「先輩、終電逃しちゃいましたね……」と同じサークルの可愛い後輩が誘惑してきたので、全力で回避してみた。

そらどり

短編

「先輩、終電逃しちゃいましたね……」


 大学近くにある小さな居酒屋でのこと。

 スマホ画面に映る時刻に目をやった後輩の一言に、俺――清水尚人しみずなおとはピクリと緊張を走らせた。


 遡ること数時間。俺は大学でバンドサークルに所属しており、俺含めたメンバー五人で今夜行われたライブの打ち上げをする予定だった。

 しかし、他三人は急用が入ったとのことで当日キャンセル。仕方なく解散しようと思っていたのだが、「なら今日は私と二人で飲みませんか?」と後輩に誘われて今に至るのである。


 彼女のスマホ画面を見せてもらえば、確かに日付は変わっていて、時刻も最寄り駅の最終電車が出発した後。近所で一人暮らししている俺はともかく、自宅から通学している後輩は終電を逃せば帰れなくなるため、本来であれば頃合いを見計らって解散を促すべきだった。


 ただ、お開きにしようとするも、タイミング悪く追加注文されたり他の話題を出されたりして中々切り出せず、結局こんな時間になってしまった。

 五人全員で飲んでいれば、もう一人の女子メンバーに頼んで後輩を家に泊めてもらうこともできたのだが……


「……由美に連絡してなんとか泊めてもらえないのか?」


「由美先輩は無理だって言ってました。今夜彼氏さんの家に泊まることになったみたいで……」


「まあ、急用ができたって話だったもんな。となると、今からあいつらを呼び出して車で送迎を頼むのも無理か」


「三木先輩と松永先輩も予定があるって言ってましたからね。かといって、他の手段で帰ろうにも所持金が心許ないですし……先輩、私どうしたらいいですか?」


「……」


 困った顔でこちらを覗き見る後輩。目の焦点ははっきりしているのだが、酔いが回っているのか顔はほんのりと火照っていて、それが余計に彼女を色っぽく魅せていた。


 だが今、そんなことに目を奪われている余裕はない。

 何とか表向きはポーカーフェイスを装っているが、先程の不意打ちともいえる誘い文句のせいで内心動揺しっぱなしだった。


(ねえ、それどういう意味で言ってんの!? 誘ってんの!? つまり誘ってんの!?)


 家に帰れなくなったことを敢えて伝えてきて、その意味が分からないほど俺も鈍感ではない。この状況下でそのような台詞を男に告げるとなれば、直接的な言い回しでなくとも言いたいことは分かる。

 ただ、実際に面と向かって言われる日が来るとは思ってもみなかった。それも同じバンドの仲良い後輩から。俺は目の前に座る後輩―――村瀬若菜むらせわかなに完全に振り回されていた。


(まさか村瀬から夜の誘いを受ける日が来るとは……)


 村瀬とは、去年新入生だった彼女をサークルに招いた時からの付き合いだ。

 当時初心者だった彼女を先輩としてサポートすることになったのが始まりで、ギターを教えられる人が俺しかいなかった事情もあり、マンツーマンで関わることが多かった。

 

 とはいえ、彼女はちょっと教えてあげたら持ち前のセンスですぐ上達してしまい、気付けば俺以上の実力者へと成長。元々あった歌唱力と溢れる美貌も相まって、今ではギターボーカルとして当バンドのエースになってしまった。


 一方、すっかり実力を追い抜かれた俺だったが、不思議と悔しさは感じなかった。

 彼女のひたむきな努力の結果だと納得していたし、何より、初心者だった後輩の成長を間近で見られて嬉しかったから。こんな頼りない俺を慕ってくれて誇らしくさえ思っていた。


 人懐っこく、いつも素直な反応を見せてくれる村瀬。初めて出来た後輩ということもあり、俺は彼女をまるで妹のように可愛がっていたのだが……

 

