?」

 やはりラタンの旅行鞄を手にしたままそう言ったグエン・チ・ホアの言葉に従いながら、僕ら三人は暫しの間、赤白青のトリコロールカラーで塗り分けられたロンドン地下鉄セントラル線の車輛に揺られ続ける事と相成った。これがもし仮に地上を走る路線であったとしたならば、歴史あるロンドンの街並みが車窓から垣間見えたであろう事は想像に難くないものの、残念ながら地下鉄の車窓からは暗く冷たいコンクリート製のトンネルの内壁が観賞出来るばかりである。

「そろそろ、ロンドンの市内から市外へと抜け出た頃かしら?」

 やがてウッドフォード駅を通過した辺りでそう言ったグエン・チ・ホアの言葉を証明するかのような格好でもって、ロンドン市内を走っている間はそれなりに混雑していた地下鉄も、次第次第に乗客の数が減少して混雑が解消されつつあった。そして永い旅路の末にバックハースト・ヒル駅をも通過すると、遂に僕ら三人を乗せたロンドン地下鉄のセントラル線の車輛は、当面の目的地であるロートン駅で停車する。

「さあ、到着しましてよ?」

 僕ら三人をここまで運んで来てくれた地下鉄の車輛からロートン駅のプラットフォームへと降り立ち、そう言ったグエン・チ・ホアに先導されながら改札を通過して階段を駆け上がれば、そこはもうロートンの町であった。

「へえ、これがロートンか」

 ロートンの町はエッピング・フォレストと呼ばれる森の中に在る町だと聞かされていたので、ぐるりと周囲を見渡しながらそう言った僕は『指輪物語ロード・オブ・ザ・リング』の小説や映画に登場するホビット族が住むホビット庄や、エルフ族が住むロスローリエンの都の様な自然と一体となった町を想像していた事を、ここに白状する。しかしながら実際に足を踏み入れたロートンの町は至って普通の、どこにでも在るようなイングランドの小さな田舎町であって、その事実に気付いてしまった僕はちょっとだけ拍子抜けせざるを得ない。

「あら、どうされたのかしら? 万丈くんったら可愛らしいお顔に、何だかちょっとばかり不満げな表情を浮かべてらしてよ?」

「え? ああ、はい。だってロートンは広大な森林地帯の中に在る小さな田舎町だってホアさんが言ってたもんですから、てっきりログハウスやツリーハウスみたいな丸太で組んだ原始的な家屋が森の木々と一体化しているような、そんな大自然の中の小さな集落を想像してたんですが……何か、思ってたのと違いました」

 グエン・チ・ホアの問い掛けに対して僕がほんのちょっとだけ肩を落としながらそう言えば、そんな僕の姿を面白がってか、彼女はくすくすと殊更愉快そうにほくそ笑むばかりであった。

「あらあら、万丈くんったら、随分と想像力が逞しくていらっしゃるのね? けれども残念ながら、ロートンはそんなお伽噺の中に登場するような幻想的でメルヘンチックな町ではなく、エッピング・フォレストの森の中に位置していると言う事以外は至って普通の郊外の田舎町でしてよ?」

 くすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアは大通りの方角へと足を向け、淑華もまた「万丈ったら、馬っ鹿じゃないの!」と言う捨て台詞を残したままその場から立ち去ったので、ロートン駅の駅前広場に置き去りにされ掛けた僕はそんな二人の後を追う。

「ここから先の移動にはタクシーを利用してもよろしいのですけれども、次の目的地であるW・W・ジェイコブズの生前のお住まいまではさほど距離も在りません事ですし、それに天気もよろしくて空気も美味しい事ですから、せっかくなので徒歩でもって移動する事になさいましょうね?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの提案に従うかのような格好でもって、彼女と僕と淑華の三人は、駅前のロータリーから続くオールド・ステーション・ロードを北上し始めた。大都市ロンドンから離れたこの辺りは観光客の姿も疎らで、吐く息が真っ白に凍り付いてしまう程気温が低いにも拘らず、先程のグエン・チ・ホアの言葉通り冬晴れの澄み切った青空から降り注ぐ陽射しは柔らかくも暖かい。そしてオールド・ステーション・ロードを北上し続けること数分後、次のロータリーで直角に左折した僕らは進行方向を改め、今度はハイ・ロードとも呼ばれる国道A121号線を南下し始める。

「ところでホアさん、確かこのロートンの町は、エッピング・フォレストって名前の森の中に在るんですよね?」

「ええ、そうね? けれども森の中心部はこの町の西の方角に広がっておりますから、森の中に在ると言うよりも、むしろ森と隣接していると言った方が正確な表現なのかもしれなくてよ? とは言え森とそれ以外の土地との境界線が曖昧なものですし、町の広さもまた時代によって変化すると言う事を考慮いたしますと、果たしてロートンの町が森の中に在るのか森と隣接しているのかは個々人の受け止め方次第なのではないかしら?」

