ジレンマ

梁瀬 叶夢

プロローグ

「ねぇお父さん。養子ってどういうこと?」

 帰ってきた途端、勢いよくリビングの扉を開けた娘は呼吸を乱しながらそう叫んだ。

 いつか必ずこうなることはわかっていた。話さなければと思っていた。だけどもう遅い。

 ―優香ゆうかは、知ってしまったんだから。

「すまない」

「すまないじゃないよ。どういうことって聞いてんの。答えてよ」

 目の前に立つ娘は、怒りと戸惑とまどいを含んだ目で裕司ゆうじを睨みつけている。それはいつも愛想良く振る舞う娘の姿からは想像できないほど強い視線だった。裕司は優香に気圧けおされて目を逸らした。

「どうして黙ってたの?」

「話せば、優香が傷つくと思ったんだ。だから、話せなかった」

 今まで隠し通してきた以上、きちんと話さなければと思う。でも、そう思えば思うほどに言葉が喉に突っかかってうまく舌が回らないない。裕司は言葉に詰まりながら、しどろもどろに答えることしかできなかった。


 優香を養子として迎え入れたとき、優香はまだ3歳だった。透きとおるように無垢むくな瞳、好奇心旺盛こうきしんおうせいでいろんなことに興味を持つ性格。もし子どもが生まれてくることができたのならこんな子に育ったのだろうと思うと胸が張り裂けそうで、幼い優香の前で涙を溢したものだった。

 こんなにも純粋無垢じゅんすいむくな子に養子だと話してもわからないだろうし、優香がわかるようになるまで成長してからちゃんと話そうと、そう思っていた。

 しかし、なかなか話す決心がつかなかった。優香は裕司のことを本当の父親だと心の底から信じきっていて、ある日突然、私は本当の父親じゃないんだと告白されたときの優香の気持ちを思うと、とても話す気持ちにはなれなかった。

 そんなこんなで優香を育てて16年。ついぞ話すことのないまま優香は19歳になり、都会の大学に通うようになった。家に帰ってきては友達とあんなことしたよ、とか、今日こんなことがあって…とか、大学生活のことをたくさん話してくれた。優香が都会でも友達を作って大学生活を送れていることが、裕司は心の底から嬉しかった。

 養子で、かつ男手一つできちんと育てられたという自信はない。それでも優香は人思いな優しい子に育ってくれた。その姿を見ていると、同じように人思いで優しかった亡き妻、沙苗さなえと重なり目頭が熱くなった。


「じゃあ、お父さんは誰なの?私は誰の子どもなの?」

 それだからこそ、優香の言葉一つ一つが心の奥深くに突き刺さる。

 結局、どちらにせよ同じ結果になってしまった。どうせこうなるくらいなら話しておけばよかったと後悔が込み上げてくる。話す時間なんていくらでもあったのに。

「なんで何も答えないの?」

 優香の声が震えている。何か答えなければと考えるが、答えたところで全て言い訳になってしまう。

「私は“代わり”なの?」

 優香がそう言い放った瞬間、裕司の視界が大きく揺らいだ。優香がそう感じていること、そう感じさせてしまったこと。天国の沙苗とそのお腹にいた生まれてくるはずだった我が子に誓って、決して優香に辛い思いをさせないと約束していたこと。そのことの大きさと、大切な約束を破ってしまった裕司は胸が痛くなり、泣きたくなる。

 いや、泣きたいのは優香のほうだ。心から信じきっていたはずの父親、半ば裏切られて、誰の子かもわからない孤独に晒されている。その痛みがどれほどのものか、裕司は想像もつかなかった。

 裕司が黙りこくっていると、優香は何も言わず踵を返して扉をバタンと強く閉め家を出ていってしまった。その目に、うっすらと涙を浮かべて。

 たった一人残されたリビングに、居心地の悪い静寂が落ちた。

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