(いやいや……いったん冷静になるんだ俺。相手はあの純粋無垢な村瀬だぞ? 言葉通りの意味で言っただけで、そういうつもりで誘ってきてる訳ないだろ。女子に誘われたからって浮かれ過ぎだ)


 逸る気持ちを落ち着かせようと、机上の冷や水を喉に流し込む。

 以前から村瀬は育ちの良さを感じさせるところがあり、どことなく世間知らずな部分があるから、意味をよく知らずに発言した可能性が高い。帰れなくて困っているから純粋に頼ってきたという方が辻褄は合う。てか中身子供だし、どうせ寝る場所を貸してほしいくらいの軽い意味で言っているんだろうな。


 知らずに男を誘っていたと後から分かれば村瀬が恥をかくだけだし、先輩として後輩にそんな黒歴史を作らせる訳にはいかない。

 確かに頼られるのは嬉しいし、寝床くらい提供してやりたい気持ちもあるのだが、万が一にも間違いが起きればサークルや大学での居場所を失ってしまう。いくら俺が手を出すつもりがないとはいえ、世間体を考慮すれば断じて男の部屋に泊めてはいけない。

 

 あくまでも先輩として、紳士的に。

 冷静さを取り戻した俺は、少し逡巡した後、ズボンのポケットの財布から万札をスッと差し出す。


「……なんですかこれ?」


「タクシー代。貸すからこれで帰れよ」


 ここから村瀬の最寄駅までの距離を考慮すれば十分足りるだろう。実際は深夜料金やらの問題もあるが、織り込み済みの額だから支障はない。

 そう思って差し出したのだが……返ってきたのは呆れたような溜息だった。


「先輩……冗談ですよね? まさかこの状況で美少女を一人で帰らせるつもりですか?」


「自分で美少女言うな。……いや、金なくて困ってるんだろ? だから、ほれ」


「『だから、ほれ』じゃないですよ。お金の力で解決しようとしないでください」


 ジト目のまま村瀬は万札を差し戻すと、「こほんっ」と諭すような口調で続ける。


「いいですか先輩? 私、今すごく酔っ払ってるんですよ。それはもう一人で立てないくらいベロベロです。分かりますか? ベロベロなんですよ、ベロベロ」


「そうか」


「そんな状態でタクシーに乗って帰れると思いますか? 無理ですよね。だってベロベロなんですから。運転手さんを困らせちゃうに決まってます。そもそも終電後のタクシー乗り場は行列が絶えないんです。もし私が朝まで乗れなかったら、先輩はどう責任を取ってくれるんですか?」


「じゃあホテル探すか。調べれば近くにあるだろ」


「だからそうじゃなくてぇ~っ」


 両手を小刻みに上げ下げしながら村瀬はもどかしそうな表情を露わにする。


 ベロベロと言う訳に随分口が達者だなと呆れたが、彼女が下戸でないことは既知なので今更目くじらを立てる必要はない。

 五人で飲みに行った帰りでも足取りはしっかりしているし、今も大して酔っていないことは見ればすぐに分かるのだ。てかベロベロうるせえなコイツ。もはや言いたいだけだろ。


「もうっ、なんでそこでホテルなんですか。バカですか? バカなんですか先輩は?」


「バカとは失礼な。ホテルに泊まれば帰れなくなる心配は無用だろ? 理に適った名案じゃないか。むしろこの頭の切れる先輩を敬ってくれてもいいんだぞ」


「ゾウリムシ先輩の言ってることは、女の子一人を放置して自分だけ帰るって言ってるようなものなんですよ。そんなの男性として無責任じゃないですか」


「誰が単細胞生物だ。おい、敬うどころか人間性貶してるじゃねーか」


「大体、今から探したってどこも満室に決まってます。それに今日……じゃなくて昨日は隣駅付近でイベントがあったから特に人が多いですし、やはり宿探しは現実的じゃありません」


