第十四幕


 第十四幕



 混雑するパブのカウンターで都合四杯目となるエールビールのグラスを受け取ったグエン・チ・ホアは、それを手にしながら軽快な足取りでもって店内を横断し、やがて僕と淑華の二人が待つテーブル席へと戻って来て腰を下ろした。

「さあ、でしたらさっそく、アーサー王と円卓の騎士達の物語について解説させていただきましてよ? そうね、まず手始めに、アーサー王伝説の概要を語らせていただいてもよろしくて?」

「はい、お願いします!」

 僕がちょっとだけ居住まいを正しながらそう言えば、グエン・チ・ホアは再び蘊蓄を傾け始める。

「アーサー・ペンドラゴンなる名の人物が主に活躍したとされているのは、およそ五世紀後半から六世紀前半に掛けての大ブリテン島、つまり現在のイングランド、スコットランド、ウェールズに跨る地域での事でしてよ? そして先代の王であった父ユーサー・ペンドラゴンの後を継いでブリトン人の国の王となったアーサーは、大軍を率いて国土の防衛に従事し、大ブリテン島へと侵攻して来たサクソン人の軍勢を撃退する事に成功したとされているのよね?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは、まるで喉を潤して滑舌を良くしようとするかのような格好でもって、手にしたグラスの中身を一口だけ飲み下した。

「その後のアーサー王は進軍を重ねる事によって順調に領土を拡大し、やがて彼が支配される地域は大ブリテン島のみに留まらず、その近隣に在るアイルランドやアイスランドやオークニー諸島、更にはノルウェーやデンマークやガリアまでをも征服して大帝国を築き上げたとされていましてよ? しかしながら宿敵ローマ帝国との決戦を目前に控えられたアーサー王がガリアへと出征されていた際に、留守を任せた筈の騎士モードレッド卿が本国でもって謀反を起こしたと聞くや否や、怒りに駆られた彼は大ブリテン島へと取って返されてね? そして壮絶な死闘を繰り広げられた後に遂にモードレッド卿を討ち取る事には成功したものの、彼自身もまた深手を負ってしまわれたアーサー王は、傷を癒すべくアヴァロンの地へと旅立ったとされているのではないかしら?」

 グエン・チ・ホアはすらすらと淀み無くそう言って蘊蓄を傾け終えると、お酒のグラスや料理の皿が並べられたテーブル越しに僕に向かって微笑み掛けながら、一旦話を締め括る。

「如何だったかしら、万丈くん? 取り敢えずざっくりと簡単に、掻い摘まんでお話させていただきましたけれども、以上が有名なアーサー王伝説の最も基本的な骨子となるべき部分の概要でしてよ? そしてこの概要に、先程あなたが仰った聖剣エクスカリバーの授与やランスロット卿と王妃グィネヴィアとの不義などと言った細かなエピソードが後から無数に付け加えられた事によって、アーサー王と円卓の騎士達の物語が形作られたのではないかしら?」

「え? 細かなエピソードが、後から無数に付け加えられた? と言う事は、僕が知っているアーサー王と円卓の騎士達の物語は、最初から完成された一つの物語だった訳ではないって事ですか?」

 僕がそう言って問い掛ければ、この問い掛けに対しても、聡明で博識なグエン・チ・ホアは解説してくれるにやぶさかではない。

「ええ、そうね? 今日これまでの歴史上、アーサー王と円卓の騎士達の物語を纏め上げた代表的な著書は二つありまして、それが1136年前後にモンマスのジェフリーが著わされた『ブリタニア列王史』と、1470年前後にトマス・マロリーが著わされた『アーサー王と高貴な円卓の騎士達』の二つの書物でしてよ?」

 グエン・チ・ホアはグラスを持つ手とは逆の手の二本の指をぴんと立ててみせながらそう言って、彼女が言及した『アーサー王と円卓の騎士達の物語を纏め上げた代表的な二つの書物』を暗示した。

「まず初めにこれら二つの書物の内の、モンマスの町にお住まいでしたジェフリーと名乗る聖職者の手によって著わされた『ブリタニア列王史』ですけれども、これは表向きは歴史的事実に基づいて記された歴史書の一つとされておりましてね? それ以前に編纂された『ブリトン人の没落』や『ブリトン人の歴史』や『カンブリア年代記』などと言った書物の内容を下敷きにしながら、初代のブルートゥスから末代のカドウァラドルスまでの歴代のブリトン人の国の王の経歴や活躍が、詳細に綴られておりましてよ? そしてこの歴史書の中で最も多くのページが割かれている箇所こそ、先程あたしが概要を語らせていただきました、アーサー王伝説の骨子となるべき部分なのではないかしら?」

