人魚姫は王子様の求婚を断りたかった。
有栖悠姫
第1話
(あら)
セレーネは日課の夜の
人間に目撃されたら色々面倒だからと夜の散歩は良い顔をされないが、それでもセレーネは辞める気はない。街灯に照らされる海辺の街は昼は勿論、夜はそれ以上に盛り上がりそれを見るのが好きなのだ。つまるところ人間の観察が好きなのである。興味があると言っても過言ではない。いつか陸に上がり人間に混じって生活してみたいと密かな野望を抱いているが、過保護な姉や母が許してはくれないだろう。
(…ん?)
セレーネは遥か遠くにある件の客船から何かが落ちるのを目撃した。ドボン、と海に落ちる音すら人魚の耳は拾った。もしや、誰か落ちたのだろうか。ここから岸まではかなり距離があるので泳いで辿り着くのはまず不可能。普通の船ならば海に人が落ちた時のために何かしらの道具があるらしいが、それも誰かが気づかないければ意味はない。
(…このままほっとくのも良心が)
家訓「海に落ちた人間は見捨てろさもなくば身を滅ぼす」が頭に浮かぶが、見捨てるほど残酷ではないと自負していた。セレーネは海に潜るとスイスイと泳ぎ、あっという間に船に近づいた。潮の流れを鑑みて、落ちた何かが流れた方向を探し始めた。
(…血の臭い)
鼻に刺すような鉄の臭い。セレーネの中で焦りが生まれた。幸いにもその臭いがセレーネの道標となった。やがて身体から力が抜けたように揺蕩っている人影を見つけた。その人影の周囲からは濃密な血の臭いがする。セレーネは海面に顔を出し、人影もとい人の状態を確認する。若そうな男で月の光に照らされて輝く金の髪は海水で濡れて額に張り付き、瞳を閉じている顔は紙のように真っ白で血の気が無い。青を基調とした服に身を包んでいるが腹部の辺りが真っ赤に染まっている。
(海に落ちたんじゃなくて、刺された上に落とされたの?人間て結構野蛮なのね)
セレーネの目には憧れの象徴に映った豪華な船だが、内情は殺伐としていたようだ。取り敢えず、このままプカプカ浮いていたら遅かれ早かれ命の危険、いやもうかなり危なそうなのでセレーネはグッタリとして意識のない男を背負う。それでいて腹の傷に障らないように慎重にそれでいて速く近くの岸に向かって泳いで行った。
(さてと、運んだは良いものの助かるかしら?傷も深そうだし海水で身体が冷えてる)
セレーネは人目のつかない岩場に乗り上げると男を寝かせて状態を確認する。身体はかなり冷たく脈も弱い。今すぐ医者を呼んだとして助かるかは五分五分だろう。そもそも今のセレーネに医者を呼びに行くことは出来ない。何せ足がないのだから。
改めて観察すると濡れて張り付き、血に染まっているものの男はかなり上等な服を着ている。あの大きな船に乗っていたことを鑑みても、上流階級の人間なのだろう。刺された上に海に落とされる、完全に殺しにかかってるじゃないか。怖い怖い、とセレーネは肩を抱く。外見年齢はセレーネと変わらなそうなのに何をしたのだ、この男は?とセレーネは呼吸の弱まっている男を興味深そうにじっと見る。
(…人目のつくところに運んで帰る?でも、すぐに見つけられたとしても助かるかな…)
セレーネは己の手に視線を落とす。人魚の血肉は不老不死の元だと人間の間では囁かれているものの、真っ赤な嘘だ。人魚の血を少し吸うだけで瀕死の怪我や病気が治り、普通の人間より身体が丈夫になる程度。寿命は伸びない。もし人魚を殺して血肉を食らった場合体内に取り込んだ瞬間猛毒に変わり、全身の皮膚が焼き爛れて死に至る。
そう、人魚を害して手に入れた場合は。人魚が
理由はただの気まぐれ、同情だ。事情は知らないがまだ年若い男が無惨にも命を落とすのを黙って見ているのも忍びない。それにセレーネは血を人間にあげたことがないので、どうなるか見てみたいのだ。何でも血を与えた前後の記憶は消えるようになってるので、飲んだ人間が人魚の血を飲んだことに気づくことはない。