「すごい、ナチュラルに無視しやがった」


 単細胞呼ばわりは議論の余地ありだが一旦置いとくとして、村瀬の言うことには一理ある。

 終電後に女子一人が安全に泊まれるホテルを探すのはかなり骨の折れる作業だ。深夜でも対応可能且つレディースフロアありという条件付きだと数は限られてくるし、万が一見つかったとしても立地によっては移動手段という問題が再燃する。イベントによるイレギュラーな増客も考えれば、確かに現実的ではない。


(てか、そもそも空き部屋探そうにも俺のスマホ充電切れだしな……)


 普段であればモバイルバッテリーを携帯しているのだが、今日に限って他のメンバーに借りパクされたせいでただの板切れになってしまった。それもあって終電に気付けなかったのだが……まあ、反省は後回しにしよう。


 代わりに村瀬に調べてもらうことも考えたが、態度を見れば非協力的なのは明らかだ。そうなると、満喫やネカフェ、カラオケボックスの類も選択肢から外さざるを得ないだろう。


 残るは俺の家に泊めてやるくらいか……

 確かに俺の家に泊まれば路頭に迷う恐れはなくなるし、ベロベロ(?)な状態でも安心して寝床に着ける。所持金不足の村瀬にとってメリットばかりに映るのも仕方ない。


 しかし、その選択肢は既に排除済みだ。

 そもそも村瀬は俺の家がどこにあるか知らない。大学の近くに住んでいると明かしたことはあるが、詳細はあくまでも伏せてきた。ここで俺が口を割らなければ諦めてくれるはずだ。


 絶対に俺の部屋に泊めてはならない。だから俺は、後頭部を片手で掻きながらさも鈍感なフリを続ける。


「うーん、となるといよいよ困ったな……村瀬、何かいい案あるか?」


「レ・オーパレスの二〇一号室に泊まるのはどうでしょう? 大学から徒歩七分の好立地で、日当たり良好且つ八畳ワンキッチンの快適空間なので急な宿泊にも打ってつけですよ」


「それ俺ん家じゃねーか!!」

 

 なんで知ってんだコイツ!? 立地どころか間取りまで正確なんだが!?


「なんですか急に声を上げて。ビックリしちゃうじゃないですか」


「知らないうちに自宅を特定されてたら声も上げたくなるわ! 大学の近くに住んでるとは言ったけど、住んでる場所まで教えた覚えはねーぞ!」


「ふふんっ、直接教えてもらう必要なんてありませんよ。私には他にも頼れる先輩達がいますからね」


「……あいつらの仕業か」


 宅飲み会場にされたくないから誰にも自宅の場所を教えてこなかった俺だが、過去に一度、どうしても行きたいと駄々をこねられたので仕方なく三人を招き入れたことがある。

 絶対に誰にも漏らすなと入念に釘を刺しておいたのに……裏切り者共め、簡単に口を割りやがって。


「私にだけ隠し事なんてヒドイですよ。同じバンドの仲間なのに」


「ま、まあ、それは悪かったと思ってるけど……てか、急に泊まりたいって言われても普通に困るんだが」


「いいじゃないですか一泊するくらい。先輩、ヤキモチ妬いてくれる相手いないことですし」

  

「確かにそうだが悲しくなる現実を突きつけないでくれ。……いや、お前がよくてもこっちは人を泊める準備ができてねーんだよ」


「お邪魔する以上、先輩に迷惑を掛けるようなことはしません。せめて、お風呂と洗髪類と化粧品とタオルとドライヤーと着替えと寝る時にベッドを半分貸してもらえるだけでいいので」


「十分厚かましいわ。少しは弁えろ」


 客人のくせに要求が多過ぎる件。まあ仮に泊めさせてやるとして、生活必需品くらいなら別に貸しても構わないのだが……ベッドのくだりだけは看過できない。

 同じ屋根の下で一夜を共にするだけでも危険だというのに、ベッドを共有すれば間違いなく間違いが起きてしまう。確実にゴールインしてしまうし、俺も豚箱にゴールインしてしまう。


