第一幕


 第一幕



 そして今日もまた国立南天大学付属高等学校に通う僕らは午前と午後の退屈な授業を耐え忍び、やがて待ちに待った放課後直前の、最後の難所とも言うべきLHR《ロングホームルーム》の時間を迎えた。

「今更言うまでもない事だが、明日からここフォルモサに暮らすほぼ全ての市民達は、旧正月の連休を享受する身となる。勿論この学校の生徒である諸君らも、その連休を享受する身の例外ではない。各地に離散していた親類縁者が一堂に会し、ご馳走を食べたりお年玉を貰ったりする旧正月は、きっと喜びに満ち溢れた良い思い出の一つになるだろう。しかしながら諸君らは、自らが一年後に受験を控えた特別な存在である事を、決して忘れてはならない。常日頃から己を律して誘惑に負ける事無く、周囲の人々が遊び惚けているからと言って気を抜かず、この連休中も一年後の大願成就のための努力を惜しまずに充実した毎日を過ごしてほしい。いいね?」

 教壇の上からそう言った担任のチェン教諭の言葉通り、ここフォルモサの街とそこに住む市民達は、明日からおよそ二週間の旧正月の連休を迎える事となる。

「とは言え、後先考えずに気を張り詰めているばかりでは、却って心身の健康を損なってしまう事は火を見るよりも明らかだ。だからせっかくの旧正月の連休は受験戦争も一時休戦のつもりで、思いっ切り羽を伸ばしてみるのもいいだろう。それでは諸君、何だかんだ言いながらも連休明けも諸君らの元気な姿を拝める事を、心から楽しみにしている! 以上、解散!」

 最後に壇上からそう言って、担任の陳教諭は退屈なLHR《ロングホームルーム》を締め括り、晴れて放課後を迎えた僕らは帰宅の途に就く事が許された。それにしても陳教諭は毎回毎回受験が差し迫っているから気を引き締めろと言っておきながら、その直後に前言を撤回し、最終的には僕らとの再会を楽しみにしていると言った論調を繰り返すばかりの困った担任である。

「万丈ったら! あんた、ちょっと待ちなさいよ!」

 すると数多の生徒達でごった返す二年D組の教室の一角で、陳教諭による解散の合図と同時に席を立った僕を背後から呼び止めるかのような格好でもって、一人の女生徒がそう言って僕の名前を口にした。勿論その女生徒が誰かと言えば、おでこが無駄に広くてセルフレームの眼鏡を掛けた制服姿の女子高生、つまり僕の同級生であると同時に幼馴染でもある王淑華ワン・シュファその人に他ならない。

「何だよ淑華、僕に何か、用でもあるのかよ」

 呼び止められた僕がそう言えば、淑華はまた無意味にぷりぷりと怒りながら、僕を問い質す。

「用も何も、どうせあんたの事だから、今日もまたあの胡散臭いベトコン女の胡散臭いお店に行くつもりなんでしょ? あたしには、全部お見通しなんですからね!」

「だったら何だってんだよ、放課後に僕がどこで何してようが、僕の勝手だろ?」

「何が「僕の勝手」よ! 連休が楽しみで浮かれてるのか何なのか知らないけれど、最近またあんたの帰りがずっと遅いもんだから、ちゃんと真っ直ぐ家まで送り届けるようにって、あたしがあんたのおば様から頼まれてるんですからね!」

 やはりぷりぷりと怒りを露にしながらそう言った淑華の言葉から察するに、どうやら彼女はまたしても、僕の母から僕のお目付け役の責務を負わされてしまっているらしい。

「じゃあ何だよ淑華、お前、僕がホアさんの店に行くのを力尽くで阻止するつもりとか言うんじゃないだろうな?」

「いいえ、さすがにそれは女のあたしの力では無理だから、遠慮しておいてあげる。その代わりと言っちゃ何だけど、これから毎日放課後のあんたの行動はあたしが付きっ切りで監視していてあげるから、覚悟なさい!」

「おいおい、マジかよ……」

 淑華による行動監視宣言を耳にした僕は溜息交じりにそう言って言葉を失い、がっくりと肩を落としたままかぶりを振って、この上無く落胆せざるを得なかった。そしてそんな僕とは対照的に、無駄に広いおでこを光らせた淑華はふんと鼻を鳴らしながら、まるで勝ち誇ったかのように堂々と胸を張る。