 この期に及んでも未だへそを曲げたままの淑華は別として、僕とグエン・チ・ホアの二人はそんな他愛も無い由無よしなし事を取り留めも無く語り合いながら、真冬のロートンの町を南北に縦断するハイ・ロードを南下し続けた。そしてハイ・ロードが町の南部へと差し掛かった辺りで右折し、今度はアッパー・パークと呼ばれる片側一車線の通りをほんの150mばかりも西進し続けると、やがて僕ら三人はパーク・ヒルと名付けられた小道に足を踏み入れる。

「さあ、お二人とも、準備はよろしくて? こちらが生前のW・W・ジェイコブズの、一軒目のお住まいでしてよ?」

 うっかり余所見をしていたら見落としてしまいかねない程の小道であるパーク・ヒルに足を踏み入れ、そのパーク・ヒルを北上した先に在る閑静な住宅街の一角でもって足を止めると、純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアはそう言いながら一軒の家屋を指差した。

「……」

 その家屋を見上げた僕がそう言って言葉を失い、特にこれと言って気の利いたコメントを口にしなかったのも、無理は無い。何故ならグエン・チ・ホアが指差した地上二階建てで車庫カーポートが完備されたその近代的な住宅は、本当に何の変哲も無い、只の一軒家だったからである。

「何よ、こんなのどこにでも在るような、普通の家じゃない!」

 そして僕の斜め後ろに立つ淑華もまたそう言って、その家屋が至って普通のイングランドの田舎町の一軒家である事を、ほんのちょっとだけがっかりしながら肯定するばかりであった。

「ええ、そうね? こちらのお住まいはW・W・ジェイコブズがご存命だった頃のままの姿ではなく、第二次世界大戦終結後に一度建て替えられておりますし、それに今は前の持ち主の方とは関係の無い別の方に所有権が移譲されておりますから、特に内部の見学などのご要望は承ってはおられないとの事でしてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉に依るならば、どうやらこの家屋は外から外観を眺めるだけで、中に入る事などは出来ないらしい。

「つまりホアさん、こうやって外から眺める以外に、今の僕らに出来る事は無いって事ですか?」

「ええ、そうね? 残念ながら、そう言う事になってしまうのではないかしら?」

 僕の問い掛けに対してグエン・チ・ホアはそう言うが、何ともはや、ロートンの町が只の田舎町である事に気付いた時に引き続き、拍子抜けするばかりである。

「でしたら今しがた万丈くんが仰られた通り、これ以上今のあたし達に出来る事は無さそうですので、そろそろ次の目的地へと移動する事になさいましょうね?」

 するとラタンの旅行鞄を手にしたままそう言ったグエン・チ・ホアはくるりとその場で踵を返すと、小道を南下した先のパーク・ヒルの入り口の方角へと足を向け直したので、僕と淑華の二人もまたそんな彼女の背中を追って踵を返した。そしてパーク・ヒルの閑静な住宅街を後にした僕ら三人は、まさに来た道を引き返すかのような格好でもってアッパー・パークを東進し、そのままハイ・ロードに再び足を踏み入れる。

「次の目的地は町の反対側でしてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアに先導されながら、僕ら三人は今度はハイ・ロード、つまりロートンの町を南北に縦断する国道A121号線を北上し始めた。するとちょうど昼時に差し掛かった田舎町の街道沿いはのどかで麗らかで、ベビーカーを押した家族連れや散歩を楽しむ老夫婦などの幸せそうな姿がそこかしこに見て取れるばかりか、爽やかな冬晴れの空を吹き渡る寒風すらもまた心地良くて仕方が無い。そして広大なクリケット場の芝生を右手に臨みながら尚もハイ・ロードを北上し、やがてゴールディングス・ヒルと呼ばれる地域へと足を踏み入れれば、もう次の目的地は眼と鼻の先である。

「さあ、こちらが生前のW・W・ジェイコブズの、二軒目のお住まいでしてよ?」

 ゴールディングス・ヒルの一角で足を止めたグエン・チ・ホアがそう言いながら、一軒目のパーク・ヒルの家屋の時と同様の仕草でもって、一軒の家屋を指差した。

「……」

 やはり一軒目のパーク・ヒルの家屋の時同様、そのゴールディングス・ヒルの家屋もまた何の変哲も無い只のイングランドの田舎町の一軒家だったので、そう言った僕は特にコメントする言葉が見つからない。

「何よ、これもどこにでも在るような、普通の家じゃないの! だけど最初の家に比べたら、ほんのちょっとだけ立派な家なんじゃない?」

 すると淑華がそう言って小首を傾げながら疑義を呈し、一軒目の家屋と二軒目の家屋とのほんの僅かな差異について言及したものだから、彼女のご機嫌を取りたい僕もまたそれに全力でもって乗っからせてもらう事にする。