セレーネは親指の皮膚を口で切り、そこから血がぷく、と出て来る。血の滲んだ指を青紫色に変色してる唇に押し当てた。少しでも口の中に入り、胎内に入れば良いはず。すると、男の身体に変化が現れた。真っ赤に染まった腹部が光り出したのだ。血を吸ったシャツを捲ってみると、刺し傷が塞がっている。どうやら成功したようである、とセレーネはホッとした。取り敢えず命の危険は去ったようなので、男が目を覚ます前にさっさと帰ろう。と思ったセレーネだったが。
深く閉じられていた男の目がうっすらと開いたのである。男の目は深い緑色のようだ。男は焦点の合わない目でばんわりと虚空を見つめていたが、やがて側にいたセレーネを捉えた。
「…天使…?」
「違います」
「…俺は…死んだのか…」
「安心してください、生きてますよ」
咄嗟に反応した後に、無視しておけば良かったと後悔するも無視は出来なかった。意識が朦朧としているようだ。無理も無い、死にかけの状態から復活したのだから。
「…君が、助けてくれたのか」
「…まあ、はい」
「…傷が、塞がっている…あんなに深く刺されたのに…何か、した…?」
死の淵から帰って来たばかりなのによく喋る男である。セレーネはどうせ記憶が消えるとはいえ、これ以上男と問答を続けることにえもしれぬ不安感を覚えた。
「…傷は塞がりましたけど、必ず医者に診せてください」
セレーネは質問に答えることなく、ピョンと海に飛び込んだ。そのまま逃げるように岩場から遠ざかって行く。飛び込む直前「…人魚…」という消え入りそうな水音に掻き消されて呟きは聞こえなかった。
それからセレーネは死にかけの男のことは考えないようにしていた。城に帰り姉や母、友人、海の仲間と話す日々に戻っていた。そして何となく夜の散歩を控えるようになっていた。何故かは自分でも分からない。本能的に控えた方が良い、と判断したからだ。男の記憶は消えているはずなのに、妙な不安感が消えないのである。
しかし、ずっと城に籠っていれば安全なのだと自分に言い聞かせながら過ごしていると2週間ほど経っていた。漸くセレーネが男のことを考えなくなって来た時のこと。
「最近、街の方が騒がしいんだ」
「王子様が来てるんだって」
「命の恩人を探してるらしいよ」
海の仲間達が街の人達の話を聞き、セレーネや姉達に教えてくれた。姉達は興味なさそうだったがセレーネは内心冷や汗ものである。
「銀髪に青い目の女の人を探してるんだって」
「若い女の子が髪と目の色を変えて恩人の振りをしようとして、酷い目に遭ったんだって。王子様物凄く怒ったらしいよ」
「…銀髪に青い目って珍しいわよね、セレーネもそう思うでしょ」
「そうですねお姉様」
セレーネと同じ銀髪に青い目を持つ1番上の姉がそう尋ねた時は無表情で答えていた。セレーネが夜の散歩をしてるのは家族の知るところなので、姉がセレーネが何かしたと疑ってるのでは?と警戒していたが王子が瀕死の重傷から復活したという話は流れてこないので確証はないはずだ。しかし、姉の探るような目が怖い。
「王子様、これ以上お城を離れられないから帰るって」
「見つからなくて凄くショックを受けてるよ」
「あそこの岩場に態々行って、見つかるように祈ってたよ」
どうやら王子様とやらは帰ったようでセレーネはホッと胸を撫で下ろした。姉達が含みのある目を向けてくるけれど、気づかないフリをした。
これで平穏な生活が戻る、と思ってたセレーネは自分が甘かったと思い知らされた。
「王子様、戻って来たよ」
「髪を黒くして顔を隠しているけどバレバレだよ、でも皆気づかないフリしてあげてる」
「1番大きい宿に暫く泊まるって」
3日後、王子が戻って来た。セレーネは話を聞くと頭を抱えた。王子って暇なのか?いや、そんなわけない。身分が高いものほど責務が重いのはず。1週間近く滞在して、そしてまた訪ねて来るとは。仕事が溜まっているだろうに、放って来たのか?側から見たら命の恩人の女に入れ上げてやるべき事を放棄している愚か者である。セレーネはもう目を逸らすことが出来なくなっていた。
(これ完全に記憶残ってるわよね?何で?残らないって聞いてたから血をあげたのに)
しかし、記憶が消えないと知っていて見捨てたかどうかは微妙だ。後日男の死体が見つかったと街の人々が噂しているのを聞き、罪悪感に苛まれるのも嫌である。つまりところ、セレーネの行動は変わらなかっただろう。