「分かりましたよ。どうしてもって言うなら、ベッドは三分の一で我慢しますから」


「妥協するしないの問題じゃねえ。……いや、俺だってできれば泊めてやりたいって思ってるよ。でもさ、どうしても出来ない事情ってもんがあるんだよ」


「出来ない事情って何ですか。別に、先輩が部屋にいかがわしい本を隠してるからって詮索しませんよ。私、こう見えて理解ある女ですから」


「そんな理由でダメって言ってるんじゃねーよ。てか、俺が隠してる前提で話を進めるな」


 俺にモノを隠す趣味はないし、というか今時わざわざ部屋に隠す奴なんて希少種だろう。

 隠すならもっと上手くやるし、何なら俺は電子書籍派なのだが……って何言ってんだ俺は。この話はひとまず端に置こう。


「とにかく、ダメなものはダメだからな」


 それ以上の話題を遮るように、俺はそう頑なに言い切る。

 曖昧な姿勢を続けていても村瀬に付け入る隙を与えるだけだし、泊めるつもりがないなら淡い期待を持たせるべきではないだろう。時には毅然とした態度を貫く必要がある。


 村瀬には気の毒だが、先輩後輩という今の関係を守るためなのだから仕方ない。

 身を滅ぼすリスクを孕んでいる以上、安易に一時の良心に駆られてはいけない。親しき仲にも越えてはいけない一線はあるのだ。


 これが俺に出来る先輩としての振舞い。

 村瀬も、機嫌を損ねつつ何だかんだで引き下がってくれるだろうと踏んでいたのだが……


「……それって、私に異性としての魅力がないからですか?」


 返って来たのは、今にも消え入りそうな声。

 予想していなかった台詞に、虚を突かれた俺は思わず目をぱちくりさせた。


「でも、確かにそうですよね……大切にされてるんだなって感じはいつも伝わってきますけど、何となく対等に見られてない気はしてましたから。先輩からすれば私って年下ですし、異性として見てほしいって思うのはただの我儘ですよね」


「ちょ、ちょっと待ってくれ。急に何の話をして……単に帰れなくて困ってるって話じゃなかったのか?」


「先輩こそ何を言ってるんですか。私は最初から先輩を誘ってるつもりでしたよ。全然気付いてもらえませんでしたけど……」


 そう言って村瀬は目を落とす。普段からは想像できないほど気落ちした姿を目の当たりにして、俺はとんだ勘違いをしていたのではないかと思い始めていた。

 

 確かに村瀬は純粋無垢な奴だ。喜怒哀楽が分かりやすいし、回りくどい言い方をあまり好まない。自分の気持ちに正直で、人を疑うことを知らない素直な部分を見れば、彼女が両親から大切に育てられてきたのだと伝わってくる。


 その前提があったからこそ、俺は村瀬が誘い文句を知っているはずがないと結論付けていた。が、実は意味を知っているうえでの発言だとしたら……


「てっきり、意味をよく知らずに言ってるもんだと……」


「私ってそんなに世間知らずに見えます? 誘い文句ってことくらい、私でも分かりますよ……」


 肩を竦めながら恥ずかしそうに答える村瀬。その顔はもはや酔いを言い訳にできないほど赤らんでいて……ようやく頭が理解を終えると、俺は激しい後悔と自己嫌悪に襲われた。

 

