第22話 海のある町
アワダチソウとススキにおおわれた荒地のまんなかをつきぬけるポケットのクランキーチョコレートみたくひび割れたアスファルトにつまづきながら歩くと、正面にこだかい丘があって、水墨画に描いたようなクロマツが背を伸ばしていた。ずいぶん立派なものだなと見上げていたところ、「防災緑地だ」とトンガリがいう。あの津波ののち、防潮堤のたかさが見直され、さらに被害をおさえるための緑地がつくられたのだという。「地元の声もきかず、勝手に建てられたんだよね」とネコメロがいい、その泰然とした声色もそうだし、ふたりが被災地のことをちゃんと調べたんだとわかり、足元をすくわれる思いがした。私もガンジーに聞いたわずかな知識はあったが、それ以上に彼が貯めていた震災関係の資料を検めたりとかは何もしなくて、来るだけでいいと思っていた。来ればちゃんとぜんぶそこにあって、ちゃんとぜんぶわかると思っていた。なんにもないじゃないか。誰が言い出すわけでもなく、防災緑地のあいだを迷路みたくジグザグにとおりぬける勾配がゆるやかな階段を一歩ずつたしかめながら上がる。この緑地はとうぜん、震災後に植えられたはずだが、もともとそうであったかのように自然がひろがり、小鳥たちの世を謳歌するようなさえずりが聞こえる。そういうふうにぜんぶ、なかったことになるんだろう。でも、なかったことにしたいひとだっているんじゃないか。それこそお母さんは、だから私をガンジーとテレサにあずけたのだ。たいして歩いたわけでもないのに、胸がばくばくし、呼吸をととのえつつ、防災緑地のてっぺんから、ながめてみて、ふつうにうつくしいと思う、そのことが、いまの私のすべてだった。なぜかコンドームもないめちゃくちゃなセックスがしたくなった。汗のしみこんだ目をぬぐうと、息をのむぐらいまぶしい海があった。海のない町で育ったのだから、そんなはずがないのに、なつかしかった。砂浜は雲を踏むようにやわらかく、果てがないんじゃないかというぐらい広いから、波打ちぎわまで歩くのがたいへんで、トンガリとネコメロがぎとぎとの手をにぎり、たびたび足を取られころびそうになる私を支えてくれた。薄ピンクがクリーム色に上塗りされたスニーカーのそばをひらべったい蟹が横滑りしていく。真夏だった。物差しで引いたようにくっきりした水平線のむこうには、ちからいっぱいの入道雲がそびえていた。風はなく、すぐにでも汗ばんだ服を下着ごと脱ぎすてて泳ぎたくなるような蒸し暑さなのに、誰もいない、さびしい海で、子どものころに一度だけテレサがしぶしぶ付き合ってくれたような、おもってた海とちがう。数年して自称うそつき娘ことテレサの嘘に気づいたのだが、あれは湖だったとか、そういうことじゃなくて、この日常は、私の知るそれとちがうと思った。トンガリが人差し指をさらさらと遡上する波にしずめ、口にくわえた。ネコメロもそれに倣った。ふたり手をあわせる、まんなかで、私はぎょっとして、こわくって、だって人が死ぬそのことが、わからない、なんて思いたくない。そんなことのために、私はここを離れたんじゃない。わかるんだ。私は私を。そんなことのために、目をおそるおそるつぶり、祈った。神さまなんていない、この海に、この町に、私が生まれてきた理由が、うぶごえのように、置き去りにされている。背伸びしてテレサの蔵書を開けば、To be or not to beが読めず「とべとべもっととべ」と読んで想像に夢をふくらませていた子どものころから、この景色を予想していたんだろう。作りものみたいなあおを塗り込めた空をなまり色の飛行機が切れ味のいい鋏みたいに、音もたてずきりさいていった。
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