第十一幕
第十一幕
イングランドの首都ロンドンに到着した日の翌朝、僕は自分が宿泊している客室と廊下とを隔てる扉がこんこんとノックされる音でもって眼を覚ました。
「万丈くん、もう起きてらして?」
ノックされた扉の向こうからそう言ったグエン・チ・ホアの声が聞こえて来たので、枕元に置いてあったスマートフォンでもって現在の時刻を確認してみれば、既に午前八時を回っていたので僕は飛び起きる。
「はい、今起きました! すぐ着替えます!」
飛び起きるのとほぼ同時にそう言った僕は寝間着から外出着へと急いで着替えると、寝惚け眼のまま「お待たせしました!」と言いながら、民宿の廊下へと続く客室の扉を開けた。すると廊下で待っていたグエン・チ・ホアが僕を出迎え、彼女の背後には淑華の姿もまた垣間見える。
「ホアさん、おはようございます! それと、淑華も、えっと……おはよう」
客室の扉を後ろ手に閉めた僕はそう言って朝の挨拶の言葉を口にしたものの、どうやら未だ
「おはようございまして、万丈くん? 今朝もまた、良い朝なのではないかしら? 昨夜はぐっすりお休みになられて? でしたら万丈くんも淑華ちゃんも、あなた方お二人の準備さえよろしければ、さっそく下の食堂まで朝食をいただきに参られる事になさいましてよ?」
そう言ったグエン・チ・ホアを先頭に、彼女と僕と淑華の三人は廊下を渡って階段を駆け下りると、やがて民宿の一階に在る食堂へと足を踏み入れた。さほど広くもない食堂内には僕ら三人以外にも数名の宿泊客達の姿が見受けられ、皆一様に、同じメニューの朝食を仲間内でもって談笑しながら食む事に余念が無い。そしてそんな食堂内の一角に在る四人掛けのテーブル席の内の一つに腰を下ろしたならば、程無くして僕らの眼の前にも、彼らと同じメニューの朝食の皿が並べられる。
「あら? どうやらこちらの食堂では、イングランド名物の伝統的な朝食がいただけるのね?」
朝食の皿を前にしながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、その皿の上に盛られた料理は、俗に『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』とも呼ばれるイングランドの伝統的な朝食であった。尤も伝統的とは言っても、この朝食がイングランドの世間一般に広く普及し始めたのは十八世紀の産業革命以降の事なので、ややもすれば浅い伝統であると言わざるを得ないのかもしれない。
「いただきます」
声を揃えながらそう言った僕ら三人は、各々の眼の前に並べられたナイフとフォークを手に取ると、さっそく皿の上の『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』を食べ始めた。イングランド名物の『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』は大きな一枚の皿の上に数々の火を通した食材や一品料理が雑然と盛り付けられた、ある種のごった盛りとも言える、ややもすれば粗野で乱暴な印象を与えかねない料理である。ちなみにこちらの民宿で提供されている『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』はスクランブルエッグとトマト味のベイクドビーンズ、バンガーと呼ばれる燻煙されていないふにゃふにゃのソーセージとブラック・プディングと呼ばれる豚の血のソーセージ、しっかり焼いたトマトとマッシュルームとバックベーコン、キッパ―と呼ばれるニシンの燻製、ジャガイモのハッシュブラウン、それにバターとマーマレードが塗られたトーストと言った盛り沢山の内容であった。
「一部の好事家の方々に依るならば、この「フル・イングリッシュ・ブレックファストこそ世界で最も美味しい朝食である」などとも評されておりますけれども、実際にこうして本場のそれをいただいてみた感想は如何なものかしら? 万丈くんも淑華ちゃんも、あなた方お二人の率直なご意見をお聞かせ願えれば幸いでしてよ?」
民宿の食堂の一角で朝食を食べ始めてから数分後、そう言ったグエン・チ・ホアからその朝食についての感想を求められた僕と淑華は、ナイフとフォークを手にしたまま正直に返答する。
