第22話 選択肢(前編)

 半期に一度の人事考課も無事に終わって、しばらく経った後のこと。


 課長のマンションに行ってピンポンしようとしたら、扉の向こうが騒がしくて、タツキが怒ってる声が聞こえた。


 珍しい。声を荒げてるのなんて、あんまり聞いたことがない。


 ……一体誰と喧嘩してるんだろう、って扉の前で固まってたら、女の人の声が聞こえた。

 もしかしてご家族と通話中かな、って思いながらも思い切ってピンポーンって押したら一瞬止まった。

 けど中でまたタツキと女の人が争う声が聞こえて、泣きじゃくりながら縋るような声も聞こえた。


 尋常じゃない様子ってまさしくこのこと。大騒ぎ。

 実際に女の人が中にいるみたいで、ドターンって倒れるような音も聞こえた。


 私もついに扉に手を掛けた。

 鍵かかってないみたいでハンドルが動いたから、思い切ってドアを開けた。


「やだーたっくん行かないでー」


 裸の女の人が、泣きながらタツキの足を引っ張る姿に遭遇した。

 室内の廊下にはパンツすら履いてない美女が寝そべってて、巨乳だった。

 驚いて気まずそうなタツキの足を掴み直してるけど、もしかして元カノかな。あ、察し。


「浮気中に失礼しました」


 タツキも女の人連れ込むんだ。へー。泣いて縋るなんて元カノよっぽど未練あったんだ。って思うだけでドアを押し込み直してた。


「は!? 待った一崎」


 バタンっ。

 浮気現場目撃した私が、待つタイプではないってことは分かった。


 扉を閉めた勢いそのまま、すぐに男女で騒がしい部屋の前からダッシュで逃げ出した。

 エレベーターがボタン連打してもなかなかこないから、近くにある階段を走って降りる。

 学生時代よりもよっぽど必死に階段を降りたのに、エレベーター捕まえたタツキに追いつかれたのが見えて、かわそうとしたのに手を掴まれた。


「一崎、待って」


 久しぶりの選択肢だけど、答えは決まってる。


 ーーー振り向いてビンタする?ーーー


【YES】

 NO


 ーーーーーーーーーーーーーーーーー


 気持ちはYESだけど、暴行罪とか傷害罪になるかもしれない。

 だって夫婦じゃないから、浮気してたって不倫じゃない。

 タツキに他に好きな人が出来て連れ込むことだって、法じゃ罰せない。


 ……そう思ったら、出来なかった。

 考えて指を握りしめるしか出来なくて、気づいたらボロボロ泣いてた。

 目の前が滲んで、悔しい気持ちでいっぱいになってた。


 タツキが抱き寄せようとしてくるから必死に抵抗するけど、引っ張られて無理だった。

 喉が詰まって言葉の一つも出てこないから、離してとも言えない。


「説明するから上がって」


 浮気の何を説明されるんだろう。

 たっくんって呼んでた綺麗な女の人が本命だって言われるくらいなら、このまま帰りたい。

 また腕を引っ張って逃げようと踏ん張ってると、タツキがそれでも強く抱きしめてくるから逃げられなくなった。


「姉貴をこんな形で紹介したくないけど、旦那と喧嘩して出てきてて」


 ん?


「家の中は素っ裸派だから誤解させてるけど、あれが残念なことに、俺と血が繋がった姉なんだ……」


「……ねえ、嘘つくならもう少しマシな嘘ついたら? お姉さんに罪着せるとか最っ低なんですけど」


「いや奥に姪っ子いるから。お昼寝中だけど。

 姉貴だって証拠見せるから、逃げずに待って」


 タツキが自分の端末いじって開示設定にしたけど、以前一緒に行った水族館の写真が映されてた。

 さっきの女の人と、三歳くらいの女の子を肩車するタツキの三人が仲良く写ってる。

 パパポジションにいるタツキと、ママポジションにいるさっきの女の人を見て、余計大きな衝撃が走った。


「課長結婚してたの!?」


「してない。俺の部屋はどう見ても一人暮らしの部屋。既婚歴もない。毎年年末には被扶養者なしの書類出してるから信じて」


 水族館、……私と初めて遊びに行ったのも、お姉さんたちと行って楽しかったから誘ったって、事前調査済みって聞いたはず。

 言いくるめを使うタツキに連れられてマンションを上がったけど、部屋を開けるとやっぱり裸の女の人がいた。


「たっくんごめん、彼女さん来るって本当だったんだ。てっきり追い返すための嘘かと思っちゃった」


「いいから客前では服を着てくれ。

 ……お恥ずかしながら、あれが姉の朝霞です」


「そろそろ蜷川朝霞に戻りそうな後藤朝霞です。

 たっくんの彼女さん、初めましてー」


 素っ裸の女性は笑顔で手を振ってくれるし、タツキが私と手を繋いで肩を抱き寄せても嬉しそうにしてる。元カノだったら今頃はらわた煮え繰り返ってるよね。


 つまり。


「本当にお姉さんだった!?」


「だから姉貴なんだって」


 デートではまず服を褒めるよう仕込んだって聞いてたし、お姉さんは厳格そうな印象を持ってたけど、まだ裸なのを怒られて上からトレーナー着せられてるポワポワ系お姉さんだった。

