追い出し部屋

増田朋美

追い出し部屋

その日、蘭の家に一人の女性がやってきた。もちろん蘭であるから刺青を入れに来た女性なのだろうが、ちょっと様子がおかしいのだ。なんでも、白い子猫のキャラクターを入れてくれという。蘭は、驚いてしまって、何で自分の体に子供向けのアニメのキャラクターを入れなければならないかと彼女に聞いてみたところ、

「実は、実は私、、、。」

と言って、わあっと泣き出してしまったのであった。これではとても刺青をいれるための話し合いはできそうにない。蘭はしばらく泣き止むまで待ってあげようと思ったのであるが、女性は一向に泣き止もうとしない。蘭はこれはなんとかしなければと思い、

「古村さん!」

と強く言ってしまった。古村さんと言われた女性は、

「ごめんなさい!」

と涙を拭くのを忘れてしまったように言った。蘭は、車椅子を動かして、洗面所へ行ってタオルを取ってきて、彼女にそれを渡した。

「すみません。こんなに泣いたのに、先生はタオルを貸してくださるんですね。みんな泣き止まなければだめだって私を叱責するだけなのにね。」

古村さんはタオルで顔を拭きながら言った。

「いやあ、その、そういうことじゃないんです。それより、なぜそれほど泣いてしまうのか理由を話してもらえないでしょうか?」

蘭がそう言うと、

「刺青師さんって優しいのね。もっと職人気質の怖い人なのかなと思ってたけど、違うみたい。」

と、古村さんは言うのである。

「だって、刺青というのはですね、一生取れるものではないのですから、生半可な気持ちで入れないでほしいんですよ。それに白い子猫のキャラクターをいれるなんてちょっと、刺青にしては軽薄すぎませんか?大体の人は、縁起の良い吉祥文様とか、あるいは歴史上の人物にあやかった、有識文様とかを入れるのですが?」

蘭は、刺青師らしくそういうことを言った。

「そうですか。私なりに真剣に悩んでキャラクターをと思ったんですが、先生もやはり軽薄だっておっしゃるんですね。あたし、やっぱりいけないことを考えてしまったんですね。」

古村優子さんは、またそう言うのでこれではどこへ行っても堂々巡りになってしまうなと思った蘭は、視点を変えてこう聞いてみた。

「それでは、古村さん。その悩んでいることを、話してみてください。まずそれが解決しない限り、前に進まないと思うので。」

「はい。先生。先生ならそういう事情がある人を相手にすることもあったと思いますので、単刀直入にいいますね。あたし、息子を、殺してしまいそうになったんです。」

今度は蘭が驚く番だった。

「息子さん。それはどういうことですかね。」

「はい。今小学校の一年生なんですが、とにかく小学校へ上がってから、頻繁に熱を出して倒れることが多くて、よく学校から職場に連絡がかかってくるんです。それがあまりにも多いので、学校が終わって学童保育に預けることもできないし。主人はどっかのサッカーチームでも入れば大丈夫だって言うけど、それも入れないんですよ。だから私がずっと側についていなくちゃならなくて。だから頭にきて眠っている息子の顔にタオルを当ててしまいそうになってしまいまして。」

古村優子さんはこれまでの経緯を一気に語った。

「そうですか。わかりましたといえば、そこまでですけど、それでは息子さんのことばかりでご自身のことはほとんど構えないというわけですね。それは大変だと思います。」

蘭はそう彼女に言った。

「それで、息子さんを手に掛けそうになって、その後どうしたんですか?」

「タオルを当てようとしたとき、主人が帰ってきたので、それはやめましたが、でも、そんなことを二度と繰り返してはならないと思いまして、息子が好きな猫のキャラクターをと思って今日やってきたのです。誰かに相談しても、私が悪いばかりになってしまうから誰にも相談ができないので。明らかに私が悪いのですから、二度とそういうことを思いつかないように、刺青を入れておきたいと思ったのです。」

「はあなるほど。わかりました。でもですね。アニメのキャラクターを、体にいれるということは、著作権の問題もありますので、簡単にはできないと思います。なので、母性愛の象徴と言えるあじさいの花などを彫って差し上げることはできますが、いかがでしょう?」