「味はまあ見たまんまの素材の味と言うか、イギリスの料理はどれもこれも不味くて不味くて仕方が無いって聞かされていた割にはそれ程不味い事も無いと思うんですけど……何と言うかその……やたらと脂っこくて量が多いので、ちょっと胸焼けがします」
「あたしも万丈と、ほぼ同意見ね。朝っぱらからこの量はちょっとボリュームがあり過ぎて、とてもじゃないけど全部食べ切るのは無理みたい」
僕に続いて淑華もまたそう言って、少なくとも僕らの様な平均的な十代の東アジア人にとっての『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』は、脂っこくて量が多過ぎると言う僕の意見に賛同した。
「お? 何だ淑華、お前も僕と同じ意見なのか? 奇遇だな」
しかしながら僕がそう言って故意におどけてみせると、僕の意見に賛同した筈の淑華はまたしても「ふん!」と言って唇を尖らせながらそっぽを向いてしまうばかりで、どうやら彼女は決して機嫌を直してくれたと言う訳ではないらしい。
「あらあら? 淑華ちゃんったら、昨夜からの不機嫌ぶりは、夜が明けられても尚健在でらっしゃるのね? それにしたって量が多過ぎるのでしたら、お二人とも、食べ切れない分は残してしまわれてもよろしくてよ?」
グエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言うが、僕だって育ち盛りで食いしん坊の現役男子高校生の一人なのだから、眼の前に食べ物を並べられながら引き下がる訳には行かない。
「いえ、食べます! 全部食べてみせます! せっかくのイギリスの伝統料理を残したりなんかしたら勿体無いし、それに一人の男として、カッコ悪いところをホアさんには見せられませんから!」
僕はそう言うと、まるでこの世の全てを胃の中に無理矢理流し込むかのような意気込みでもって、皿の上の『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』をナイフとフォークを使って強引に掻っ込んだ。スクランブルエッグもベイクドビーンズもバンガーもブラックプディングも、トマトもマッシュルームもバックベーコンもキッパーもハッシュブラウンもそれなりに美味しかったが、とにかくその暴力的な量と殺人的な脂っこさにばかりは舌を巻かざるを得ない。しかしながらそれでも諦める事無く、皿の上に並べられた食材や一品料理の数々を無心になって搔っ込み続ければ、やがてその皿も空になって本来の白さを取り戻す。
「ふう」
ようやく空になった大きな一枚の皿を前にして、僕はぽっこりと膨らんだ腹を撫で擦りながら、そう言って人心地付いた。後はバターとマーマレードが塗られたトーストさえ食べ切れば、遂に僕は、あの悪名高き『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』を完食した事となる。
「あらあら、万丈くんったらそんなに急いで朝食を召し上がってみせるだなんて、随分と食いしん坊さんなのね? それとも、余程お腹が空いてらしたのかしら?」
「へえ、万丈ったら、凄いじゃないの。だったらあたしが食べ切れなかった分も、あんたがあたしの代わりに食べてよね」
すると僕の事を褒め称えたグエン・チ・ホアとは対照的に、淑華は皮肉交じりにそう言いながら、未だかなりの量の食材と一品料理が食べ残された彼女の皿を僕の眼の前へと押し出した。
「うっぷ」
淑華が押し出した都合二枚目の『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』の皿を前にした僕は胃の内容物が逆流し、思わずそう言って眉間に皺を寄せ、軽い吐き気を催しながらえずいてしまわざるを得ない。
「あらあら、淑華ちゃんったら、そんなに万丈くんを苛めないでくださいな? それにそもそもこの『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』がやたらと脂っこくて量が多いのは、産業革命の頃の工場労働者や肉体労働者が必要とするカロリーを朝から摂取するためのものであって、現代の平均的な一般市民にとっては高カロリー過ぎますものね? ですからそんな一般市民である筈の万丈くんや淑華ちゃんが、この山盛りの朝食を食べ切れなかったとしても、何の不思議も無いのではないかしら?」
そう言って蘊蓄を傾けるグエン・チ・ホアの言葉に、僕は過剰に摂取した塩と脂による胸焼けに苦しみながら、只々納得するばかりである。