「うん、そうだね。確かに淑華の言う通り、最初の一軒目のW・W・ジェイコブズの住まいに比べたら、庭も広いし門構えなんかも立派なんじゃないのかな? それに肝心の住居自体も、ちょっとだけ大きくて、立派そうに見えなくもないし」

 若干無理が在るような表情と口調でもって僕がそう言えば、グエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、そんな僕に助け舟を出すにやぶさかではない。

「ええ、そうね? 確かに淑華ちゃんと万丈くんの仰る通り、パーク・ヒルのそれに比べましたら、こちらのお住まいの方が若干立派に見えなくもないのではないかしら? それに生前のW・W・ジェイコブズはこちらのお住まいを本拠とされていたらしいものですから、ここにこのように、彼のブルー・プラークも設置されておりましてよ?」

「ブルー・プラーク?」

「ええ、そうね? ブルー・プラークとはこちらに見て取れますように、イングランド国内の著名人による歴史的な偉業の記録や保護を目的として設置された、史跡案内板の事なのではないかしら?」

 そう言って解説してくれたグエン・チ・ホアの言葉通り、彼女が指差した二軒目の家屋の外壁には一枚の青い円形の案内板が、まるで煉瓦造りの壁面に半分埋め込まれるかのような格好でもって設置されていた。そしてそのブルー・プラークと呼ばれているらしい円い青地の案内板には、かつてこの家屋に住んでいたとされるW・W・ジェイコブズの生没年と、彼の略歴とがざっくりと書き記されている。

「またこちらのお住まいは、どうやら最初のお住まいとは違いまして、内部を見学する事も可能だと伺っておりましてよ?」

 グエン・チ・ホアは青い円形のブルー・プラークを横眼にそう言うと、鋳鉄製の門扉を軽快な足取りでもって潜り抜け、二軒目の家屋の敷地内へと足を踏み入れた。

「さあ、でしたら万丈くんも淑華ちゃんも、さっそくこちらのお住まいの内部を見学させていただく事になさいましょうね?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは正面玄関の扉を躊躇無く開け放ち、僕と淑華の二人と共に「ご機嫌よう、どなたかこちらの関係者の方は、いらっしゃって?」と言いながら二軒目の家屋の建屋内へと呼び掛ければ、そんな僕ら三人を一人の老婆が出迎える。

「いらっしゃいませ、あなたが事前にご連絡くださった、グエンさんですね? お待ちしておりました」

 そう言って僕ら三人を出迎えてくれたのは一人の白髪の老婆で、背は低く腰が曲がってはいるものの、その物腰や喋り方は如何にも大英帝国の淑女然とした高貴そうな印象を与えて止まない。

「初めまして、あなたが昨夜お電話に出てくださった、こちらの管理人のエヴァンズさんでよろしいのかしら? 如何にもお察しの通り、あたしが見学をご予約させていただきました、グエン・チ・ホアでしてよ? 上がってもよろしくて?」

「ええ、どうぞ。お上がりください」

 老エヴァンズ夫人からそう言って許可を取り付けたグエン・チ・ホアは、さっそく敷居を跨ぎ、W・W・ジェイコブズが生前住んでいたと言う二軒目の家屋の内部へと足を踏み入れた。

「それにしても、こうして事前に見学のご予約をされるとは、フォルモサの方は礼儀正しくていらっしゃる。主にヨーロッパ各国や北アメリカ大陸などからいらっしゃる大抵の見学者の方々は、事前に予約などせずに、当日になってからいきなり訪ねて来られる方ばかりなものですからね」

「あら、そうですの? そう言っていただけると、善良なフォルモサ市民の一人としましては、ほんのちょっとだけ鼻が高くてよ?」

 只の見え透いたお世辞、もしくは定型文による社交辞令なのかもしれないが、それでも老エヴァンズ夫人から褒められたグエン・チ・ホアはそう言ってくすくすと愉快そうにほくそ笑み、満更でもない様子である。

「それでは屋敷の一階のお部屋から、順を追ってご案内させていただきます。まずはこちら、この屋敷全体の中心的な存在であるところの、リビングでございます。ジェイコブズ氏は生前、このリビングでもって、家族との団欒を楽しんだと聞き及んでおります」

 そう言った老エヴァンズ夫人が僕ら三人を最初に案内してくれたのが、この家屋の正面玄関から続く短い廊下を渡った先の、リビングであった。

「あらあら? 世界的に著名な作家様のお住まいのリビングにしましては、意外と小ぢんまりとしてらっしゃるのではないかしら?」

 室内をぐるりと一望してからそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、さほど広くもないリビングは確かに小ぢんまりとしていて、名の知れた大作家様の屋敷の中心部にしては若干みすぼらしいと言えなくもない。

「ええ、ええ、そうでしょうとも、そうでしょうとも。何と言いましても生前のジェイコブズ氏は決して贅沢を好まれるような方ではなく、その名が世間に知られるようになりましたのも氏が三十路を迎えてからの事ですし、大都会であるロンドンよりもロートンの様なのどかな田舎町を好まれるような質素な方だったのです」

