第32話 私は夏の子
まるで毒でも入っているかのように、誰も手元のお酒に口をつけようとしないし、りっぱな曲げわっぱのお寿司は海老の尾がたれるほど干からびはじめている。いたいぐらいの沈黙が席のうまったリビングにみちていた。沈黙をつくっているのは、男ものの大きなシャツをいろはすみたいななで肩に一枚羽織っただけのネコメロだった。「ここに残りたい」ということは、彼女が夏美をみるときの妬むようなまなざしや、荒地で鬼ごっこをしたときの子どもみたいなはしゃぎっぷり、岸壁で釣りをしながら朝日をあびるとき、あくびにまぎらせてむりやり作った笑顔から、なんとなく予想はしていた。しかし、スマホを湯船に沈め、お風呂場に髪の毛を散らかすほど、悲壮な覚悟をあらわすとは思ってもみなかった。はだかで剃刀の替え刃をにぎり、しかし手首を切らなかったネコメロは、傷を自慢したときよりよっぽど辛そうだった。ふとい釘を刺したようなヘソピアスを外すと、見せびらかしたのはよっぽど何かを見つけられたくなかったのか、おおきな切り傷がおなかにあった。彼女には子宮がなく、子を産めないことも、その手術をしたのは彼女の父親であることも、ずっと一緒だったのに、はじめて知った。いま思えば、ということだが、彼女が休み明けにかわっていたあの夏を思う。あかい髪、けっしておとさない化粧で、かくしていたのはなんだったのだろう。髪を短くきり、素顔をあらわした彼女は、男の子みたいで、でも泣くのを堪えているときの口元はどうしようもなくネコメロで、抱きしめて耳たぶにキスをしたいぐらい、かわいかった。つづいて遠慮がちに手をあげたのがトンガリだった。両親がもともとここらの出身だったという。原発事故が原因で逃げたこと、それをずっとうしろめたく感じていたことは、ネコメロの告白を聞いたあとではよっぽど陳腐だけど、ベタにおもえるぐらい素朴な、彼らしいなと思う。それに、ずっと彼が研究していた「学習しない人工知能」が、もともと廃炉にみちしるべを付けたかったのだと考えれば、なるほどプログラミングではstaticを多用するような頑固さにも脈絡はあって、私らしくもなく浮気せず(してもよかったんだけど、なんか、かわいそうだったんだ)彼と付き合っていたことに胸をはり、送りだしたい気持ちはある。じゃあ、私は? 「震災を知らずに育てたい」という夏美のねがいに、私はよっぽどあまのじゃくで、かといって、ここに残りたいはずもない。ただ、さびしかった。ネコメロも、トンガリも、夏美も、イミも、未来も置いて、ここから離れることは、きっと未来を置きざりにしてる。むずかしい顔をして、なやんでいたのか、なやむふりをしていたのか、未来が堰をきったように「で、カコは?」と尋ねてきた。にらむと、彼女の射貫くようなまなざしのほうが、うっかり目をそらすぐらい、はるかにつよかった。「未来!」と夏美がテーブルをたたき未来をいさめようとする。お猪口につがれた日本酒がたぷんと揺れ、蛍光灯のひかりをはねかえした。「だって」とうなだれた未来はくちを尖らせ、顔中をまっかに染め、椅子をけとばして勢いよくたちあがり、これまで我慢してきたことをぜんぶぶちまけるみたいに、声をうわずらせて捲したてた。「卑怯だよ。カコは卑怯だと思う。ここから逃げたことも、いまさら帰ってきたことも。おれは夏美が苦しんできたことも知ってるし、イミはおれをしっかり育ててくれたし、お父さんはアホだけど、ネコメロちゃんもトンガリくんも、ちゃんとここのことを見て、知ってくれた。じゃあカコになにがわかるのって。すごく思う。わからないといけないんじゃないの。おれは、わからせたい。漁の通常操業がはじまって、ふくふくにそだった魚の唐揚げが尻尾までおいしいこととか、あわせて呑むなら地元でつくった純米吟醸の雪冷えがいいとか、どこよりも空がひろくて、眠れない夜も星をかぞえれば明日がたのしみになることとか、野馬追のひろい草原にしずむ夕陽を見下ろせば胸があつくなることとか、駅前の並木道に咲くのはソメイヨシノだから花びらがおおきいこととか、そのしたでみんなで踊るよさこいは緊張もするけど、拍手をもらったら泣くぐらい誇らしいこととか、そういうのぜんぶ。カコがしらないなんて、卑怯だと思う!」。訛りがきつくてなに言ってるかわからないよ、と、私が言葉を呑みこんだところ、慣れないお酒をとっくりごと飲み干したトンガリが「夏至子も苦しんでたと思う」と声を掠れさせ、派手に咳き込んだ。馬鹿か、弱者男性のくせ、アセトアミノフェンなんちゃら型はどうした。ネコメロも続いてお猪口をかたむけ「夏至子は未来の気持ちもちゃんとわかってるよ」と咎めるように声をかさねてくれた。私からしたら、ぜんぜん、そんなんじゃないけど、むりやりでも味方してくれたのはうれしくて、ただ、すくわれた。夏美が溜息とともに肩をおとし、イミがいつのまにか空になっていた彼女のぐい呑みに日本酒を注いだ。にがわらいして、「イミが日本に来ることを決めたときは、もっと思いつめたような目をしてたよ。ちょうどいまのネコメロちゃんとか、トンガリくんみたいな。けど、夏至子はちがう」と、からむように言った。するとイミは声をあげてわらい、「うんうん、そうだね。いまのカコちゃんは、あのころの夏美みたいな目をしてる」と茶目っ気たっぷりの、私にだけわかるようなウインクをした。「そう?」と不満げに、夏美は首をかしげる。イミは「あのころ、夏美がなんて言ってたか、おぼえてる?」と夏美の肩に腕をまわし、いたずらっぽく頬をよせた。夏美はぼんやり口をあけ、しらじらしく目線を宙になげる。どっちが歯磨き粉を出しっぱなしにしたかで喧嘩をするような、こんなありふれた、夏美とイミのやりとりが好きだった。はずかしいけど、ふたりはほんとうに愛しあってるのだと思った。たとえば「このふたりと暮らしたい」とか、そんなものが、ここで生きていく理由でもいいのかもしれないと思った。思っただけ。「私、なんて言った?」。けげんな顔を夏美がイミにむけると、イミはハミングバードみたいにささやかなキスの音をならして、「言っていい? 言っていい?」といじわるな間をとったあと、みなを見渡し、たいせつな宝箱をそっと開けるように、こう教えてくれた。「私はseriousでなく震災と向き合いたい」。
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