「成程、歴史書に記されていたって事は、アーサー王伝説は歴史的事実だったって事ですよね?」

 僕はそう言ってわくわくしながらグエン・チ・ホアに同意を求めたが、残念ながら同意を求められたグエン・チ・ホアは肩を竦めてかぶりを振り、首を縦に振ってはくれない。

「ところがね、万丈くん? つい先程「表向きは歴史的事実に基づいて記された」と申し上げさせていただきました通り、この『ブリタニア列王史』は史実が記された歴史書の一つに違いないと信じられていた時代もあるのですけれども、現在ではその内容の殆どがモンマスのジェフリーの手による創作である事が証明されておりましてよ? 勿論その内容にはある程度の史実もまた織り交ぜられているのでしょうけれども、残念ながら真っ当な歴史書などではなく、偽史書とでも称すべき良く出来た作り話の羅列と言うのがこの書物の妥当な評価なのではないかしら?」

「え? 偽史書? それじゃあアーサー王伝説も、その何とかのジェフリーって人がでっち上げた作り話なんですか?」

 アーサー王伝説の骨子が記された書物が偽史書であったと言うグエン・チ・ホアの言葉に、僕はそう言ってがっかりと肩を落とさざるを得なかった。

「いいえ、どうぞご安心なさいませ? 確かに『ブリタニア列王史』は偽史書であったのかもしれませんけれども、決してアーサー王伝説の全てが、つまりアーサー王の存在そのものが創作であったと言う訳ではなくってよ?」

 しかしながらグエン・チ・ホアはそう言って、僕の不安を払拭してくれる。

「元々アーサー王と呼ばれる人物は、十世紀以前の大ブリテン島のブリトン人達、つまり現在のウェールズとその周辺にお住まいの方々の間で語り継がれて来た伝説上の人物でしてね? そしてその伝説上の人物の名がはっきりと書物の上に登場されたのは、828年かその前後に著わされた『ブリトン人の歴史』が最初であり、その著者はネンニウスなる人物とされておりましてよ? 尤もこの頃のアーサーは一国の王、ましてやローマ帝国をも打ち破らんとする大帝国の支配者などではなく、サクソン人と戦った一介の軍の指揮官の一人に過ぎないとされていた点が、偽史書である『ブリタニア列王史』以降のアーサー王伝説とは大きく異なっておりますけれどもね?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉に依るならば、どうやら初期のアーサー王は一介の軍の指揮官の一人であって、後世語り継がれる事になるような『王』などではなかったと言う事らしい。

「そしてこの『ブリトン人の歴史』のみに留まらず、その内容の一部を補強してくださる『ブリトン人の没落』や『カンブリア年代記』などと言った先人の著書の記述を参照しながら大胆な脚色を加えられた結果として誕生されたのが、人々を導く偉大なる『王』としてのアーサーの姿なのではないかしら?」

「つまり、アーサー王は実在した? しなかった?」

「ええ、そうね? あたしの様な学者でもない一介の古物商が軽々に判断すべきではないのでしょうけれども、偽史書であった『ブリタニア列王史』以外にこれと言った物証が無い以上、伝説は所詮は伝説に過ぎなかったと考えるべきなのでしょうね? つまり先程言及させていただきました通り、軍の指揮官に過ぎないアーサーの様なモデルとなった人物は実在したとしましても、所謂いわゆる『王』としてのアーサーは実在されなかったと言うのが妥当な落としどころでしてよ?」

 グエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言って、ほぼはっきりと、伝説そのままの姿のアーサー王は実在しなかったと断言してみせた。

「何だ、そうか、アーサー王は実在しなかったのか……でも、だとしたら、聖剣エクスカリバーやランスロット卿とのいざこざなんかの有名なエピソードの数々は、一体どこから湧いて出たものなんですか?」

「ええ、そうね? でしたら『ブリタニア列王史』とはまた別の、アーサー王と円卓の騎士達の物語を纏め上げた代表的な二つの著書の内のもう一方について解説させていただきますけれども、よろしくて?」

 グエン・チ・ホアはそう言って前置きした上でもって、手にしたグラスの中身をもう一口だけ飲み下し、喉を潤し終えてから口を開く。

「やがてモンマスのジェフリーが著わされた『ブリタニア列王史』は海を渡られ、伝説上の人物に過ぎなかった筈のアーサー王の名とその活躍は大ブリテン島の島内だけに留まらず、ドイツやフランスと言った周辺諸国にお住まいの方々にもまた知られるところとなりましてね? その結果としてそれらの国々、特にフランスの文学界でもって、アーサー王伝説をネタ元とした二次的著作物が次々に発表されましてよ? そして『ブルターニュもの』などと称されたそれらの二次的著作物によって、現在のアーサー王と円卓の騎士達の物語に含まれる多くのエピソードが、本家本元のアーサー王伝説に加筆される事となったのではないかしら?」