王子が恩人探しをしていると聞き及んでいる姉達はすっかり確信しているようで、だが何も言ってこない。気遣ってるのか、態々問いただす気が起きないほどセレーネの浅慮な行動を呆れているのか判断が付かない。セレーネは死刑宣告を待つ囚人の気分だった。
そして今日、女王もとい母に呼び出された。
「セレーネ、あなた件の王子に血を与えましたね」
「…はい、申し訳ありません。放っておけば死にそうだったので放置することも出来ず、記憶が消えるから大丈夫だと軽く見ておりました」
セレーネと同じ銀髪を大胆に結い上げている母はあからさまにため息を吐く。
「…本来ならば血を与えても大した影響はないのですよ。怪我が治っても本人は覚えてないから原因を追及することもない。勿論不老不死になることもないから、人魚は所詮空想上の生き物だと囁かれているのに…本当にあの王子は我々の予想外です」
「え?やっぱり記憶消えるんですか」
「消えますよ、綺麗さっぱり。一族に伝わる手記に書いてあります、間違いありません」
セレーネ以外にも血を与えた人魚はいたようである。それこそ、「悲劇の姫君」のように惚れた男を助けるためかもしれない。たとえ結ばれることなく、自分の正体を明かさなくとも。セレーネにそういった切ない感情は一切存在しないが。
「では、何故あの人覚えているんでしょうか」
ちなみに王子はあの岩場に一日中ずっといて、瞳をガン開いて海を見ているらしい。近隣住民から不審者扱いされつつあるという。旅の一般人を装っているが、バレバレなので街の人々は物申すことが出来ないようだ。早くお帰り願わないと街の人々が平和が落ち着いて過ごせないので、原因あるセレーネがどうにかする必要があった。
「理由は私でもはっきりと分かりませんが…推測するに…王子の記憶に命を助けたあなたが強く焼き付いてしまったのではないでしょうか。本人の絶対忘れたくないという思いが血の忘却作用をも打ち消した、かもしれません。しかし、人魚の血に打ち勝ったのですから生半可な思いではないでしょうね。あの王子、あなたが見つかるまで、それこそ衰弱して死ぬ寸前になっても帰らないと思いますよ?」
「そんな」
「はっきり言いましょう。あの王子は異常です、血に抗った人間なんて存在したことがないのです。あんなモンスターを生み出したのはセレーネなのですから説得して帰ってもらうなり、難しいなら沈めるなり何とかしなさい。苦情が来てるのですよ、不気味な男が岩場にいて怖い、と」
「説得!?いや、でも姿見せるわけには」
「調べたところ、王子は本当に命の恩人を探してるだけの様子。人魚を利用してやろうという欲深さは今のところ感じられません。まあ、その片鱗を見せたら今度こそその命を終わらせてやりなさい。どうせ、あなたが助けなければ終わっていた命。寧ろあなたの手で終わらせてもらえた方が王子も喜びますよ」
母は残酷なことを平然と言ってのける。セレーネは時折見える母の冷酷さを恐ろしく感じていた。いや、母は王子の
セレーネからしたら母の命令には逆らえないので、承諾するしかなかった。
そして善は急げとばかりにセレーネはその日の夜、王子がいるというあの岩場に向かった。目元だけ海面に出して遠くから様子を窺う。岩場にフードを被った人影が見える。傍には街で買ったのか軽食の入っていた容器と水筒が転がっている。海にゴミを投げ捨てようものなら即海の藻屑にしてやるところだが、聞くところによるとゴミは持ち帰り、一日中岩場にいる以外の迷惑行為は一切してないようだ。その唯一の迷惑行為が問題なのだが。岩場は人目に付きやすい場所ではないとはいえ、近隣住民は気になって仕方がないのだ。
セレーネはゆっくりと岩場に近づいて行く。フードの男の後ろから回り込むつもりだ。岩場から残り数メートルの距離まで近づいた、その時だ。いきなり男がこちらを向いたのである。目深に被ったフードが影を作っているものの、男と目が合ったと直感した。セレーネが瞬きをした一瞬の間に男は岩場の縁ギリギリまで移動していた。そして、あろうことか立ち上がった男は海に飛び込もうと勢いを付けている。
(は?泳いでこっちに来るつもり?辞めてよ!)