「成程、そう言った事情ですのね?」

 グエン・チ・ホアはそう言って得心すると、リビングの壁際に設置された暖炉のマントルピースに、そっと右手の指先でもって触れてみた。しかしながらマントルピースに触れた彼女の指先には埃一つ、煤一粒すらも付着せず、その事実は老エヴァンズ夫人によるこの家屋の維持と管理が行き届いている事を如実に物語る。

「それでは皆様、次は、書斎をご案内させていただきます。どうぞ、こちらへ」

 改めてそう言った老エヴァンズ夫人に案内されながら、僕ら三人は再び短い廊下を渡ると、今度はW・W・ジェイコブズの書斎だったと言う部屋へと移動した。

「こちらは生前のジェイコブズ氏の書斎であり、また同時に、作家としての氏の仕事部屋でもありました。ですからジェイコブズ氏の代表作の内の多くを占める作品の数々が、この部屋から誕生したと言っても過言ではありません」

 そう言った老エヴァンズ夫人が案内する書斎もまた、先程のリビング同様実に小ぢんまりとした質素な部屋であり、W・W・ジェイコブズと言う名の一人の作家の為人ひととなりを窺わせる。

「と言う事は、この部屋で、あの『猿の手』も書かれたって事ですか?」

 足を踏み入れた書斎の内部を見学しながら、僕はぼそりと呟くかのような格好でもって虚空に向かってそう言って問い掛け、誰からの返答も期待せぬまま独り言ちた。

「ええ、ええ、その通りでございます。1902年に発表された、ジェイコブズ氏の代表作の一つであるとされる『猿の手』も、こちらの書斎でもって書かれたのではないかと推測されております」

 しかしながら老エヴァンズ夫人がそう言って僕の独り言に応えてくれたので、僕は「ああ、成程、やっぱりそうなんですね」と言いながら、うんうんと何度も首を縦に振って得心する。

「それにしたって、この部屋、あんまりホラー作家の仕事部屋って感じがしないんじゃない?」

 すると僕と一緒に書斎を見学していた淑華がそう言って、僕の独り言に引き続き、書斎の雰囲気がその部屋の主のイメージ通りではない事に対して疑義を呈した。確かに彼女の言う通り、開け放たれた大きな窓から差し込んで来る温かな木漏れ陽と小鳥の鳴き声、それに爽やかなそよ風が吹き抜ける穏やかな書斎の雰囲気は、稀代のホラー作家の仕事部屋のそれには相応ふさわしくないのかもしれない。そしてこの淑華の疑問に返答するかのような格好でもって、今度はグエン・チ・ホアが、老エヴァンズ夫人に代わって解説してくれる。

「あら、淑華ちゃん? 確かにあなたの仰る通り、作家としてのW・W・ジェイコブズは『猿の手』や『徴税所』などと言った短編ホラー小説の著者として有名ですけれども、彼が遺した作品の多くはコメディタッチの大衆娯楽小説でしてよ? それに海から遠く離れたロートンにお住まいになっていた割には、海そのものや海辺でもって暮らす人々を題材にした作品が多いのですけれども、これはきっと、テムズ川の埠頭で監督官を務めてらした彼のお父上の影響ね? ですからそんなW・W・ジェイコブズの書斎がホラー作家らしからぬ雰囲気であったとしましても、それは何の不思議も無い事と言いますか、むしろ当然の帰結なのではないかしら?」

 そう言って蘊蓄を傾け終えたグエン・チ・ホアによる解説は、この家屋の管理人を務める老エヴァンズ夫人をも頷かせ、納得させるに足るだけの内容であったらしい。

「さあ、でしたら皆様、次はキッチンをご案内いたしましょう。生前のジェイコブズ氏はこちらで調理された奥様の料理を楽しみ、毎夜、舌鼓を打ったと聞き及んでおります。ちなみに氏の細君であられたアグネス・エレノア・ウィリアムズ女史は聡明な女性で、当時としては先進的な価値観をお持ちの方であり、大変熱心な婦人参政権論者であったとも聞き及んでおります」

 やがてそう言った老エヴァンズ夫人の案内でもって、僕ら三人はかつてジェイコブズ夫妻が夕食を楽しんだと言うキッチンだけでなく、寝室や客間や子供部屋などと言ったその他の部屋部屋へやべやもまた見学させてもらった。そして一通り全ての部屋を見学し終えると、僕とグエン・チ・ホアと淑華の三人に老エヴァンズ夫人を加えた計四名は、再び家屋の正面玄関前へと戻って来てから足を止める。