 無自覚での発言なのだと思い込んでいた。ただ帰れなくて困っているから俺を頼りにしただけで、一線を越える意味合いを込めて告げた訳ではないのだと。

 でも、実際は全て自覚したうえでの発言で、彼女は彼女なりに覚悟を決めて俺を誘っていたということになる。


 本当に健気な後輩だと思う。

 それなのに俺は、彼女の覚悟に気付くことができなかった。


 何が紳士的だ。何が鈍感なフリだ。本当に鈍感を晒してしまっていたら、ただの大バカ野郎じゃないか。


「ねえ先輩、私はちゃんと打ち明けましたよ。今度は先輩の番です。本当はどう思ってるのか、私に教えてくれませんか?」


「……」


 優しく問い掛けてくる村瀬の瞳。その奥には期待の中に僅かな不安が入り混ざっていて、内実では俺の答えを恐れているのだと伝わってくる。

 それでも、勇気を出して今の関係を変えようとする姿は俺には眩しくて、自身の不甲斐なさを責めるように唇を噛んだ。


 先輩後輩とか世間体とか、体裁を気にしていたが結局それらは建前でしかない。本当は村瀬に嫌われるのが怖いから、都合の良い言い訳を見つけて逃げ続けていただけだ。

 この気持ちを明かして拒絶されてしまえば、今の関係は二度と帰ってこない。先輩として慕われていられる今が心地良くて、積み上げてきた彼女との時間が崩れてしまうのが堪らなく怖かった。


 ……実を言えば、村瀬からの好意には薄々ながら感付いていた。俺といる時の彼女は他のメンバーといる時よりも上機嫌で、懐かれているにしては距離が近い気がしていたから。

 でも確証はなかったし、もし勘違いだったらと思うと恥ずかしくて一歩踏み出せなかった。だから俺は、それらしい言い訳を見つけては目を逸らし続けてきた。


 でも結局、その考え方は臆病者のすることで、前へ進もうとする村瀬の気持ちに背を向ける行為でしかない。彼女の真っ直ぐな好意に、俺は向き合うことを恐れていた。


(後輩に先に言わせるなんて情けねえ……)


 我ながら頼りない先輩だと思うが、男としてこれ以上無様な姿は見せたくない。

 だから俺は、ずっと逸らしてきた視線を交わらせ、意を決して本心を打ち明ける。


「……うん、俺も好きだよ、村瀬のこと」


「っ! ほ、本当ですか?」


「本当だって。てか、この状況で嘘なんかつけるかよ」


「す、すみません。まさか本当に先輩から好きって言ってもらえる日が来るとは思ってませんでしたから……」


 隠してきた本音を口にした途端、全身がブワっと熱くなる。

 服の下の皮膚がしっとりと汗ばんでいて、でも震える指先は冷たくて、まるで自分が自分じゃないみたいな感覚だ。


 これが勇気を出すということなのか。先陣切ってやってのけた村瀬の凄さを改めて思い知った。


「……悪いな、こんな頼りない先輩で」


「頼りないなんて思ってません。初心者だった私に優しくギターを教えてくれたのは先輩じゃないですか。それに……私、高校生の時に行った学祭での先輩の演奏姿に惹かれてこのサークルに入ったんですから。先輩は私の憧れなんです」

 

「そう、だったのか……」


 以前、複数あるバンド系サークルから何故ウチを選んだのかと何気なく聞いたことがあった。ウチは規模も人気も他所に劣るし、内輪で活動する非公認団体を敢えて選ぶ理由が分からなかった。

 その時は「乙女の秘密ですよ」とはぐらかされてしまったが……つまりはそういうことらしい。

 

(ったく、本当にこの後輩は……)


 なんて一途な奴だろうか。愛おしくて、思わずニヤケてしまいそうになる。


 どうしてずっと逃げていたのかと悔やんだが、想いが成就した今となっては些細な悩みだろう。

 先輩としてではなく異性として好かれていたのだと分かって、それがどうしようもなく嬉しくて、もはやどうでもよくなってしまった。


 でも同時に、もう受け身ではいられないとも思う。

 村瀬には随分とお膳立てしてもらった。年上として、男として、ここからは俺がリードする番だ。


「じゃあ、その……今から来るか? 大したもてなしはできないけど、お茶くらいは出せるからさ」


 頬を指で掻きながら、俺はさも平然とした口調で切り出す。


 ふと部屋を散らかしていないかと不安に駆られたが、普段から掃除は欠かしていないからまず問題ないだろう。室内に干した服は既に取り込んであるし、床も昨日モップを掛けたばかりだからベタついていないはずだ。