「と言う事は、やっぱり聖剣エクスカリバーもランスロット卿も、そう言った二次的著作物の中に登場する要素の一つとして、後から加筆された武器や人物に過ぎないって事ですか?」

「ええ、そうね? 確かにランスロット卿の存在と彼に関するエピソードのほぼ全ては後世の創作なのですけれども、聖剣エクスカリバーに限りましては、ちょっとだけ事情が複雑でしてね? と、申し上げますのも、後世の聖剣エクスカリバーに相当する、アーサー王が湖の乙女から授けられたとされる武器は『ブリタニア列王史』の段階で既に言及されておりましたものですから、これは完全な二次的著作物による産物と言う訳ではなくってよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアに、僕は重ねて問い掛けざるを得ない。

「それじゃあ、若い頃のアーサー王が誰にも抜けなかった聖剣エクスカリバーを石の台座から引き抜いたって言うエピソードも、やっぱり『ブリタニア列王史』の段階から言及されていたんですか? それとも、後世の後付け? ……あれ? 湖の乙女から授けられたのがエクスカリバーなんだとしたら、石の台座から引き抜いたのは、エクスカリバーとはまた別の剣? あれ?」

 アーサー王と円卓の騎士達の物語に登場する二振りの剣の内、一体どちらが本来の聖剣エクスカリバーの名を冠する剣なのかが分からなくなってしまった僕はそう言って、頭の上に見えない疑問符を浮かべながら混乱するばかりであった。

「あらあら、さすがは万丈くんね? 眼の付け所が違うとでも申し上げましょうか、それとも痒い所に手が届くとでも申し上げましょうか、とにかく丁度今から、その点を解説して差し上げようと思っていたところでしてよ?」

 そして混乱するばかりの僕を尻目に、そう言ったグエン・チ・ホアは、何故だか妙に楽しげである。

「万丈くんもお察しの通り、若き日のアーサーは石の台座から一振りの剣を引き抜く事によって、彼の実の父であると同時に先代の王でもあるユーサー・ペンドラゴンの正統な後継者である事を証明してみせたとされておりましてね? しかしながらこの剣はペリノア王との決闘の際に打ち砕かれ、やがて二度目の敗北を喫したアーサー王は湖の乙女から授けられた新たな剣を手に取り、再び蛮勇を振るって領土拡大に努められたとされているのではないかしら?」

「だったら、つまり、その二振りの剣の内のどちらか一方が聖剣エクスカリバーって事ですよね?」

「ええ、そうね? 常識的に考えたとしましたならば、そのような結論に至るのが当然の帰結に違いありませんものね? ところがね、万丈くん? アーサーが石の台座から剣を引き抜かれたとされるエピソードは後世の創作なのですけれども、この剣がどのような銘であったかと言う点に関しましては、作中のどこにも言及された箇所が無くってよ? つまり、この石の台座の剣が果たして聖剣エクスカリバーであるのかないのか、その点がどうにもはっきりしないままにされてしまっているのよね? しかも更に後世になってから著わされた『アーサー王と高貴な円卓の騎士達』に於きましては、この石の台座の剣と湖の乙女から授けられた剣のどちらも聖剣エクスカリバーであるとされたものですから、尚更混乱を招いてしまっていると言うのが実情なのではないかしら?」

「え? ホアさん、ちょっと待ってもらってもいいですか? だとすると、この世には聖剣エクスカリバーと呼ばれる剣が、二振り存在するかもしれないって事ですか? しかもそれぞれが全く関係の無い物語の中に別々に登場する訳じゃなくって、同じ一つの物語の中に、同時に存在するような格好でもって?」

「ええ、そうね? まさにその通りでしてよ? それとも万丈くんさえよろしければ、聖剣エクスカリバーとは特定の剣の銘ではなく、アーサー王が手にした剣が代々受け継ぐ祖名相続の様なものだと言う説を提唱してみては如何かしら?」