蘭は、そういったのであるが、

「何であじさいが、母性愛の象徴なんでしょうか?」

と古村優子さんはそういうのであった。最近の若い女性は、日本の伝統文化というものを知らなすぎるのである。

「ええ、雨に濡れても花を咲かせるから、雨の中という過酷な状況でも花を咲かせるということで母性愛の象徴ということになるんです。それは昔から言われています。いかがでしょう。いくつか下絵を描いて差し上げますので、どこに入れたいかおっしゃっていただけますか?」

蘭はできるだけ優しく言った。

「あたしが、悪いからいけないってこともわかってます。子どもがうっとおしいなんて母親失格だというのもわかってます。だけど、そうおもってしまったことは事実なので、それを二度と起こさないようにしたいんです。先生お願いします。」

古村さんはまるで蘭の話を聞かないような感じでそういうのであった。

「わかりました。まずは落ち着いて話をしてくれる状態になったら、もう一度来てください。こちらといたしましても、刺青というものは、体にいれるものですから、一度彫ったら二度と消すことはできません。だからそういう興奮状態で容易く決めてほしくないんです。」

蘭は、そういう古村優子さんをなだめるように言った。

「そうですか。彫師の先生も私の話を聞いてくださらないんですね。」

古村さんはそういうのである。

「聞いてくださらないって、そんなことありません。ただ刺青師として、必要なことを言っているんです。」

蘭はそういったのであるが、

「先生もやっぱり私のことを聞いてくださらないんだ。やはり私が悪いんだって思ってるんでしょ。そうですよね。確かに私は、いけないことをしてしまいました。だから、なんとか二度と繰り返さないようにしたいけど、それはやはり許されないことだったんですね。」

と古村さんは、涙をこぼして言うのであった。それと同時に古村さんのスマートフォンがなる。

「はいもしもし古村です。え?またですか?そうですか。わかりました。近い内に慎太郎を中央病院まで連れていきます。」

ということは、学校からの電話だろう。息子さんの慎太郎くんが、また体調を崩したので、迎えに来てほしいという要請だとすぐわかった。本当は、古村優子さんが、話を聞いてくれる存在がいれば、また変わってくると思うのだが、それができないままで、人間社会は進展してしまうのである。それだから、人間が成長していく間に、いろんなわだかまりや悩みが発生してしまうのである。

「先生。また息子が熱をだしてしまったので、家へ帰ります。先生、あたしのこと見捨てないでくださいね。また落ち着いたら必ず先生のところに来ますから。そのときはよろしくお願いします。」

古村さんは、スマートフォンを鞄の中にしまい、蘭に一つ敬礼して、蘭の家を出ていった。蘭は、もう少し彼女に寄り添って上げればよかったのかなと思った。そうしてあげれば、彼女ももう少し落ち着いて生活ができるのではないかと思われるのだ。

一方、製鉄所では。

「本当にすみません。私、今日限りでやめさせていただきます!」

と、箒をしまいながら、女中として雇われていた、佐野妙子という女性が言った。

「はあ、それはどういうことですかね。」

ジョチさんがそう言うと、

「だって、この仕事、今の基準で言うのであれば、オーバワークになると思うのですが!」

と、佐野妙子さんは言った。

「オーバーワークって何がオーバワークだよ。普通に介護というかお手伝いをしてくれって言ってるだけだと思うけど。試しに、お前さんが今日何をしたか、思い出せる限り言ってみな!」

杉ちゃんがそう言うと、

「だってあたしは今日ここへ来て、まず、水穂さんの食事をさせて、その後で憚りに付き合ってと言われ、そして、次に縁側の掃除、そして昼職、その後は中庭の掃除をして。もうこんな仕事うんざりだわ!」

と、佐野妙子さんは言った。

「そうだね。でも、それは一般的な家政婦さんであれば、十分な仕事量だと思うんだがなあ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「十分って、だっていくら働いても、水穂さんは何も言わないじゃないですか。食べ物を食べさせれば、咳き込んで吐いてしまって、また畳の張り替え代がどうのとかで騒ぎになる。そればっかり続くからもう嫌なんですこんな仕事!」

と、佐野妙子さんは言うのであった。

「でも、お前さんが、この仕事に応募してくれたんだろう?できそうだなと思って来てくれたんじゃないの?」

杉ちゃんがでかい声でいうと、

「それとこれとは話が違います。だいたいね、簡単な家政婦業って求人サイトには描いてありましたけど、こんなに、不自由な仕事であるとは思いませんでした。そういうことがあるんだったら、ちゃんと、書くべきではないんじゃないですか!」