「以上をもちまして、こちらのお屋敷のご案内を終了させていただきます。皆様がご満足いただけたのであれば、幸いでございます」

 案内を終えた老エヴァンズ夫人はそう言うと、小さくぺこりと頭を下げながら、やはり大英帝国の淑女然とした高貴そうな仕草でもって朗らかに微笑んだ。そして僕ら三人はそんな彼女の上品で懇切丁寧、かつ親切な振る舞いにいたく感動し、また同時に感謝しきりである。

「ええ、そうね? どうもありがとうございまして、エヴァンズさん? あなたがご案内してくださった事に対して、率直な言葉でもって感謝させていただきましてよ? それではまた会う日まで、ご機嫌よう?」

「どうもありがとうございました」

「ありがとうございました、お婆さん。どうかお元気で」

 最後にそう言って感謝と別れの言葉を口にした僕ら三人は、玄関先まで見送りに出てくれた老エヴァンズ夫人と離別し、やがてW・W・ジェイコブズが生前住んでいたとされる二軒目の家屋を後にした。そしてそのままゴールディングス・ヒルと呼ばれる地域からも退出すると、再びロートンの町を南北に縦断するハイ・ロード、つまり国道A121号線へと足を踏み入れる。

「結局、猿の手の呪いを解く方法に関する新たな手掛かりは、何一つ発見出来ませんでしたね」

 ロートンの町を南北に縦断するハイ・ロードを徒歩でもって南下しながら、やはり僕は誰からの返答も期待せぬままそう言って独り言ち、ひどく落胆せざるを得なかった。何故ならリーゼンフェルト男爵が口にした言葉と違って、W・W・ジェイコブズが生前住んでいた町を訪ねたにも拘らず、猿の手を古物市場に流通させている組織の正体も猿の手の本体の在り処もさっぱり分からなかったからである。

「ええ、そうね? もっと早くに手を出して来るのではないかと思っていたのですけれども、あちらさんもまた、意外と慎重な様子なのではないかしら?」

 すると僕の前を歩くグエン・チ・ホアがそう言って、何やら随分と意味深長そうな言葉を口にしたものだから、僕は「え? あちらさん? 慎重な様子? それって一体、どう言った意味なんですか?」と言って鸚鵡返しになりながら問い返した。

「ええ、そうね? つい今しがたあたしが口にした言葉の意味するところは、きっとそう遠くない内に、万丈くんや淑華ちゃんにも理解出来る事になられる筈でしてよ? それに今はそんな些細な事よりも、もうとっくに正午を回ってしまっている事ですし、そろそろこの辺りのカフェかレストランでもって遅めの昼食をいただく事にすると言うのは如何かしら? そうね、たまには本場イングランドのアフタヌーン・ティーをゆっくり楽しませていただくなんて言うのも、乙なものなのではなくて?」

 そう言ったグエン・チ・ホアはハイ・ロードがロートンの町の中心部に差し掛かった辺りで不意に足を止め、きょろきょろと周囲を見渡し、やがて一軒の立派な造りのカフェに眼を付ける。

「あちらのお店なんか、ちょうど良さそうでしてよ?」

 ラタンの旅行鞄を手にしたグエン・チ・ホアはそう言うと、観光客の姿が殆ど見られないのどかな田舎町であるロートンの中心部の、それでも多少は人通りが確認出来る繁華街の一角に建つ一軒のカフェの方角へと足を向けた。そしてそのカフェの正面玄関の扉を押し開けた彼女は、ちりんちりんと言うドアベルの音と共に出迎えてくれた若い制服姿のウェイターに問い掛ける。

「ちょっと、お尋ねさせていただいてもよろしくて? こちらのお店では、この時間でもアフタヌーン・ティーは取り扱っておられるのかしら?」

「はい、マダム。当店では紅茶と軽食のセットであるアフタヌーン・ティーを、午後の営業時間の開始時点から取り扱っております」

「あら、そうですの? それは好都合ね? でしたらその紅茶と軽食のセットを、あたしとこちらのお二方の計三人分、ご用意していただいてもよろしくて?」

かしこまりました、マダム。それではすぐにご用意させていただきますので、どうぞ、お好きな空いているお席にお掛けになったままお待ちください。外のテラス席も空いております」

 うやうやしいお辞儀と共にそう言ったウェイターがその場から立ち去り、注文内容を厨房へと伝えに行くべく姿を消すと、一旦カフェから退出したグエン・チ・ホアは屋外のテラス席の一つに腰を下ろした。そこで僕と淑華の二人もまた、彼女と同じテーブル席に腰を下ろす。

「あたし、こんな本格的な、それも本場イングランドのアフタヌーン・ティーなんて初めて!」

 僕の隣に座る淑華はそう言って興奮しきりだが、残念ながら僕はイングランドに於けるアフタヌーン・ティーの習慣や作法について、その詳細をまるで知らない。

「ねえ、ホアさん? 僕はあまり詳しく知らないんですけれど、ここで言うところのアフタヌーン・ティーって、その、一体何なんですか?」

「あらあら? 万丈くんは、アフタヌーン・ティーを楽しまれるのは初めての経験なのかしら? そうね、アフタヌーン・ティーと言うのはアンナ・マリア・ラッセルと言う名の十九世紀の公爵夫人が始めたと伝えられるお茶会の一種であり、紅茶と軽食でもって昼食から夕食までの間の空腹を満たすと同時に人々の交流を盛んにする、ある種の社交行事の一つでもありましてよ?」