 グエン・チ・ホアはそう言いながら、殊更愉快そうにくすくすとほくそ笑んだ。

「でしたら万丈くん、聖剣エクスカリバーについての疑問が解消されましたところでもって、そろそろ話を元に戻させていただいてもよろしくて?」

 そして再びそう言って前置きした上でもって、グエン・チ・ホアは、改めて蘊蓄を傾け続ける。

「今しがたの解説でもってご理解いただけましたでしょうけれども、後世の二次的著作物によって生み出された新たなエピソードの数々が、やがて『ブリタニア列王史』が確立したアーサー王伝説の基本設定に次から次へと加筆される事となりましてね? 更には騎士団について解説させていただいた際に言及した筈の『騎士道ブーム』もまた追い風となりまして、そのエピソードの加筆速度は時代を下るに従って益々上昇し、特に円卓の騎士達による冒険譚やラブロマンスを称える二次的著作物が絶えず発表され続けたのではないかしら?」

「えっと、その、決してホアさんの言う事を疑ってるって訳じゃないんですが……さっきの解説が事実だとするならば、ランスロット卿のエピソードのほぼ全ては後世の創作なんですよね? だとしたら他の円卓の騎士達、例えばガラハッド卿とかパーシヴァル卿とかガウェイン卿なんかのエピソードは、どうなんですか? 彼らのエピソードもまた、後世の創作なんですか? あれ? そう言えばホアさん、円卓の騎士達って、全部で何人居るんでしたっけ?」

 僕は頭の上に見えない疑問符を浮かべながらそう言って、再び混乱せざるを得ない。

「非常に良い点に気付かれたのではないかしら、万丈くん? 実は後世の二次的著作物の多くが新たな騎士を円卓に加えるものであり、その結果、当初はイエス・キリストの弟子達と同じ十二人であった筈の円卓の騎士達の頭数が加速度的に増加してしまったのではないかしら? そしてその数は当初の十二人から数十人、数百人、そして遂には千六百人にも達する大所帯になってしまいましてね?」

「千六百人? それってもう、円卓になんか座れませんよね?」

 未だグエン・チ・ホアが蘊蓄を傾けている最中だと言うのに、僕はそう言って、彼女の言葉を思わず遮ってしまった。

「ええ、そうね? そして次々に加筆される事となった円卓の騎士達を称えるエピソードの数々も、ガラハッド卿とパーシヴァル卿、それにボールス卿の三人の騎士達による聖杯探索の旅とその成功を称える物語を一つの頂点とした結果、やがて完成の域に達したのではないかしら?」

 しかしながらグエン・チ・ホアはそう言って、僕が彼女の言葉を遮ってしまった事を気にする素振りも無いままに、滔々と流れる川の水の様に蘊蓄を傾け続ける。

「こうして中世末期に完成の域に達したアーサー王と円卓の騎士達の物語を、トマス・マロリーなる謎多き人物が1470年前後に纏め上げられましたのが、先程も申し上げました通りの『アーサー王と高貴な円卓の騎士達』と題された書物でしてよ?」

 グエン・チ・ホアはそう言うと、手にしたグラスの中身をもう一口だけ飲み下し、アーサー王と円卓の騎士達に関する解説を一旦締め括るにやぶさかではない。

「如何だったかしら、万丈くん? 只の偽史書に過ぎなかった筈の『ブリタニア列王史』によってアーサー王伝説が産み落とされ、それが円卓の騎士達の物語である『アーサー王と高貴な円卓の騎士達』へと纏め上げられたあらましを解説させていただきましたけれども、納得していただけて?」

「はい、納得しました!」

 グエン・チ・ホアの問い掛けに対して、一連の蘊蓄に耳を傾け続けていた僕は首を縦に振りながら、そう言って心から得心せざるを得なかった。そしてまた同時に、彼女が傾けてくれた蘊蓄の数々を脳内でもって反芻しつつ、改めて問い掛けざるを得ないのもまた事実である。

「けれども、ホアさん? そんなアーサー王伝説と何らかの関係があるかもしれないブリトン騎士団とやらが存在するのだとしたら、一体全体、僕らなんかに何の用があるって言うんでしょうか? 僕らは只単に、猿の手の呪いの解き方と、その出所を探っていただけだって言うのに?」

 僕がそう言って問い掛ければ、今度はグエン・チ・ホアが小首を傾げながら、頭の上に見えない疑問符を浮かべる番であった。

「さあ、何故なのかしらね? アーサー王伝説ゆかりの組織や団体は世界中に数多く存在し、例えばティンタジェルの村に本部を置く『円卓の騎士の共同団』などは有名なのですけれども、そう言った組織や団体に所属する方々から恨みを買ってしまった覚えもありませんものね?」

