第31話 名前にたくされた願い

 けっきょく、夏美に相談することにした。彼女がお母さんだというよりは、むしろその逆、イミより、未来より、トンガリより、ネコメロより、いちばん俯瞰的に状況をみられているのが夏美だと思ったからだ。つまり、私からはいちばん距離があるということでもある。晩酌どき、イミに稼いでもらってるいいご身分なくせ、そこそこ値のはる日本酒がふるまわれるのだが、とびきりつよいのは夏美だから、きつい下ネタまじりの絡みも合コンのすみっこにかならずまぎれている非モテぐらいうざいし、みんな引き止められつつ、頃合いをみはからって寝てしまう。私は仕事を理由にさっさと宴席をはなれたり、あえて彼女のお酒には付き合わなかったものの、血筋をこういうふうにあらわすのもどうかと思うのだが、呑みあいではぜったいに負けないという自信があった。いつもお猪口にはんぶんだけいただくところ夏美にぐい呑みを差し出し(おっ、今日は呑めるじゃん、と相好をくずした)、叩きつけるような乾杯をして、テーブルのうえにどんと置かれた一升瓶を底が抜けたみたいにへらしていく。まず口しかつけていないトンガリが壁にピンボールみたくぶつかりつつ千鳥足で去っていき、これまで散々付き合わされてきただろうイミと未来が「ほどほどにしなよ」と呆れたように退席し、いつもなら遅くまで付き合える日本酒ずきのネコメロも「ちょっと調べものがあるから」とこっちに来てコンタクト代わりに新調したアラレちゃんみたいな黒ぶちの安眼鏡をかけるなり、足早に扉のむこうへ消えた。そこから先はタイマンだった。なるほどさすが血筋、呑んでも呑んでも顔色ひとつ変えない。だが、それは私だっておなじだ。「夏至子もいける口だけど、私の両親にくらべたら、まだまだだね。あいつらなら、こんなもん、とっくに空になってるかな」と、夏美がうれしそうに瓶をゆらしつつ教えてくれたのは、見た目よりは酔ってるのかもしれない。すかさず潰してやろうと、瓶をうばうなり、ぐい呑みにあふれんばかりのお酒をつぎ足し、「それって私のおじいちゃんとおばあちゃんだよね。どんなひとだったの」と早口で尋ねた。「お母さん、つまり夏至子のおばあちゃんはね。日本酒のアンバサダーになって、世界中を飛び回ってるよ。英語もろくにできないくせ、通訳もつけず共通言語は酒だっていって、いまはニカラグアだったかな。一時期テレビでも物真似がはやった『Sake revolution』って知ってる? イスラムの国でひと悶着あったとき、いきなりあっちの宗教のけっこうえらいひとに逆切れしてバズったやつ。YouTubeのチャンネル登録数もそれで生活できるぐらいすごいから、よかったら観てあげて。夏至子が産まれたときもガチャ当てたみたいに喜んでたしさ。私よりテンション高いんだよ。まあでもあれ以来、こっちにはたまに一言だけの絵葉書をよこすぐらいで、めったに帰ってきてないけど」と会えないこともそうさびしくないのか、かるい調子で教えてくれた。なるほど、酒呑みのプロなわけだ。「で、おじいちゃんは?」と尋ねると、夏美は日本酒を口にふくみ、しばらく噛むように言葉をにごしたあと、「私とか、お母さん以上のザルだった。で、すごく真面目で、やさしいけどここ一番では『なじょだらッ!』って頭突きかますぐらい喧嘩がつよくて、かっこいい漁師でね。ちょっとトヨエツに似てたかな。覚えてないんだけど、津波のときに私を助けてくれて、それきり」ときえるような声で言った。空気がぴぃんと張りつめた気がした。まさか不道徳にも、この沈黙をごまかしたいと考えたのか、私の口から「もし私がここで暮らしたいって言ったら、どうする?」とすいかの種みたいにこぼれおちた。そんなこと、考えてもいなかったのに。いや、考えてた。考えてもいないと考えてしまうぐらい、ガンジーとテレサに教えてもらったときから、ずっと、ほんとうのお母さんと暮らすことを、ありていなぐらいありていに、考えてた。「たぶん、ネコメロちゃんとトンガリくんも、そう考えはじめてるんだろうね」。夏美はついた肘にあごをのせ、なるほど俯瞰的に、私よりよっぽどわかってるふうに言った。「でも、夏至子は、だめだよ」。そう言って、瓶にのこった日本酒をラッパ飲みで空にする。こんなもの、なんでもないとでもいうふうに。「なんで? 私は震災のない町で育てようと思ったから?」。そう噛みつくようにたずねつつ、なれない「震災」の言葉を噛んで、泣きそうになったのは私だった。私のほうが、よっぽど酔ってるのかもしれない。「わかってるじゃん」。けれど、そういった夏美の目も、ちゃんと、うろんだった。なにも言いようがなかった。だれよりも私が、そうでありえないことをわかっていた。いや、わかっていなかった。夏美が私を手放したことの意味。彼女は私に「復興」をたくしたのだ。つまり、生きていくということは……。酔いつぶれた私を、夏美がかかえ、寝室まで運んでくれた。とてもじょうずな抱き方だった。その匂いはちかくて、とおく、なつかしかった。ベッドに寝転がされ、うすい布団をかけられて、離れていくせつな、「どうして私を夏至子と名づけたの?」と、クーラーがぎこちなく動きだした部屋に、ぼんやりした声を投げかけた。目をつぶり、ぼんやりした意識のなか、デジャブみたく髪の毛に手櫛をとおすおそるおそるの感触があって、「夏至に産まれたからだよ。汗だくになるし、ほんと、うんざりするぐらい、暑い日だった。冬に産まれた妹が未来でしょ。だからあんたは、夏至にひょっこり産まれるんじゃなければ、夏の子って書いて、カコと名づけるつもりだった。妹には未来を切り拓かせる。そしてあんたは、ちゃんと過去にあったことを思える、やさしい子に育つように」と教えてもらったのか、教えてもらえなかったのか。夏美が「夏」の字とともに私に与えてくれたほんとうの願いがわかり、うすくらがりに手をのばしたが、引戸はわずかなスリット光をのこし、私たちをきりさいた。

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