「さあ、それじゃあ行きましょ! もっとも、あんたがどこに行ったところで、このあたしがずっと監視していてあげるんだからね!」

 やはりふんと鼻を鳴らしながらそう言った淑華の言葉は、ホアさんと二人切りの放課後を満喫しようと目論んでいた僕にとっては、ある種の死刑宣告に等しい。

「……はあ……」

 僕はがっくりと肩を落として落胆したまま自分の学生鞄を担ぐと、再びそう言って溜息を吐きながら、二年D組の教室から退出した。教室から出て行く僕の背後には、僕の監視役を仰せ付かった淑華が足並みを揃えつつ、ぴったりと付いて来る。そして数多の生徒達で賑わう新校舎の廊下をとぼとぼとした力無い足取りでもって渡り抜け、下駄箱で外履きに履き替えてから昇降口の扉を潜れば、冷たい小雨が降りしきる戸外の空気が僕らを待ち受けていた。

「……なあ、淑華? お前、まさか本当に僕を監視するつもりなのか?」

「当ったり前じゃない! あたしが監視しておいてあげなかったら、一体どこの誰が、あんたの素行不良を咎めて更生させてあげるって言うのよ! そんな事も理解出来ないだなんて、あんた、本当に馬っ鹿じゃないの!」

 僕の問い掛けに対してそう言って返答した淑華は、どうやら放課後の僕の行動の全てを監視するために、このままどこまでも僕の背後にぴったりと付いてくるつもりらしい。そしてそんな彼女の言動にうんざりしながらも、昇降口の扉を潜った僕は傘を差し、国立南天大学付属高等学校の正門の向こうの繁華街の方角へと足を向ける。

「……はあ……」

 そう言って何度も繰り返し溜息を吐きながら、やはり僕はとぼとぼとした力無い足取りでもって、フォルモサの街の中心部でもある夜市を通り抜けた。そして背後に淑華を従えたまま夜市と並行して走る幾本かの裏通りの内の一つ、つまり俗に『骨董街』と呼称される通りに足を踏み入れると、やがて古風な意匠による装飾が施された雑居ビルの一つの軒先で足を止める。

「万丈ったら、やっぱりこの胡散臭いお店で、あの胡散臭いベトコン女と密会するつもりだったんじゃない! 言っときますけど、あんたがこんな胡散臭いお店に頻繁に出入りしてるって事も、あんたのおば様に報告させてもらいますからね! 覚悟なさい!」

 如何にも底意地が悪そうな表情と口調でもってそう言った淑華には眼も呉れず、僕は雑居ビルに足を踏み入れると、狭くて暗くて傾斜が急な階段を硬い木材で出来た手摺を撫でながら駆け上がった。すると階段を駆け上がった先には『Hoa's Library』と言う店名が掲げられた一枚の扉が姿を現し、階段の手摺と同じく硬い木材で出来たその扉にはレトロな歪みガラスがめ込まれ、室内から漏れ出て来る光の温かさがガラス越しに感じ取れる。

「……こんにちは……」

 僕は鈍い黄金色に輝く真鍮製のノブを回して扉を開けると、そう言って力無い挨拶の言葉を口にしながら、この雑居ビルの二階にテナントとして入居する『Hoa's Library』の店内へと足を踏み入れた。扉を潜ると同時に、甘く爽やかな白檀の香りが鼻腔粘膜をくすぐって、どこか遠い異国の様なエキゾチックな空気に包まれる。

「あら、いらっしゃい? 万丈くんに、それに淑華ちゃんも、今日もまたうちのお店まで遊びに来てくださったのね?」

 どこまでも澄み渡る春先の青空の様に一点の曇りも無い、それでいて少しばかり妖艶な香りが漂う流麗な声でもってそう言って、店内に足を踏み入れた僕と淑華を一人の成人女性が出迎えた。

「……はい、また遊びに来ました……」

 やはり僕が力無い表情と口調でもってそう言うと、そんな僕ら二人を出迎えてくれた一人の成人女性、つまり古い本や家具などのアンティーク雑貨を取り扱うこの店を経営するグエン・チ・ホアは、気遣わしげに問い掛ける。

「あらあら、万丈くんったら、一体どうされたのかしら? 今日はまたいつになく気落ちされていらっしゃるとでも言いましょうか、とにかく随分と元気が無さそうに見受けられましてよ?」

「……ええ、まあ、その、何と言いますか……今日はここに居る、空気の読めないお邪魔虫が一匹、僕の後ろに付いて来ちゃいましたから」

 僕はそう言いながら、僕に遅れて入店した淑華の顔を指差した。

「ちょっと万丈、誰が空気の読めないお邪魔虫ですって? それにそこの胡散臭いベトコン女も、相変わらずそんな胡散臭い格好でこんなカビキノコが生えてそうな古臭い商品を並べた胡散臭いお店に陣取っちゃって、少しはお天道様に顔向け出来るまともな商売をしなさいよね!」