と、佐野妙子さんは言うのであった。

「そうですか。最近の若い人は権利を主張したがりますからね。」

ジョチさんがそう言うと、

「でも僕らとしては、もうちょっと、女中さんがいてくれないと困るんだよ。水穂さんは一人では何もできないし、その手伝いをしてくれる女中さんがいてほしいって言うことはあるんだよな。」

と、杉ちゃんはそういった。

「でも、人材はいくらでもいます。そういうことなら、他の人をあたってください。あたしは、ご飯を食べさせるたびに咳き込んで吐き出されて、次はそうならないように努力しようともしない人の世話をするのはもうごめんです。」

妙子さんはそういうのであった。

「そうかあ。それも、体の悪いせいでそうなっちまうんだがな。それも、当てはまらないやつが多いってことだねえ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「だいたいね。この建物にしろ、先程の水穂さんにしろ、なんだか江戸時代にタイムスリップしたみたいじゃないですか。水穂さんは、洋服は一枚も持ってないと言うし、それに、今であれば、ちゃんと、治療できるような病気なのに、身分が低いから無理だって。」

妙子さんがそう言うので、ジョチさんは、ちょっとため息を付いた。

「まあ、仕方ありませんね。同和問題のことは理解できるかと言うのは、難しいですからね。そうなったら仕方ありません。」

「でもジョチさん、水穂さんの世話はこれから誰がするのさ?」

杉ちゃんがそう言うと、

「世話なんて、いくらでも介護従事者はいますから、そっから探してくればいいでしょう。介護の仕事なんて腐る程いますよ。だからそれでなんとかしてあげればいいのでは!」

妙子さんはそういうのであった。

それと同時に、こんにちはと製鉄所の引き戸がガラッと開く音がする。

「はい今取り込み中なので入ってくれ。」

と、杉ちゃんが言うと、わかりましたという声がして、一人の女性が入ってきた。誰かと思ったら、先程の古村優子さんだった。

「お前さん誰だい?」

と、杉ちゃんが言うと、

「古村優子と申します。蘭先生が、ここにちょっとよって帰るようにとおっしゃってくれたので、ちょっとよってみました。」

と、古村さんは言った。

「そうか。じゃあ、お願いがある。水穂さんのご飯を食べさせる手伝いをしてくれ。こちらにいる、佐野妙子さんが今日でやめさせてくれというので、誰か水穂さんに晩ごはんを食べさせる手伝いをするやつがいてほしい!」

と、杉ちゃんがすぐに言った。女性たちはちょっと驚いた様子だったが、

「わかりました。誰か寝たきりの人でもいるんですね。」

古村優子さんはそう言ってくれた。そこで杉ちゃんはすぐ台所に車椅子で行って、器にうまそうな雑炊をたっぷり入れ、それとお匙を用意して、古村優子さんに持たせた。

「それではよろしく頼む!お前さんならなんとかおだててご飯を食べさせることもできるだろう。」

杉ちゃんに言われて古村さんは、わかりましたと言った。とりあえず器を持って、水穂さんがいる四畳半に行った。水穂さんはいつもどおりせんべい布団で寝ていたが、その顔があまりにもきれいなので、古村さんは思わずハッとしてしまうほどである。古村さんは、それを隠そうとしながら、

「あの、ご飯ができましたので、食べてくださいということです。」

と、水穂さんに声をかけた。水穂さんは、ハイと言ってよろよろと布団の上におきた。体はげっそりと痩せていて窶れてしまっていて、痛々しい風情であった。

「ほら食べろ。今日は特製の雑炊だぞ。」

杉ちゃんに言われて、水穂さんは、古村さんが差し出したお匙を受け取った。そして中身を口にいれるが、口にいれるとすぐに咳をしてしまうのであった。なんだかお匙を持っているのが、なんだかつらそうだった。姉妹には口元から赤い液体が漏れてしまう。佐野妙子さんが、あーあまたやるという顔をする。古村さんの方は大丈夫ですかという顔をするのであるが、水穂さんは咳き込んでしまって答えなかった。

「なんだか、毎回毎回こういうことをされて、本当に頭に来るんです。演技しているわけではないってわかるんですけど、でも、毎回毎回されてしまうとね。あたしは、もう嫌ですよ。」