「ところでホアさん、僕らはこの後、W・W・ジェイコブズが生前住んでたロートンって名前の町に行くんですよね?」
「ええ、そうね? まさにその通りでしてよ?」
「昨日の昼にご飯を食べながら、そのロートンって町はロンドンの近くに在る小さな田舎町だとは聞きましたけど、具体的にはどんな町なんですか? そしてその町で、僕らは一体、何を探せばいいんですか?」
バターとマーマレードが塗られたトーストを、ちょっとずつもそもそと食みながら、僕はそう言ってグエン・チ・ホアに問い掛けた。
「ええ、そうね? ロートンはエセックス州の西の端に在るシヴィル・パリッシュ、つまりイングランド国教会の行政教区の一つに指定された地域であると同時に、エッピング・フォレストと呼ばれる広大な森林地帯の中に在る小さな田舎町でしてよ? そして『猿の手』の著者であるところのW・W・ジェイコブズは、この小さな田舎町ののどかな雰囲気とエッピング・フォレストの雄大さを、終生愛し続けたのではないかしら? ですからあたし達はこれから、猿の手の呪いを解くための手掛かりを求めて、そのW・W・ジェイコブズがロートンの行政教区内に所有していたらしき二軒の家屋を訪ねてみるつもりでしてよ?」
「成程。それでホアさん、その『猿の手』の著者が所有していた二軒の家屋には、何が在るんですか?」
僕がそう言って重ねて問い掛ければ、グエン・チ・ホアはその整った顔立ちに、ほんのちょっとだけ困ってしまったかのような表情を浮かべながら肩を竦める。
「それがね、万丈くん? 大変申し上げ難い事なのですけれども、甚だ残念ながら、ロートンで目的の家屋を訪ねた後の予定は未だ立っていなくてよ?」
「え? それってつまり、もしロートンで何も見付からなかったら、もうその先は何の手掛かりも無いって事ですか?」
「ええ、そうね? 何せあたし達三人にロートン行きを勧められたハノーファーの男爵様も、具体的な発言を避けられながら「W・W・ジェイコブズが生前住んでいた町を訪ねてみたまえ」としか仰っておられませんでしたから、現段階ではそれ以上の手掛かりは無いのではないかしら? ですからこうなってしまったからには、後は男爵様の「猿の手を古物市場に流通させている組織の正体と、世界中に流布された無数の猿の手の本体の在り処の手掛かりが、きっと見付かる筈だ」と言う言葉を信じて、駄目で元々とばかりにロートンまで足を延ばしてみるつもりでしてよ?」
グエン・チ・ホアはそう言って、リーゼンフェルト男爵の発言を引用した部分は彼の口調や声色を真似ながら、僕の問い掛けに対して返答してみせた。
「それに、あながち何も起こらないとは限りませんものね?」
するとグエン・チ・ホアが意味深な表情と口調でもってそう言いながら、食堂の出入り口の方角へとわざとらしく、そして思わせぶりに眼を向けたので、僕もまたそちらの方角へと眼を向ける。
「?」
僕が頭の上に見えない疑問符を浮かべたままそちらへと眼を向ければ、そこには食堂全体を見渡せる位置に在るテーブル席に腰を下ろしながら僕らと同じ朝食を食んでいる、一人の赤毛の大柄な白人男性の姿が見て取れた。そしてその赤毛の大柄な白人男性は僕の視線に気付いたのか、そっとさりげなく眼を逸らし、何事も無かったかのような様子でもって朝食を食み続ける。
「あの人が、どうかしたんですか?」
「さあ、どうかしら? どうかしたのかもしれませんし、どうもしなかったのかもしれませんものね?」
やはり意味深な表情と口調でもってそう言ったグエン・チ・ホアの言葉に、僕は引き続き、頭の上に見えない疑問符を浮かべながら小首を傾げざるを得ない。
「さあ、でしたら万丈くんも淑華ちゃんも、そろそろ食事を終えられて、ロートンへと出発なさっては如何かしら?」
やがて彼女の眼の前の皿を空にしたグエン・チ・ホアはそう言って、この民宿の屋号と住所と電話番号が印刷された紙ナプキンでもって口元の汚れを拭い取りながら、ナイフとフォークを置いた。育ち盛りの現役男子高校生である僕がどうにかこうにか食べ切る事が出来た『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』を、華奢な女性である筈の彼女がぺろりと苦も無く食べ切ってしまった事に、僕は驚きを隠せない。
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