この辺りは深いので、万が一溺れたら終わる。泳げたとしても体力が尽きたら同じことだ。面倒ごとを増やされては堪らない。セレーネは焦り、過去最高スピードで岩場に辿り着いた。男はセレーネがすぐ側まで来たと分かるとその場に膝を付いた。その時潮風にあおられて男のフードが取れて顔が露わになる。短く切り揃えられた黒髪は無理矢理染めたせいか根本が金色、鋭さを帯びた深緑の瞳、前は生気が感じられなかった顔の血色が良く、日に焼けた肌はほんのりと小麦色。前回は顔をじっくり見ても気にする余裕が無かったが、男はかなり精悍な顔立ちをしていた。そして、セレーネを捉えた深緑の瞳の奥がギラギラと異様な輝きを放っていることに気づくと背中に冷たいものが走る。母の言葉が蘇る、この男は…。
男はセレーネを凝視し、ワナワナと震えている形の良い唇を開き感極まったように呟く。
「…天使…俺の」
「違います」
「天使じゃなくて、海の女神だったのか」
「女神でもないです」
「この際どっちでも良い、女神俺と結婚してくれ」
「え、無理です」
男は人魚に求婚してきた。良く考えなくとも無理だということはセレーネより男の方が良く分かっているはずだ。
「私、人間じゃないので。陸で生活出来ません」
本当は足を得る薬はあるが、男に明かす義理はない。だが根本的に無理な理由を告げても男は引かない。
「では、俺がこの海辺の何処かに家を借りる。通い婚という形で」
「いや無理ですよ。そもそもあなたは王子なんですよね、そんな身分の方がこの街で暮らすなんて不可能でしょ」
「…王子、ね。そんな身分どうでも良い。子供の頃から命を狙われ続けた挙句1番信頼していた奴に殺されかけた。立場も国の行く末もどうなろうと知ったことではない、そんなことより君と結婚したい」
「ええ…」
投げやりな口調で言葉を紡ぐ男にセレーネは困惑した。そしてセレーネが聞いてもないのに己の生い立ちを話し始める。実際セレーネは男が死にかけた理由が気になっていたので、結局この場に留まった。
男は第一王子だが国王の正式な妃の子ではない。王妃の侍女だった男爵令嬢を国王が見初め、男が生まれると側妃に召し上げられた。国王と正妃は政略結婚で仲は冷え切っていた。遊びで手を出したわけではなく、国王が側妃を本気で愛していたせいで気位が高い王妃の恨みを買ってしまい、度重なる嫌がらせの末側妃は心労が祟り亡くなってしまった。母親を亡くした男を国王が保護したものの、幼い頃から王妃やその一派の暗殺に怯えていた。国王に可愛がられていたことと、正妃の子である第二王子が典型的なボンクラで男を次期国王に推す声が多かったことから、男は誰が味方か分からない環境に置かれていた。数ヶ月後、弟である第二王子が18になると王子が全員成人を迎える。慣習に則り、王太子を指名することになっているので王妃一派はなりふり構わず男を消しにかかっている。そしてあの日、王妃に脅された側近に刺され海に突き落とされた。もう死んでも良いと全てを諦めたところを助けたのがセレーネだ。
「俺は国王になりたいなんて望んでない。第二王子がダメでも傍系から指名すれば良いのに直系でないと王家の求心力が下がるとか何とか言って、俺に重責ばかり押し付けてくる。後ろ盾が弱いからと高位貴族の令嬢を婚約者に付けられたが俺のことを陰で下賤な身の上だと、母親のことを馬鹿にしている。あんな奴と結婚して国を導く?冗談じゃない、どいつもこいつを俺を都合良く利用して…国も権力もどうでも良い、自由に平穏に暮らしたい」
男は溜まりに溜まった不平不満悲しみ憤りをぶちまけた。セレーネは耳を傾けるうちに男に同情していた。そして流石
(話を聞く限り、国王は国のためというより正妃の子を王座に付けたくないんでしょうね。相当嫌っているけれど王妃の権力は無視出来ないから、彼を矢面に立たせ正式な形で第二王子を排除するしかない。どうやったって上手くやれない相手はいるけど、巻き込まれる方はたまったものでは無いわね)
男も被害者である。身近な人間に裏切られ生きる事を諦めた男が、命を助けたセレーネに縋ってしまうのも無理は無い。
「中々に大変な人生を送っていらっしゃるんですね。そんなに嫌なら権利を放棄してしまえば」
「何度も頼んだよ。命を脅かされるくらいなら王座は要らないと。でも第二王子を玉座につけたくない反王妃一派や国王が決して許可しない。今回殺されかけた件を持ち出して王位継承権の放棄を望んだが後数ヶ月耐えろと。何度も逃げ出したが、その度に連れ戻されて監視下に置かれる」
「よく今ここにいられますね」