佐野妙子さんがそういうのである。

「でも、嫌でも、しなければならないことだってありますよね。」

と、古村さんが言った。

「あたしも、息子が頻繁に熱を出して、学校から電話がかかってくるたび、何でこうなってしまうって、何度も思うことあるわ。」

古村さんの発言に、妙子さんは、意外な顔をする。

「そうなんですか。そういうこと思ってる人が他にもいるんですか。」

「ええ。あたしも、息子がいなかったらって思ったことは何度でもあった。しまいには、息子が本当にいなくなってくれればいいって思ってあたしは、タオルを息子の顔に当ててしまいそうになったこともあったわ。」

古村さんは、そういった。

「実はあたしもそうなんです。水穂さんの側についているけど、ああ今日もご飯を食べてくれないのかって思うと気が重いし、本当にこの人がいなくなってくれたらなあって思ってしまったこともあった。」

妙子さんもそう告白した。

「何だ、お互いに共通するものがあるんやね。相手は人間だし、それぞれ意思があって、ちゃんと個性もあるんだから、それを無視して自分の思い通りにすればいいかって言うと、そういうことでもないよねえ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「でもそれを他人に相談することができないっていうのも、共通していますね。確かに、介護職とか、育児のこととかしている方は、とにかく大変な仕事だし、それにお互いのぐちを言い合うこともなかなかできないといいます。それに、人間ですから、どうしても完璧に接することはできないし、時には相手に消えてほしいなんて思うこともあるでしょう。だけどそれも、いけないことだから言えないんですよね。」

ジョチさんは考えるように言った。

「昔なら、我慢できたとか、そういう理屈をこね回す人もいるが、まあここの二人は昔のやつじゃない。だから、できないで当たり前だと考えよう。なあ、時々お前さんたちここへ来てさ、互いのぐちを漏らすようにしたらどうだ?もし、水穂さんや息子さんに消えてほしいと思う気持ちになっても、お互い様だから話ができるだろ。それに、本当は言ってはいけないことであることもお前さんたちは知っている。そうなればそうだねそうだねって励まし合うこともできるよね。」

すぐにそれに加えるように杉ちゃんが言う。確かにその通りなのだった。もし、消えてほしいと思っても、それはいけないことだからというセリフで片付けられてしまっては、本人もたまらないだろう。確かに昔なら我慢できたことはできた。でも今は違う。それも考えなければならないことである。

「そうねえ。あたしも、あなたと話してたら、ちょっと楽になれたかも。なんかおんなじ思いをしている人は二度といないように見えたから。それなら、頑張って水穂産の世話を続けようと言うこともできるかなあ。」

と妙子さんが、優子さんをみてそういったのであった。

「あたしも、息子がいて、思い通りにならなくても、誰かと話せる人がいたら、ちょっと違ってくるかもしれない。」

優子さんも妙子さんを見てそういうのであった。

「よし!二人は今から親友だ。良かったねえ。」

杉ちゃんが、外国の要人が歴史的な握手をするときみたいに、二人の背中に手をかけた。優子さんと妙子さんはよろしくお願いしますと言ってしっかり握手を交わした。

ちなみに水穂さんに咳の薬を飲ませるのはジョチさんがしておいてくれた。

「じゃあ、これからまた仕事に戻れるかな?もう辞めるなんて言葉は使わないでくれるかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうねえ。親友ができたことだし、ここは追い出し部屋じゃないってわかったから、もう一回やってみようかな。まあ、水穂さんはずっと変わらないでしょうけど。あたしが変わるしかないのでしょうけど。」

と、妙子さんはそう言った。

「あたしもなんだか、息子にタオルを当てなくていいように、互いのことを言い合える相手ができたから、もう一回ちゃんとやってみようかな。」

と優子さんも言った。

「まあ、いずれにしても、人生大変だけど、頑張ってくれよ。頑張れば、なんとかなることもあるからよ。苦しくても、なにか得られることもあるからさ。いくら成果が出ないからと言って、すぐに辞めないで、しばらくその場にいてくれるようにしてくれ。そのために愚痴を言う仲間を作ってだな。お互いのこと話し合えるようにしておくことが大事なんだ。」

杉ちゃんに言われて二人の女性は、にこやかにわかりましたと言った。それでやっと、これからの仕事にも精を出してくれるかなと言う表情であった。杉ちゃんもジョチさんも、やれやれという顔をして、二人のことを眺めていた。

一方、優子さんから、お礼の言葉をラインで受け取った蘭は、夕日を眺めながら大きなため息を付いた。

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