 するとお邪魔虫呼ばわりされた事が気に障ったらしい淑華はぷりぷりと怒りを露にしながらそう言って、僕が敬愛して止まないグエン・チ・ホアに対して散々な言い様である。

「おい淑華、何だその言い方は! 年長者であるホアさんに対して失礼じゃないか!」

「はあ? 何が失礼よ、胡散臭い格好のこの女とそのお店を胡散臭いって言って、何が悪いってのよ! 単に事実じゃない!」

「だから、その言い方が失礼だって言ってんだろ! ホアさんに謝れよ、このデコ女!」

「何よ! 誰がこんな女なんかに謝るもんですか、この年増好きの熟女マニア!」

 僕と淑華の二人は額と額を突き合わせながらそう言って口汚く罵り合い、互いに一歩も譲らぬまま、まるで延々と続く押し問答の様に謝る謝らないの口論を繰り広げた。するとそんな僕らの姿が余程滑稽だったのか、ベトナムの民族衣装である純白のアオザイに身を包み、左眼に眼帯を当てたグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑む。

「あらあら、万丈くんも淑華ちゃんも、お二人とも随分と仲がよろしいのね?」

「別に仲が良くなんてありません!」

「そうよ、誰がこんな年増好きの熟女マニアと仲が良いもんですか!」

 僕と淑華は若干声を荒らげながらそう言って、僕らの仲が良いと言うグエン・チ・ホアの言葉を真っ向から否定するものの、彼女はこれに納得しない。

「あら、そうですの? けれどもあたしにはあなた方お二人が、まるで阿吽の呼吸でもってお互いの考えている事を理解し合えるような、そんな永年連れ添った熟年夫婦の様な関係にも見受けられましてよ?」

 やはりくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、語尾が上擦って常に疑問形になってしまう一風変わった口調でもって、グエン・チ・ホアはそう言った。

「ば、ばばば、馬鹿な事言わないでよ、この胡散臭い年増のベトコン女! 言うに事欠いて、よりにもよってあたしと万丈が永年連れ添った熟年夫婦だなんて、そんな馬鹿げた言い方はたとえそれが比喩表現だったとしても許さないんですからね!」

 僕との仲を熟年夫婦に例えられてしまった淑華は怒気を孕んだ表情と口調でもってそう言って、今にも頭頂部から湯気が噴き出しそうなほど顔面を真っ赤に紅潮させながら、酷くお冠な様子である。

「あら、そうなの? 変ねえ、あたしったらこう見えましても、人と人との関係性を見極めるだけの眼識は持ち合わせている筈なのですけれどもね?」

 ぷりぷりと怒りを露にするばかりの淑華とは対照的に、やはりグエン・チ・ホアはそう言って、くすくすと愉快そうにほくそ笑んだ。そして一頻ひとしきりほくそ笑み終えた彼女は腰まで伸びた長く艶やかな黒髪をなびかせながら、僕ら二人を店の奥へといざなう。

「ところで万丈くんも淑華ちゃんも、こんな所で立ち話も何ですから、奥のカフェテリアへと移動されては如何かしら? いくらフォルモサが一年を通して気候が温暖な土地とは言え、今は二月の中旬、つまり真冬でしょう? そんな真冬の戸外を歩いて来られたならお身体も冷えてらっしゃる事でしょうし、今すぐ温かくて美味しいお茶を淹れて、お茶菓子と一緒に持って行って差し上げますからね?」

「はい、ありがとうございます! いただきます!」

 僕は一も二も無くそう言って、グエン・チ・ホアの厚意に甘えさせてもらう事を宣言すると、甘く爽やかな白檀の香りが漂う『Hoa's Library』の店内に併設されたカフェテリアの方角へと足を向けた。すると僕のすぐ背後に淑華もまた付き従い、何やらぶつぶつと呪詛の言葉を呟いている彼女と共に、僕ら二人はカフェテリアの革張りのスツールに並んで腰を下ろす。

「お待ちどうさま、どうぞ、召し上がれ? 頂き物の微熱山丘サニーヒルズの紅玉紅茶とパイナップルケーキですけれども、お口に合うかしら?」

「はい、いただきます!」

 僕はそう言って感謝の言葉を口にしながら、そして淑華は無言のまま、グエン・チ・ホアが差し出した紅茶とパイナップルケーキを口に運んだ。フォルモサでもその名が知られる微熱山丘サニーヒルズの紅玉紅茶とパイナップルケーキはどちらも掛け値無しに美味しくて、特に温かい淹れ立ての紅玉紅茶は、冷え切った身体を胃の中から温め直してくれる。

