第25話 きょうだい喧嘩
ふっと目をさますと、部屋はいっそう暗く、モノトーンのカーテンが仕切る窓枠にはゆでたてのミルクをこぼしたようなあわいひかりが滲んでいた。トンガリかネコメロが掛けてくれたのだろう、毛羽立った酸っぱい匂いがするタオルケットを羽織っていて、それでもサーバルームは冷房がガンガンに効いているため、二の腕に鳥肌があわだち、むきだしの足から寒気がたちのぼるように、ぶるっと体がふるえた。くちびるが油絵みたいにかさついている。いまは何時だろう。不意の尿意をこらえながら、寝起きのたよりない手つきでスマホをさがそうとすると、いきなり差し出され、顔をあげれば、そこにいた彼女に、ふかく座ったゲーミングチェアからすべりおちそうになった。見間違えるはずもない。妹の未来だ。彼女はSNSに自撮りをあげることはなかったし、ガンジーのパソコンに残っていた運動会のときの彼女の写真もずいぶんふるく、ひざこぞうを擦りむかせたままぼろぼろに泣いてたから顔つきがよくわからなかったが、私は彼女の顔をみて、未来だと確信した。この子と私ははんぶん血がつながってる。左右反転しないこわれた鏡を見ているようなきぶんだった。地味なデニム生地のツナギを着ていて、胸元にいろとりどりのパステルカラーをしたダブルクリップを挟んでいる以外、かざりっけがない。あちこちがくすんだ茶色に汚れ、はちみつみたいにあまい油のにおいもする。工業高校にかよっているらしいことを思い出した。化粧はしていないが、くちびるに艶があり、すきとおった肌は磁器でできたアンティークショップのお人形みたいにきめこまかい。「余計なことしないでくんない?」と第一声、おれそうなほどほそい腰に手をあてて未来はいった。女子にしてはひくい声で、背筋がぞくっとした。「……は?」あきらかにねぼけた声が、私ののどもとで、自分のものでないかのように、かすれた。「とぼけないでよ。あんた、おれの書いた天才的なコード、いじったでしょ」。未来は身をかがめ、線を引いたようなひとえまぶたをますます細めて私をにらんだ。襟元が開いたが、シャツのむこうに谷間の陰影はうかがえず、私とちがい、ずいぶん胸がこぶりなんだなと思った。ざっくり切ったショートカットの黒髪をかきあげると、かわいらしい耳たぶに陰陽のピアスがあらわれた。「あれはバグがあったから」ようやくそう声をしぼりだすと、いいおわるよりまえに、「なじょだらッ!」と奇声がきこえ、鼻っ柱に意識がうすれるような痛みがはしった。頭突きをくらったのだと遅れて気づいた。唾をのむとさびた血のあじがして、それが一瞬で沸騰したかのごとく、体じゅうの毛が燃えるようにさかだった。「なじょだらッ!」ととっさに声がもれて、とびかかった。戦い方を血がおぼえてた。マウントを取って、鉄槌をたたきつけようとすると、あっさりクロスカウンターを合わされ、体重がのっていない左手のショートフックだからたいしたダメージはなかったが、かたい拳が顎のさきにジャストミートしたので、三半規管がぐらぐらと、たたらを踏んだ。エビでエスケープした未来は、フラミンゴみたいなつまさき立ちで、可変ぎみの後ろ回し蹴りを放ってきた。ケーブルをぶちぶちと引っこ抜きながら飛んでくるゆがんだ半月の軌跡が私にははっきり見えた。デトロイトスタイルの片腕ガードをあげるとバックステップで距離を取り、足元のプラスドライバーを二本指ではさみ、ダーツの要領でなげつける。ピーカブーのかまえをつくった未来が頭をちいさくふってかわし、そうさせることが目的だから、にぶい音をならして壁に貼られた世界地図のノルウェーあたりにプラスドライバーがささるやいなや、私は姿勢をおとして距離をつめ、未来の棒みたいに凹凸のない腿をつかんでそのまま押し倒した。「あぶない!」と吠えるような悲鳴がきこえ、ふりかえると、棚のうえから一人暮らし用冷蔵庫ぐらい大きなサーバマシンが落下してくるのがスローモーションで見えた。めりめりと床がきしむものすごい音がして、やがてサーバが止まったのか、耳ざわりな回転音ののちなぜか冷房の音もやんで、気がとおくなるぐらいしずまりかえった部屋のなか、ゆっくりと目をひらけば、私におおいかぶさった未来の額から、われた太陽みたいにあかい血が頬まで線をひいていた。「なんで……」そうつぶやいて、わかってたから、そのぶん泣きそうになり、未来の血を指先でぬぐい、くちにふくむ。あやまるより、いのりたいぐらい、きれいな顔だった。私のうえにまたがったままの未来は、こぎざみになだらかな肩をふるわせて、息をきらし、ふわふわとしろい埃が姉妹の再会を祝福するいたずらな天使みたいにおどった。ぜんぜん、わらってた。やがてわかってるみたいに、未来のくちびるを、私はうけとめた。ぜんぜん、はんぶんだった。私に足りてなかったものを、この子はもってる。でも私だって、そうだよ。舌のぬめりとか、火傷しそうな熱とか、たてられた犬歯のいたみとか、たしかめながら、今日はなにをたべたのかな、なんて、どうでもいいことがいとおしく、どうでもいいことをもっとしりたかったけれど、やがて息苦しくなり、口と口がさびしい雨の日の蜘蛛の巣みたいな糸を名残惜しそうにひいたあと、てれくさくなって、ちいさな頭をだきかかえ、鼻のあたまを犬みたいにくっつけて、毛糸みたいにやらかい髪の毛がくしゃくしゃになるまで、かきみだした。
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