何か、焦ってます?
一通り頼んだ物を食べ終わったところで、春海は軽く背を反らした。満腹には程遠いが、人の金で食べるには十分だろう。流石に喫茶店の無料券の余りを財布に突っ込んだままにされた状態で、五千円を使い切るほど春海も常識のない人間ではない。
それでも残るお金が少なめであることに関しては、罪悪感がズキズキと心臓を刺すように存在を主張しているのも確かだった。
(食べ過ぎた、かな? まぁ、お金持ちらしいし、大丈夫ってことで、次があったら気を付けよう。私の体重の為にも)
仮に、ヤタガラス婚活相談所に勤めることになると、この生活が当たり前になりかねない。そうなったらデブまっしぐら、人としても堕落の一途を辿り行きつく先は――――想像などしたくもなかった。
「失礼。少しお手洗いに……」
眼鏡を中指で持ち上げながら、氷室は椅子から立ち上がる。彼が背を向けて数歩歩いたところで、隣に座っていた辰巳が話しかけて来た。
「あなた、昨日の喫茶店にもいましたね? もしかして、ヤタガラスさんの所の従業員さん?」
春海は話しかけられても無言で押し通す。あくまでここにいるのは、春海という名の観測装置であって、二人のどちらかにこの場でアドバイスをしたり、助け舟を出したりするためではない。
ただ、春海はこういう状況に陥った時の為に、空人から次のように言われていた。
――――どうしても、何かしらの会話をあちらが求めてきたら、婚活相談所としての回答ではなく、一般人「四方路春海」としての言葉であると明言した上で答えてやれ。それに関して、何か文句があった場合は、俺が全ての責任をとってやれる。
いくつか教えてもらった定型文から、最適なものを一つ選び出して口から告げる。
「申し訳ありませんけど、『相談所は観測すれども介入せず』です。その上で、何かお話を希望される場合は、私個人の意見となります」
「へー、そうなんですね。じゃあ、単刀直入に言います。この後、私、彼と街に繰り出そうと思ってるんです」
「えっ!? それはマズイのでは?」
まだ現段階では、相談所の指定または許可した場所以外での二人での行動は契約で禁じられている。それは辰巳も理解しているはずだ。
つまり彼女は意図的に契約を破り、二人の関係を勧めようとしているのだと春海は気付く。
「もちろん、そちらに違約金はお支払いします。私は現時刻を以て、異種族ヤタガラス婚活相談所の登録を取り消し、ということで。こうすれば、あなたたちに何か言われる筋合いはないでしょう?」
「そ、そんな無茶苦茶な……!」
春海は絶句した。確かに人間同士の話ならば金を払えば問題はないだろう。
事実、結婚相談所では成婚料という名の退会費が結婚前に払われてしまうケースも存在する。もちろん、結婚まで確実にしていれば問題はないのだが、婚約段階でそれを行い、話を詰めていくうちに別れてしまって金も無駄に出て行ってしまったなどということもあるのだ。
辰巳の場合、婚約以前の段階での退会。それに加えて、異世界の亜人という秘密の厳守が必須である。もし、ここからそのままデートに向かい、その事実を話してしまった場合、一体どんな悲劇が二人を――――いや、この世界を襲うのか。
少なくとも春海には想像がつかなかった。
「あぁ、それと――――あなたは少し、ここでじっとしていてくれません? 跡をつけられたら困ってしまいますから」
「い、いえ、困るのは私も――――!?」
妖艶な気配を漂わせた辰巳が笑みを浮かべた途端、春海の指先が痺れ始めた。
(何!? これ、急に痺れ始めて……動かない!?)