 とりあえず私もお話を聞いたけど、朝霞さんは夫婦喧嘩してタツキの家に逃げ込んできてるらしい。


「小姫が『パパ帰ってきてくれない』って悲しんでるから、残業やめてって言っただけなのに、シューくん無理って言うんだよ。

 もうシューくん嫌い。ママだって帰らない」


 自分が一番可愛い三歳のリトルプリンセスこと小姫ちゃんは、よく遊びにくるから専用に空けてるらしい奥のサービスルームにいた。

 子供用布団に寝転んで、お人形を抱いてすやすやお昼寝中だ。寝顔が可愛い。お姉さんも美人だから血筋が伺えた。


「姉貴、頼むから帰って。彼女がこうして来るのに、うちを駆け込み寺にされても困る」


「だってたっくんずっとフリーだから、彼女連れ込んでるとか嘘だと思ったんだもん。

 今回はここにいるってシューくんに言っちゃったから、今更場所変えとか無理」


「実家でもどこでも一緒。どうせ修介さんとはいつもので解決だからむしろ自分ちでやってくれ。

 修介さんの会社から近いの分かってて俺のところ来てるなら未練たらたらだから、話し合いのためにも家に戻るべき」


「い、や。私だって本気だもん」


 拗ねてるお姉さんがそっぽを向く。

 タツキが顔を顰めてるけど、お姉さんが不意に携帯端末を取り出して11Gシート貼って、さらに仮想ボードで何か叩き始めた。ドラマとかでめちゃくちゃに叩いてるんじゃないかって思うくらい指が早い。


「たっくん信じてくれないから、シューくんの会社に離婚届送ろっと。

 ……っあ、たっくんやめて、剥がさないで。それ一枚しか持ってきてないから返してー」


 タツキとお姉さんが争ってるのを見てたら、唐突だけどピンポーンってチャイムが鳴った。


「朝霞!」


 タツキが対応すると家の扉が開いて、スーツの会社員が現れた。

 お姉様が慌ててリビングに逃げ込んだけど、会社員がお土産をタツキに丁寧に渡して謝って、奥へ踏み込んでいった。


「帰ってきてくれ朝霞、俺が悪かった」


「シューくん、もう残業やめてよ。

 私も小姫も、残業代よりシューくんと会いたいの。

 分かってくれないシューくんなんて嫌い。帰らない」


「サラリーマンにはそうも言っていられない時期があるんだよ……」


 会社員あるあるに、タツキと二人で遠い目をしてた。

 繁忙期は残業がどうしても混み合う。私も今年初めて経験しましたボス。


「しばらくはそれでも前倒しにするから。帰ってきてくれ」


「いつも口ばっかり。どうせ私のことなんてもう好きじゃないんでしょ……っ」


 会社員こと修介さんが、朝霞お姉様の唇を奪うなんてご夫婦のキスシーンが始まった。

 そういえば減らず口叩いたら口塞いでくる彼氏が隣にいるなって思った。

 見上げたら恥ずかしそうに顔逸らしてるから、身に覚えがあるらしい。


 タツキがそっと外を示したから、一緒に部屋を出た。

 色々納得のいく話だったから、私も目の前の人に頭を下げた。


「誤解してごめんなさい」


「いや、姉貴が来てるってメッセージくらい送れば良かった。バタバタしてごめん。

 ……はー。本気で一崎に嫌われたと思った」


 タツキが壁にもたれかかって憂鬱そうにしてるけど、まあ、割と絶望感あったかもしれない。

 課長が他の誰かに浮気してるって考えただけで、あんなに胸が痛いんだって回想してると、頭ポンポンされた。


「ちゃんと疑問は解決した?」


「解決したし、……タツキのことこんなに好きなんだって思った」


 見上げた先で照れ臭そうに首を触ってるタツキともう一度部屋に入ったら、小姫ちゃんも騒ぎで起きたらしくてパパに抱きついてた。ちゃんと家族なんだなって思った。


「姉貴、今度から夫婦喧嘩は実家に帰ってやって」


「はーい。でも大丈夫、もうシューくんと喧嘩なんてしないもんねー」


「達紀くん、いつも申し訳ない……彼女さんにもご迷惑おかけしました」


「あ、いえ」


「そうだよね、たっくんが慌てて追いかけるくらい大事な彼女さんだもんね」


「姉貴」


 恥ずかしがってるけど、お姉さんから見ても慌てて追いかけてたんだ。

 普段のタツキは冷静沈着だって知ってるから、嬉しくてつい笑っちゃった。

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