 そう言ったグエン・チ・ホアが小首を傾げる一方で、僕は不意に、口うるさい筈の淑華がさっきから一言も発言していない事にふと気付く。

「どうした淑華、お前も黙ってないで、何か言えよな」

 そこで僕は肘を曲げ、僕の隣に座る淑華の無防備な二の腕の辺りを、そう言ってちょんちょんと小突いた。すると彼女は「ん? 何?」と言いながらこちらを振り向きはしたものの、その顔は真っ赤に紅潮し、とろんとした虚ろな表情を浮かべる眼は焦点が合っていない。

「おい淑華、お前まさか、ひょっとして酔ってるのか?」

「ん? 酔ってる? あたしが? 何言ってんのよ、万丈ったら! このあたしが酔ってる訳ないじゃないの! ばきゃにひないでひょね!」

 酩酊状態にある事を指摘された淑華はそう言って、自分が酔ってしまっている事をはっきりと否定してはみたものの、その否定の言葉の最後の方は呂律ろれつが回っていなかった。

「あらあら? 淑華ちゃんったらシードルをお飲みになられただけでもって酩酊してしまわれるだなんて、どうやら未来の栄えある酒豪候補どころか、下戸げこの方だったのではないかしら?」

 底無しの酒豪でもあるグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言って、すっかり酔っ払ってしまった様子の淑華の言動を面白がっているかのようにも見受けられたが、彼女の幼馴染である僕としてはそうそう笑ってもいられない。

「ストップ、ストップ! 淑華、お前はもう、それ以上飲むな!」

 僕はそう言って彼女の手からグラスを奪い取ろうと試みるものの、そんな僕の善意から来る行為にも、淑華は抵抗する。

「は? 何よ万丈! あたしが何を飲んだって、あたしの勝手でしょ! 邪魔しないでよね!」

 すっかり出来上がってしまっている淑華は酩酊状態のままそう言って、僕が奪い取ろうとしたグラスを強引に奪い返すと、そのグラスの底に残っていたシードルの最後の一口をぐっと一息でもって飲み干してしまった。そして普段の彼女の言動からは想像もつかないような、胃袋の底から湧き上がって来たかのような豪快なげっぷを漏らしてから、ようやく自分がグラスの中身を飲み干してしまった事に気付くと言った始末である。

「あれ? もう無くなっちゃったの? それじゃああたし、ちょっと、お代わり貰って来るから」

 グラスの中身を飲み干してしまった淑華はそう言って席を立ち、シードルのお代わりを注文すべく、髭もじゃの店主が待つカウンターの方角へと足を向けた。しかしながら酩酊状態にある彼女の足取りはふらふらしていて覚束無く、まるで奇妙なダンスの練習でもしているかのような有様で、ちょっとでも小突いたら今にもすっ転んでしまいそうな様子である。

「おい淑華、お前、大丈夫か? 足元がふらふらしてるぞ?」

 そしてそう言った僕が彼女を介助すべく腰を上げるのとほぼ同時に、自らの右の足首と左の足首をもつれさせた淑華は体勢を崩してしまって、最早真っ直ぐ立っている事が不可能となった。

「淑華!」

 しかしながら体勢を崩してしまった淑華が昏倒し掛けた次の瞬間、そう言った僕より早く席を立ったグエン・チ・ホアがあっと言う間に彼女の元へと駆け寄って手を伸ばし、今まさに昏倒せんとする淑華の身体が硬い板敷きの床に叩きつけられる寸前でもって、これをしっかりと支えてみせたのである。

「あらあら、危ないところでしてよ? まったくもう、淑華ちゃんったら人生初の飲酒体験でもってこんなに酩酊されてしまわれるだなんて、先が思いやられるとはこの事なのではないかしら?」

 咄嗟に彼女の命を救ってみせたグエン・チ・ホアはそう言って呆れ果て、僕もまた「おい淑華! お前、さっきから何やってんだ!」と言って若干声を荒らげながら、ある種の怒りにも似た義憤に駆られざるを得ない。とは言えそんな僕ら二人の心配や怒りを知ってか知らずか、当の淑華はと言えば、グエン・チ・ホアの腕の中で抱き抱えられたまますうすうと寝息を立てていた。

「あらあら? 未だもうちょっとだけお酒を楽しませていただきたかったと言うのに、淑華ちゃんがこのような状態になってしまわれたからには、一刻も早く今宵のお宿を探さなければならないようね?」

 溜息交じりにそう言ったグエン・チ・ホアの左右の腕の中で、すっかり酔い潰れて寝てしまった淑華はすうすうと小さな寝息を立てながら、心地が良さそうな酔臥すいがの夢を見続ける。

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