「何よ、万丈ったら、そんな事も知らないの? ホントにあんたは無学無教養で、無知蒙昧なんだから!」

 グエン・チ・ホアが蘊蓄を傾けながら僕の問い掛けに対して返答すると、何故だか分からないが、僕の隣に座る淑華がそう言って僕の無知蒙昧ぶりを殊更口汚く罵った。しかしながらアフタヌーン・ティーとやらが何者であるかについて僕が何も知らない事は紛れも無い事実なので、正々堂々と言い返す事も出来ぬまま、只々口篭もるばかりである。

「お待たせいたしました、マダム。どうぞ、当店のアフタヌーン・ティーをごゆっくりお楽しみください」

 すると暫しの間を置いてから、先程の若いウェイターがワゴンを押しながらそう言って姿を現すと、そのワゴンに乗せられていた茶器や食器の数々をテラス席のテーブルの天板の上に並べ始めた。並べられたのは淹れ立て熱々の紅茶でもって満たされたティーポットやティーカップなどのティーセット一式と、幾つかの軽食が乗せられた三段構造のケーキスタンド、それにジャムやクロテッド・クリームが盛られた小皿や各種カトラリーなどである。

「さあ、でしたらお二人とも、さっそくいただきましょ?」

 そしてそう言ったグエン・チ・ホアの掛け声でもって、僕は眼の前に並べられた紅茶と軽食の数々に手を伸ばし掛けたが、不意に思い留まってその手を止めざるを得ない。

「えっと、ねえ、ホアさん? これってケーキを食べる順番とか紅茶の飲み方に、何か決まったマナーとかってあるんですか?」

 僕は伸ばし掛けた手を止めてからそう言って、アフタヌーン・ティーを嗜む際のマナーの有無について問い掛けた。すると問い掛けられたグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、嫌な顔一つせぬままに、僕の突然の問い掛けに対して返答してくれる。

「ええ、そうね? 確かに紅茶をいただく際には幾つかの伝統的な作法がありますけれども、余程の無作法な行為を別にしたならば、特段肩肘を張る事無く普通の飲食のマナーさえ守っていただければ何の問題も無いのではないかしら? ただしスタンドに乗せられた軽食は下の段から上の段に向かって順番に召し上がると言うのが、伝統的なイングランドの、アフタヌーン・ティーをいただく際の決まりでしてよ?」

「成程、分かりました」

 僕はそう言って得心すると、テーブルの天板の上に乗せられたケーキスタンドに改めて眼を向けた。三段構造のケーキスタンドの一番下の段にはサンドウィッチ、真ん中の段にはスコーン、そして一番上の段にはペイストリーとも呼ばれる小さなケーキの類が乗せられているのが見て取れる。

「それじゃあ、いただきます」

 そう言った僕は改めて、まずは三段構造のケーキスタンドの一番下の段、つまりサンドウィッチの段へと手を伸ばした。そして手に取ったサンドウィッチは耳を切り落とした白い食パンでもって薄切りにした胡瓜きゅうりと茹で卵を挟み込んだ、如何にも伝統的な、シンプルなサンドウィッチである。

「……」

 ちなみに胡瓜きゅうりと茹で卵のサンドウィッチのお味の方はどうだったかと言うと、特にどうと言う事も無い、まさに生の胡瓜きゅうりと茹で卵、それにパンに塗られた少量のバターとマスタードの味がするだけの見たまんまのサンドウィッチであった。

「だったら次はこっちを……」

 サンドウィッチを食べ終えた僕は小さな声でもってそう言って独り言ちながら、今度はケーキスタンドの真ん中の段、つまりスコーンの段へと手を伸ばす。ちなみにスコーンには保温のため、俗に『クロッシュ』と呼ばれる覆いが掛けられているのが一般的だが、この店のクロッシュは白い清潔な布ナプキンであった。

「スコーンのお味は如何かしら、万丈くん?」

「え? あ、はい、美味しいです。特にこの、白くてこってりしたクリームを塗って食べると美味しいです」

 グエン・チ・ホアに問い質された僕がそう言って、生乳を煮詰めて作った乳脂肪分の塊であるクロテッド・クリームを指差せば、彼女はそんなクリームに関する蘊蓄を傾け始める。

「あらあら、どうやら万丈くんは、こちらのクロテッド・クリームがお好みなのね? けれどもね、万丈くん? 残念ながらスコーンはクロテッド・クリームだけを塗られて召し上がるのではなく、こちらのジャムもまたクリームと一緒に塗られた上でもって同時にお口に入れて召し上がるのが、アフタヌーン・ティーをいただく際のスコーンの正しい食べ方でしてよ?」