「影武者を置いている。病み上がりで部屋に引き篭もっているから抜け出せたんだ。バレたら影武者に机の二重底に隠した手紙を渡すように伝えてる。もううんざりだから逃げる、と書かれた手紙を」
「はあ、でも後数ヶ月経つと残ったボンクラ王子様が次の王様に指名されるなら、是が非でもあなたを連れ戻すのでは?」
現実を突きつけると男の顔は悲壮感に染まる。というか男だって現実を分かっているだろう。それでも現実から逃れようと必死なのだ。やはり彼はセレーネの同情心を刺激する。
「…いっそ、ボンクラ王子様以上のボンクラになってしまってはどうです?」
「?」
「この人が王様になったら国が終わる、と危惧されるようなろくでなしになれば良いんです。女遊びが激しいとか素行が悪い、暴力的、金遣いが荒い…。直系がどちらもボンクラなら偉い人も親戚から次の王様を選ぶのではないですか。あなたがなまじ優秀だから目の敵にされている訳ですし」
「…脱走した挙句婚約者がいるのに他の女を連れて帰ったり?」
「あらー、素晴らしいクズですねー」
パチパチとセレーネは拍手で讃える。悲痛に歪んだ男の端正な顔が徐々に希望に満ちていく。まあ上手くいくわけが無い。多少でも希望を抱き、セレーナが助けた命を無駄にしなければ良いのである。
「……」
「…?…あの…まさか」
(ニッコリ)
意味深にセレーネを見つめていた男が満面の笑みを向けて来る。この男、まだセレーネを諦めていなかった。
「いや、だから私陸には」
「嘘だな」
「はい?」
「俺、相手が嘘を吐いているか分かるんだ」
何だそれは、とセレーネは慄くが男の生い立ちを考えると敵を見分けるためには能力を身に付けざるを得なかったのだろう。
「…まあ、あるにはありますけどね。飲んだら海水を浴びない限りは人魚に戻らない薬」
ここ数百年で魔女の薬は改良を重ね、人魚の身体に負担を与えないものに変わっていた。魔女に頼めば用立てて貰えるはずだ。男はセレーネの手を取ると顔の前でぎゅっと握った。
「俺の女神、改めて言う。結婚して欲しい」
「はあ…王座に就きたくないからですよね」
全く心に響かないプロポーズを受けてセレーネは冷めた声で答える。しかし男は強く否定した。
「違う、君と結婚出来るなら王座に就いて国の為に働いたって良い」
ああ、この男は自分を都合良く使う人間の思い描く通りに動きたくないのだ。王太子に指名され決められた婚約者と結婚して、国王の座に着くことが耐えられないのだろう、と何となく分かった。彼なりに自分の置かれた環境で抗おうとしている。
「…断ったら俺はこの場で死ぬ」
「は?」
「君と結婚出来ないなら生きてる意味がない。君に看取って貰えるなら本望だ」
男の目は本気だった。男はフードの下に手を入れて小ぶりなナイフを取り出した。セレーネが断ったら即、それを使って首を掻っ切るつもりだろう。セレーネに断られるくらいなら、この男はセレーネが助けた命すら捨てようというのだ。こんな手で脅して来るとは、やはりこの男まともではない。母の言う通りだ。
血を取り入れて丈夫になったとはいえ、この男のことだ。失敗しても何度も繰り返すだろう。何て男を助けてしまったのだろう、とセレーネは初めて後悔する。目の前で首を切られたら目覚めが悪い、とセレーネは観念した。
「…はぁ、分かりましたよ」
セレーネが渋々承諾すると男は嬉しそうに顔を綻ばせる。深緑の瞳の奥に深い闇が広がっていることには触れないでおく。
「私、薬を貰ってくるので少し待ってて貰えます?」
「ああ、待ってるよ俺の女神」
「だから私女神じゃ」
とセレーネは自分が名乗っておらず、男の名も知らないことに気づく。名前を知らないのも不便である。
「女神ではなく、セレーネです。私の名前」
「セレーネ、海の女神に相応しい美しい名だ…セレーネセレーネセレ」
「そういうの良いです」
恍惚とした表情でセレーネの名を繰り返す男を一蹴する。
「あなたの名前は」
「…俺の名は……」
************
その後、セレーナは海の魔女の元に行き薬と
そして家族に宛てた手紙を預け、セレーネは魔女の元を去って行く。
『背景お母様、お父様、お姉様方。
私セレーネは王子様にプロポーズされましたので、ちょっとお城まで行って参ります。ここに戻ってこられるかは分かりませんが、心配しないでください。
追伸
お母様の言う通り、王子様はやばい男でした。目を離すと何をするか分からないので、見張っていようと思います』
人魚姫は王子様の求婚を断りたかった。 有栖悠姫 @alice-alice
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。