何とか動かそうとするが、前腕、肘、二の腕、肩と痺れが広がる。それだけではない、足から太腿にかけても同じ症状が出始めていた。
体が動かない恐怖に鼓動がどんどん早くなり、耳朶を叩き始める。そんな耳に辰巳の声が響いた。
「私が何の亜人か聞いてはいるのでしょうけど、その能力までは把握していなかったみたいですね。お嬢さん。『ゴルゴーン』ってご存知?」
「なに、それ?」
「神話に出て来る堕ちた女神様。その顔を見た者は石化する、という能力ですよ」
「――――っ!?」
そんな馬鹿げた話があるわけない。そう自分に言い聞かせようとする春海だったが、それを証明するかのように四肢の感覚は消えて行く。まるで本当に石になってしまったかのようだった。
内心、春海は歯噛みする。空人が見せてくれたように、この世の中に魔法は存在する。それならば、辰巳のような能力があってもおかしくはない。
「安心して、私のはその劣化のさらに劣化したもの。石化の魔眼にすら届かない、麻痺の魔眼。私の視界から外れて十数分は立ち上がれないでしょうし、声も出ないと思います。命を脅かすものではないから、安心してください。あなたを殺すつもりもありませんから」
眼鏡越しに黄色に輝く蛇の瞳が春海を見つめる。
それを受けながらも春海は、息も絶え絶えと言った様子で言葉を紡ぎ出した。
「一体……何をするつもり?」
「別に彼もあなたもどうするつもりはないんです。私、ただこちらの世界のことをもっとたくさん知りたいだけで……。あっちと違って、こちらの方が面白そうですし」
自分の興味の為だけに、平和を守る為の契約内容を平気で破ろうとする。そのあまりな身勝手さに春海は、顔がカッと熱くなるのを感じた。
だが、それを口から出そうと思っても出てくるのは空気のみ。声帯の動きも封じられ、出来ることと言えば首から上を右左に動かして、辰巳を視界にとらえることくらいだ。
「お待たせしました。……どうかしましたか?」
「あ、氷室さん。少し隣の子が気分が悪そうにしてたので。――――もう大丈夫みたい安心してください」
「そうですか。では、お気をつけて」
氷室が会釈を春海にして、踵を返す。
――――言ってはダメ。
そう口から出したくても、一言も声を放つことは許されない。
会計は先に済ませました、と氷室が告げて、二人で素早く店から出て行ってしまった。麻痺が解けるまで十分かかるとして、何も知らない氷室を連れて辰巳がどこまで行ってしまうのか。
徒歩ならば追い付けるかもしれないが、タクシーやバス、電車に乗られでもしたら確実に見失う。
(あの蛇女。絶対に許さないんだからっ!)
この失態には流石の空人も呆れるだろう。最悪、就職の話は取り消しになるかもしれない。そう思った瞬間、焦りよりも怒りの方がふつふつと湧き上がって来る。
だが、それでも九分間は動くことができない。そう思っていた矢先、急に体の痺れが取れ始めた。
「えっ!? 何で?」
急に戻って来た感覚に驚きながらも、春海はすぐに我に返る。
今やるべきことは一つ。社会人の基本にして鉄則。失敗した時の初動第一。「報・連・相」である。
震えそうになる指でスマホを取り出し、事務所へと電話をかける。その一方で財布からお札を取り出して、会計表と共にレジへと持って行く。
店員が処理している間に、外を見るが二人の姿は見当たらない。舌打ちしたくなる気持ちで会計が終わるのを待っていると、耳元でコール音がプツッと途絶えた。
「うぁい、こちらヤタガラス婚活事務所――――」
「空人さん、私です。春海です」
「おう、聞こえてるから、もうちょっと音量落とせ、耳が潰れるかと思った」
店員からのお釣りを受け取り、ポケットに雑に放り込みながら店の外へ出る。ムワッとした空気にさらされ、思わず顔をしかめたくなるが、春海は左右を見て辰巳の姿を探した。
「すいません。私の失態です。二人が店を出て、そのままデートを継続しているようです」
「へー、なかなか大胆だな。何か言ってたか?」
「……契約を反故にし、退会すると。違約金は後から払うと言っています」
「――――マジか?」
「マジです、大マジ。何せ、麻痺の魔眼だとかで私の動きとめて来たんですよ! あの女!」
怒りを抑えきれずに言葉を放つと、スマホの向こう側で空人が絶句した。
そして、同時に辰巳に見られた時とは比べ物にならないくらいに、背筋の凍るような気配を感じ取った。
「あ、きと、さん?」
「――――そうか。これは私の落ち度だ。君に危険な目に遭わせたことを謝罪する。申し訳ない」
「い、いえ、大丈夫です。何か思った以上に早く麻痺も解けたんで、怪我とかも特になかったですし」
「それは君に持たせたお守りの効果だ。それがなければ、恐らく、何倍もの時間をそこで拘束されていたことだろう。いや、それはいい。正式な謝罪は後日、落ち着いた場所でさせてもらう。とりあえず、君は今日は一度、事務所まで戻って――――」
「お断りします」
数秒、間があった。
目の前をちょうど救急車がサイレンを鳴り響かせながら、見事なドップラー効果を聞かせてくれる。
「何だって?」
「私、あそこまでコケにされて黙ってられるほど、お行儀良くないんです。物理的にお返ししたいので、今から私は頑張って、あのお婆さんを探してきますね」
「あ、おい、勝手な真似は――――」
空人の声が言い切られるよりも先に、赤い表示を人差し指でポチっと押す。そのまま電源を切って、左右を見渡した。流石に昼飯時を過ぎ、行き交う人たちも多い。
「ふっ、履いててよかったスニーカー。すぐに見つけてあげるんだから待ってなさいよ、蛇女!」
そう呟いた春海は、頬を撫でる風が来た方向に向かって足早に歩きだした。
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