 

 あ、でも歯ブラシが足りないな。取り敢えず途中でコンビニに寄って、あと化粧水も村瀬の肌に合うか分からないからついでに調達するとして。

 それと……一応も。手を出すつもりがないとは言ったが、あちらがそのつもりなら俺も覚悟を決めて応えなければいけない。男として、女子に恥をかかせる訳にはいかないのだ。

 

 と、脳中で先々の展開を余念なくシミュレーションする俺だったが……


「え、泊まりませんよ? 私、この後終電で帰りますから」


「……は?」


 一転して、梯子を外すように断りを入れてきた村瀬。思わず俺は呆気に取られてしまった。

 

 今、終電はとっくに過ぎている時刻だ。それは初めに彼女に見せられたスマホ画面で確認済みだし、だからこそ終電後の対応についてあれこれ協議していた訳である。

 それなのに、終電で帰るとはどういうことか? 言っていることがメチャクチャだ。 


「いやいやお前、何いきなり訳の分かんねえこと言って……さっき終電逃したって言ってただろ」


「すみません先輩。私、嘘をつきました。最初に私が見せたスマホ画面の時刻……実は正しい時刻じゃなかったんです」


「え」


「スマホの設定で時刻を変更できる機能があるでしょう? それを使って時間を三十分ほど早めて、わざと終電を逃したように見せかけてたんです」


 そう言って村瀬はスマホの設定を操作し、正しい時刻に直した画面をこちらへと傾けてくる。

 見れば確かに、表示は最寄り駅の最終電車が出発する前。そんなはずはないと何度も目を疑ってみるものの、手動設定から自動修正に戻されていることから正確なのは間違いない。つまり……


「俺は騙されてたってことか……?」


「それだけじゃありません。二人きりになれるよう由美先輩達に協力してもらいましたし、あの手この手で引き止めたりもしました。……全てはこの状況を作るために」


「マジかよ……」


 予想以上に練られていた計画に、流石の俺も驚きを隠せない。


 別に違和感がなかった訳じゃない。

 いつもはノリノリで飲み会に参加する三人があっさりと断りを入れてきたり、お開きにしようとするタイミングで村瀬がアクションを起こしてきたりと不審に思う点は幾つかあったから。偶然で片付けてしまったが、思い返せば罠だと気付ける要素はあった。


 ただ、ここまで入念に蜘蛛の糸を張り巡らせていたとは……気付けるはずもない。

 もしやモバイルバッテリーを借りパクされた件も関係が? でも流石に偶然……いや、そういえば手渡しした時、アイツらの顔が妙にニヤニヤしてたな。うん、確信犯の顔だわアレ。


 思い出したらだんだん腹立ってきたが……それよりも、ひとつだけ腑に落ちない点があった。


「なんでわざわざこんな大掛かりな真似を……普通に告白すればいいのに」


「先輩の本心を確かめたかったからです。先輩っていつも私を子供扱いしてくるし、真面目に告白したってどうせはぐらかすじゃないですか。『もう少し大人になってからな~』とか」


「……よくご存じで」

 

 確かに普段の俺であれば、問い詰められたとしても適当にあしらっていたと思う。揶揄われているのだと自分を納得させ、その場を乗り切るための逃げ道を探していたに違いない。

 彼女の言う通り、この状況だからこそ俺は本心を明かさざるを得なくなった。逃げ場のない土俵に引きずりこまれたとも言える。今までの付き合いで俺の性格をかなり分かっているらしい。


(はぁ、村瀬に一杯食わされる日が来るとはな……)