「如何かしら、お得意様から頂いたばかりのお茶とお茶菓子のお味は? 普段お出ししているベトナムの蓮花茶とお茶菓子よりも、こう言った紅茶と洋菓子の方が、あなた方の様な若い子達に喜んでもらえると思ったものですからね?」

「はい、凄く美味しいです!」

「悔しいけど、美味しいんじゃない? まあ、美味しいのは微熱山丘サニーヒルズのパイナップルケーキであって、あんたとあんたのお店の手柄じゃないんだからね!」

 天邪鬼な淑華もまたそう言って認めざるを得ないほど、グエン・チ・ホアが差し出した微熱山丘サニーヒルズの紅玉紅茶とパイナップルケーキは美味しかった。そしてそんな淑華の様子をうかがいながら、ちょっとだけ皮肉交じりに「そう言っていただけると、ご馳走した甲斐があったと言うものね?」と言って、やはりカウンターの内側に立つグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑む。

「♪」

 すると次の瞬間、カフェテリアのカウンターの片隅に置かれていた古く大きな真空管ラジオのスピーカーから、かつて一世を風靡した一昔前の流行歌の歌声が雨音に乗って流れ始めた。その流行歌が内包するメロウで穏やかな曲調が、古今東西のアンティーク雑貨が所狭しと陳列された『Hoa's Library』の店内にしっとりと鳴り響き、そこに居る僕ら三人は自然とまったりとしたムードにならざるを得ない。そしてそんなラジオのスピーカーから流れて来る歌声に調子リズム音階トーンを合わせながら、つい今しがたまで僕らと談笑していた筈のグエン・チ・ホアもまた、大人の女性ならではの魅惑的なハスキーボイスでもって歌い始める。

「♪」

 それはこの上無く美しい、いや、もはや神々しいと表現してしまっても構わない程の見事な歌声であった。低音域の女性の声は得てして魅惑的かつ蠱惑的ではあるものの、グエン・チ・ホアのそれは圧倒的な歌唱力でもって僕の心を掴んで離さず、真空管ラジオのスピーカーから流れて来るプロの女性歌手の歌声が霞んで聞こえてしまう程である。

「凄い! ホアさん、素晴らしい歌声です!」

 グエン・チ・ホアが古い流行歌を最後まで歌い終えるのとほぼ同時に、僕は精一杯の拍手と共にそう言って、彼女の歌唱力を手放しで褒め称えた。

「あら、そうかしら? そう言っていただけると嬉しいのですけれども、あたしったらついつい調子に乗ってしまって、年甲斐も無く人前で歌ってしまいましてよ?」

「そんな事ありませんよ、ホアさんの歌声だったら、僕、いつだって聞きたいくらいですから!」

 僕がそう言って彼女を褒め称え、褒め称えられたグエン・チ・ホアがちょっとだけ気恥ずかしそうにほくそ笑む一方で、僕の隣に座る淑華だけは苦虫を嚙み潰したかのような表情のまま僕ら二人を睨み据えていた。

「まったくもう、あたしったらほんのちょっとくらい良い事があったからって、浮かれ過ぎね? 自分がいい歳したおばさんである事もわきまえずに、こんな若い子達の前で恥ずかしげも無く歌い出してしまうだなんて、身の程知らずにも程があるのではないかしら?」

 そう言って謙遜しつつも反省しきりのグエン・チ・ホアに向かって、僕は問い掛ける。

「へえ、ホアさん、何か良い事があったんですか?」

 僕がそう言って問い掛ければ、グエン・チ・ホアは待ってましたとばかりに「ええ、そうなのよ? 万丈くんも淑華ちゃんも、すぐに戻って参りますから、ちょっとだけここで待っていてくださるかしら?」と言い残してから、店の奥の関係者以外立ち入り禁止のスペースへと引っ込んで行ってしまった。そしてカフェテリアの革張りのスツールに腰掛けたまま待つこと数分後、興奮しきりのグエン・チ・ホアが、何か小さな箱の様な物を手にしながら戻って来るなり僕らに語り掛ける。

「これが今日の午前中にインドから入荷したばかりの、旧正月の連休の目玉商品の一つでしてよ?」

 満面の笑みと共にそう言ったグエン・チ・ホアが手にしていたのは、ちょうど日本酒の二合瓶がすっぽり納まるくらいの大きさの、小さな木箱であった。そしてカフェテリアのカウンターから身を乗り出した僕と淑華の二人の視線を一身に浴びながら、彼女はその木箱の蓋をゆっくりと開け始める。

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グエン・チ・ホアの素敵な商売-The 2nd guest- 大竹久和 @hisakaz

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