「そうなんですか?」

「ええ、そうね? ちなみにスコーンにはクロテッド・クリームを先に塗られてからジャムを塗るべきか、それともジャムを先に塗られてからクロテッド・クリームを塗るべきかと言ったアフタヌーン・ティーの作法に関する論争があるのですけれども、どちらを先に塗られても、お口の中に入ってしまえば一緒じゃない? まったく大英帝国の方々は昔から、本当にどうでもいいような些細な事でもって言い争われるのがお好きなのね? それともミルクティーには紅茶を先に淹れてからミルクを入れるべきか、ミルクを先に入れてから紅茶を淹れるべきかと言った論争もある事ですから、そもそもこう言ったどうでもいいような物事の順番に関して論争するのが英国人の国民性なのかしら?」

 グエン・チ・ホアはそう言って、僕の問い掛けに返答するかのような格好でもって蘊蓄を傾けながら、くすくすと愉快そうにほくそ笑んだ。そしてそんな彼女の言葉に得心しつつも、僕はクロテッド・クリームとジャムを塗ったスコーンをもぐもぐと咀嚼してから嚥下すると、眼の前に並べられたティーカップの一つへと手を伸ばす。

「あ、美味しい」

 ティーカップを手に取り、その中身を一口飲み下した僕はそう言って、思わず心の中で呟いたつもりだった言葉をはっきりと口に出してしまった。何故ならそれ程までに、明確に違いが分かるくらい、飲み下した紅茶が美味しかったからである。

「もう、万丈ったら馬鹿ねえ! イングランドの紅茶が美味しい事くらい、誰だって知ってる事じゃないの!」

 僕の隣に座る淑華はそう言って鼻で笑うが、そう言う彼女もまた彼女のティーカップの中身を一口飲み下すと、その美味しさに眼鏡の奥の眼を見張りながら驚かざるを得ない。

「あらあら? お二人とも、イングランドの紅茶は初めてかしら?」

「ええ、初めてですけど、どうしてこんなに美味しいんですか?」

 ティーカップを手にした僕は驚きを隠せぬままそう言って、この国の紅茶が何故こんなにまでも美味しいのかを、グエン・チ・ホアに問い掛けた。

「そうね、たとえば茶葉を蒸らす時間を何分何秒に設定するであるとか、お茶を淹れるためのお湯の温度を何度に設定するであるとか、そう言った淹茶に於ける基本的な理論や技術の違いもあるのでしょうけれども、やはり最大の違いは人々の情熱の熱量の差ではなくて?」

「情熱?」

「ええ、そうね? 如何にすればより美味しいお茶を淹れる事が出来るのかと言った課題の解決に心血を注ぎ込み、何世代にも渡る長大な時間を掛けながら積み上げて来られた理論や技術の数々は、人々の飽くなき情熱と探求心の賜物そのものでしてよ? ですから一見するとまるで意味の無い、小手先のテクニックとしか思えないような簡単なノウハウであったとしても、それはより美味しいお茶を求める英国人の情熱に裏打ちされた立派な奥義の様なものなのではないかしら?」

「成程、その情熱に裏打ちされた理論や技術があるからこそ、こんなに美味しい紅茶を淹れる事が出来るんですね?」

「ええ、そうね? まったくこの国の方々ときたら、このお茶に傾けるだけの情熱を、少しくらいは他のお料理のお味の向上に傾けていただいてもよろしいのではなくて? そうでないといつまで経っても、世界一お料理が不味い国などと言う不名誉な称号を、返上する事が出来なくてよ?」

 やがて蘊蓄を傾け終えたグエン・チ・ホアはそう言ってくすくすと愉快そうにほくそ笑み、僕は再び自分の眼の前に並べられたティーカップの一つを手に取ると、その中身をもう一口だけ飲み下しながら得心する。ティーカップに注がれていた紅茶は砂糖抜きのミルクティーであったが、茶葉本来の味と香りが濃厚であるにも拘らず、渋味や雑味は皆無であり、ミルクのまろやかさもあって只ひたすらに味わい深い。あんな安物と比較するのも申し訳無いが、フォルモサのコンビニで売っているペットボトルに詰められた紅茶などとは全然違う、まさに本物のアフタヌーン・ティーであった。

「それにしたって、何だってこんな真冬にオープンテラスの席なんか選んだ訳? 確かにお茶もお菓子も美味しいけれど、それを差し引いたって、寒くて寒くて仕方が無いじゃない!」