 一気に体の力が抜けた。まさか演技で誘惑して俺の本心を引き出す魂胆だったとは。

 お子様だと思っていた後輩にしてやられた訳だが、こんな形でも後輩の成長を実感できて良かったと受け取るべきなのだろう。内心複雑だが、したり顔を隠しきれない様子の村瀬が可愛いから許してやろう。


「騙してすみませんでした。でも先輩、私の演技に見事引っかかってくれましたね?」


「お前が泣き付いてきたから仕方なく乗ってやったんだよ」


「そんなこと言ってぇ、しっかり狼狽えてたの、私ちゃんと気付いてますからね? 若手演技派女優って褒めてくれてもいいですよ~」


「若手演技派女優、ねぇ……」


 少なくとも相手に違和感を覚えさせている時点で三枚目な気もするが……まあ、その演技に騙されたのはどこの誰だという話か。実際、狼狽えてしまったのは否定できないし。


 分かりやすく調子乗ってんなぁ、なんて思う俺をよそに、村瀬はスマホ画面に目をやると、「さて」と言って手のひらを合わせる。


「じゃあお開きにしましょうか。もう少し揶揄っていたいですけど、これ以上は終電が危ないので」


「やっぱ揶揄ってたのかよ……でもまあ、そろそろ店出ないと流石に間に合わないか」


「このまま本当に先輩の部屋に泊まりに行ってもいいですけどね。でも、今はちょっと一人になりたい気分なので」


 その意見には俺も同意だ。

 気持ちを伝え合ったばかりでまさに情緒がおかしくなっている自覚があるし、この状態で二人きりになったらブレーキが利かないと思う。事実、種明かしされるまで完全にそのつもりにさせられていた訳だし、もう一度同じ雰囲気になったら少なくとも俺は理性を保てる自信がない。


 これから長い付き合いになるんだから、今逸る必要はないだろう。

 大学生とはいえ俺達は大人だ。節度を持った付き合い方をしていくべきだし、こういうのは段階を踏むのがセオリーだと思う。村瀬も同じ考えだからこそ、火照った頭を冷やしたいということなのだろう。


「そうだな、俺も一人で落ち着く時間が欲しい。部屋に泊めたら変な気でも起こしそうだ」


「さっきの今でもう手を出すつもりなんですか? うわぁ、先輩って変態だったんですね……」


「誘ってきた奴に言われたくないわ」


「私は演技だったからいいんです。……でもまあ、変な気がないって言ったら嘘になりますけど。その……私だってずっと我慢してきましたし」


「……」


「な、なんで黙っちゃうんですか……」


「い、いや、冗談で言ったつもりだったから乗ってくるとは思わなくて……」


 あれ? もしかして今誘ったらいけるのでは? 

 ……って、いやいや。節度ね、節度。大人なんだからちゃんと段階を踏まないと。最初の一ヶ月でデートを重ねて、三ヶ月経ったあたりで手を繋いでみたりして、それから色々経験して……六ヶ月目でというのがベストだな。うん。


 と、俺の脳内恋愛パーフェクトマニュアル(修正版_final)の説明は置いといて……村瀬ってピュアだと思ってたけど実は積極的なんだろうか? そういうギャップ、童貞にはちと刺激が強いんですが。


「と、とにかくっ、そういうことなんで! 明日から改めてよろしくお願いしますね!」


「お、おう」


 込み上げる羞恥に耐え切れなくなったのか、村瀬は誤魔化すように勢いよく立ち上がり、帰り支度を始める。

 しかし、乱れた横髪の隙間からは真っ赤な耳が姿を覗かせている。俺の視線に気付いて慌てて手直すが、それでも紅潮を隠しきれず、彼女は「むぅ」と口を尖らせた。


 悪いことは何もしていないはずなのに、苛めているような気がしてむず痒い。

 取り敢えずこの居心地の悪さを紛らわそうと、俺も帰り支度を始めるのだが……

 