 すると僕の隣に座る淑華がぶるぶるっと肩を震わせながらそう言って、不平不満の言葉を漏らしたならば、僕もまたそんな彼女に同意せざるを得ない。

「確かに、どうして温かい店内じゃなくてこの席を選んだんですか、ホアさん? せっかくの淹れ立ての紅茶が、ここだとすぐに冷めちゃいますよ?」

 僕がそう言って淑華の意見に同意したならば、僕ら二人から問い質されるかのような格好になってしまったグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、またしても妙に意味深長そうな言葉を口にする。

何故なにゆえにこのような戸外の席を選んだのかと問われれば、こうして敢えて隙を作って差し上げた方が、あちらさんも手出しし易いであろうと考えたからではないかしら?」

「え? 隙を作る? あちらさん?」

 やはり僕がそう言って鸚鵡返しになりながら問い返した次の瞬間、テラス席に隣接する繁華街の歩道を歩いていた一人の成人男性が音も無くこちらに近付くと、グエン・チ・ホアの足元に置かれていた彼女のラタンの旅行鞄へと素早く手を伸ばした。そしてハンチング帽を目深に被ったその成人男性はラタンの旅行鞄の持ち手に手を掛けるや否や、カフェとは反対のロートンの町の裏通りの方角へと駆け出し、それを引っ手繰ろうと試みる。

「あら? やっと手出しをしてくださるのね?」

 しかしながらそう言ったグエン・チ・ホアは少しも慌てる事無く、ハンチング帽の男以上の素早さでもって手を伸ばし、今まさに彼女の足元から引っ手繰られようとしているラタンの旅行鞄の持ち手を掴み取った。そして頑丈な鉄の金具と牛革で出来た持ち手の端と端とを、ハンチング帽の男とグエン・チ・ホアの二人が同時に掴み取り、互いに正反対の方向へと引っ張り合いながら一つの旅行鞄を奪い合う格好になる。

「!」

 常識的に考えれば屈強な白人の成人男性と華奢なアジア人女性との体格の違いから、このラタンの旅行鞄を綱代わりにした綱引きは、ハンチング帽の男の勝利でもってすぐさま決着が付くものと思われた。しかしながら不思議な事に、ハンチング帽の男が幾ら引っ張ってもグエン・チ・ホアとラタンの旅行鞄はびくともせず、むしろ彼女は涼しい顔である。

「糞! 何なんだ、この女は!」

 ハンチング帽の男はそう言って口汚く悪態を吐くものの、彼が幾ら力任せに引っ張ってみたところで、グエン・チ・ホアの手からラタンの旅行鞄を引っ手繰る事が出来ない。

「あらあら、如何にもたくましそうな見た目をされている割には、随分と非力な方なのではないかしら? そんな事ですと、こちらにいらっしゃる万丈くんどころか、淑華ちゃんにすら力負けしてしまいましてよ?」

 するとグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、まるで余裕綽々とでも言いたげな表情と口調でもってそう言うと、ハンチング帽の男をラタンの旅行鞄ごとぐいっと強引に引き寄せた。そして強引に引き寄せられてしまったハンチング帽の男の手首を彼女の細く小さな手でもって掴み上げると、恐れおののくばかりの彼の耳元へと顔を寄せ、至近距離から警告、もしくは予告する。

「さあ、これからあなたには、ご存知であられる筈の全ての事を洗いざらい喋っていただかなければなりませんものね? 覚悟はよろしくて?」

 至近距離からそう言って警告されてしまったハンチング帽の男は恐慌ショック状態へと陥り、その顔から一瞬にして血の気が引いたかと思えば、まるで夜道で幽霊に出会ってしまった幼女の様に「ひっ!」と言って小さな悲鳴を上げざるを得なかった。そして有らん限りの力を振り絞りながら上体をぶんぶんと振り回し、グエン・チ・ホアの手を力任せに振り解く事に成功したハンチング帽の男は一刻も早くこの場から退散すべく、繁華街の中央を走る交通量の多い車道を強行突破でもって横断しようと試みる。

「危ない!」

 しかしながら次の瞬間、そう言って警告した僕の努力も空しく、一台の大型トラックが結構な速度でもってこちらへと突っ込んで来た。いや、少なくとも大型トラックの運転手からしてみれば、彼が運転する大型トラックが突っ込んで来た訳ではなく、ハンチング帽の男がいきなり眼の前に飛び出して来たと言った方が正しいのかもしれない。そして車道を横断しようとしていたハンチング帽の男は身を翻す間も無いままに、クラクションを激しく鳴らす大型トラックに真正面から撥ねられて吹っ飛ぶと、そのままごろごろと車道を転がってからぴくりとも動かなくなる。

「あらあら、大変ね?」

 ハンチング帽の男が大型トラックによって撥ね飛ばされ、車道のど真ん中で寝転がったままぴくりとも動かなくなるのを横眼に、グエン・チ・ホアがまるで他人事の様な表情と口調でもってそう言った。寝転がったハンチング帽の男の身体から真っ赤な鮮血がじわじわと染み出し、冷たいアスファルトでもって舗装された車道の路面をしとどに濡らす。

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