「嬢ちゃん、終電もないのにどうやって帰るつもりだい?」


「「え?」」


 振り向けば、いつの間にか店主のおじさんが勘定を手に立っていた。

 因みに、この人とは俺達バンドメンバーが常連ということで親交があり、高級フレンチシェフから居酒屋店主へ転身という異色の経歴の持ち主なのだが……そんな誰得プロフィール情報なんぞ今はどうでもいい。それよりも、聞き捨てならない言葉が耳に入ってきた。


「いや、終電がないって……まだ残ってるはずでしょう。時刻だって間違いないんだし」


「平日ならそうだけど、昨日は祝日だろう? 休日ダイヤってこと忘れてないかい?」


「祝日? ……あ」


 そこで気付く。普段であれば平日で間違いないが、昨日は祝日。世間が三連休だということをすっかり忘れてしまっていた。


 何故忘れていたのかと問われればライブの準備に集中していたせいでもあるのだが……どっちかというと、大学生特有の問題が原因だろう。

 中高生や社会人ならともかく、俺達私文学生は履修次第で平日が休み同然になる。当然ながら曜日感覚なんて待ち合わせちゃいないのだ。


「三連休なの、すっかり忘れてました……」


 村瀬の反応を見るに、どうやら彼女も完全に頭から抜け落ちていたらしい。俺と同じタイミングで気付いたようで、動揺を露わにしているのだが……いや、そこはちゃんと確認しておけよと思う。

 訂正、やはり俺の後輩はまだまだ詰めが甘い。


「取り敢えずこれ、置いとくからね」


 勘定を机上に置きながらそう言い残すと、店主は厨房へと戻って行った。

 

「……」


「……」


 一方、残された俺達の間には沈黙が続く。

 まあ、俺ですらこんな事態になるなんて思いもしていなかった訳だし、村瀬からしてみれば猶更だろう。どうしたらいいか分からず、焦っているのが表情からして明らかだった。てか、焦り過ぎて目が泳いでいるし。


「せ、先輩、終電逃しちゃいましたね……」


「そ、そうみたいだな」


 さっきも聞いた台詞が飛び出してきた。

 ただ、一つだけ違うのは、今は本当にその台詞に相応しい状況だということか。俺を欺くための演技ではなく、当惑を隠せずにいるのが震える声から伝わってくる。


「えっと……よかったら、ウチ泊まる?」


 いかん、口が勝手に。

 い、いやでも、夜に一人は危ないし。それなら部屋に上げた方が安全だし。それに、恋人なら困ってる彼女を助けるのは普通のことだし。だ、だから別に隙に付け込んだ訳じゃないし……


 俺の言葉に、揺れ動かしていた目を見開かせる村瀬。顔を伏せてしばらく押し黙ると、今度はその目を潤ませながらこちらを見上げた。


「じゃ、じゃあ……お邪魔してもいいです、か?」


「お、おう」


「……」


「……」


 多分、村瀬も頭の中でそれらしい言い訳を作って自分を正当化しているのだろう。一人になりたいと言っていた先程と矛盾した行動をしている訳だし……というか、何か小言が聞こえてくる。


「私、何をバカなこと言って……い、いやでも先輩のご厚意に甘えない方が失礼だよね。そう、これはただ恋人として彼氏の部屋に泊まるだけ。べ、別に期待してないっ、何も期待してないから……!」


 ……どうしよう、相方のブレーキが既に壊れ掛かっているんですが。

 何度か声を掛けてみるが応じてくれず、完全に自分だけの世界に没入してしまっている様子の彼女。息も荒くさせているし、しばらく帰って来そうにない。


(……取り敢えず、コンビニ寄ってから考えよう)


 決してそういうつもりではないが、寝泊まりに必要な物資の調達は必要だしな。うん。

 と、そうやって自分に言い聞かせながら、会計を済ませに行く俺であった。

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