第21話 未来のいきる夜の森

 特急を地域の中心となるらしいおおきな駅で乗りかえ、鈍行列車で木々の隙間から海がうかがえるだけの路線を芋虫の行列みたいにゆったり進み、向かいあわせのボックスシートで付き合いたての中学生カップルぐらいこれといった会話もなく、十駅ほどで降りれば、車輪の音が遠のくなりドラキュラの棺桶みたいなスピーカー前で爆音を浴びたライブ後ほどしずかになった。震災後建てられたという駅舎は、いまだにきれい、というか、レゴの模型みたいに生活感がなく、私たち以外、人のすがたが見当たらない。島式のホームから鉄路をまたぐ歩道橋を越えて、東口から外にでると、ゴーカートのサーキットみたいなひろいロータリーがあるだけで、タクシーやバスはおろか、車は一台もなかった。あちこちに朽ちて蔦まみれになった建物があった。もともと、グーグルストリートビューで見ていた景色である。いまさら人影がまったくないことをゴーストタウンとたとえるほどおどろきもしない。ただ、答え合わせをしても納得できない難問を与えられたときのように、ふつふつと、わらいたくなるような、不思議な苛立ちが沸きおこってきた。静寂をしゃくりと切るようにシャッター音がひびき、見ると、トンガリがスマホを横むきに構えるむこう、円筒型でソーラーパネルのついた「未来」をテーマに子どもが絵を描けばこうなりそうなロボットみたいなものがおおげさな柵に囲まれている。ちょうど目にあたる部分にはデジタルの数字が小数点以下二桁まであかく血走ったみたいにあらわれていた。「シーベルトか」と、背後からネコメロが感情のこもらない声で言った。たしか放射線量の単位だったはずだ。物質の放射線量はベクレルだったか。あれから二十年以上たっても、まだモニタリングがつづいていることに、おどろき、無人の荒野にたつロボットは、人間がきえた世界でも稼働しつづけるオーパーツであるように感じられた。スマホは極上野菜どころか5Gではなかったけれど、アンテナはバイアグラぐらいびんびんに四本立っていた。地図アプリに、ガンジーが教えてくれた、未来の暮らす家の住所を入力し、そう遠くない場所をしめしたスマホをダウジングみたいにかざしながらゆっくり歩く。まっすぐな道の両端には、ブロッコリーを植えたようなかたちのいい木々がおいしげっていた。あ、これ、桜だ。三月のあの日、桜は咲いていたのだろうか。原発事故で立ち入りが禁止されても、桜は咲き続けていたのだろうか。来れば、見れば、ふれれば、もっとわかるものだと思っていた。よっぽど分からなくなる。いきていく理由とか、それとか、すきになる理由とか。ここで咲くのはエドヒガンザクラだと聞いていたのに、ソメイヨシノであることとか。うったえるような聞き覚えのない蝉の合唱が嫌いだった赤ん坊の泣き声に重なって、狂いそうなぐらいうるさかった。ふりきって、緑のトンネルを越えるころ、あたらしいアパートだとか会社のオフィスも、背のひくいものばかりだが、散見されるようになり、おおきな道路ぞいにはこぎれいなコンビニもある。果たしてこんなところにお客さんは来るのか、いぶかしんだけれど、自動ドアをくぐったときのメロディも、見た目とか売ってるものも、私が知るそれとぜんぜんおなじで、初めてさがしあてた復興であるように思い、カロリーが高いからテストが終わったときのご褒美にだけ食べるガトーレーズンを手にとれば、砂漠でオアシスにたどりついたみたいに胸をなでおろし、大丈夫であることを知るみたく、六桁の賞味期限を指さしで確認した。「暑い」とうったえて(ほんとうは、なんだか疲れてしまって)、ちょっと奮発し、電子マネーが使えるのかなれたはずのタッチに緊張しつつ、値のはる棒つきのチョコアイスを買った。店員さんは私の語彙では比喩できないぐらいふつうの女の子だった、というかこの町では、いまいち言葉が現実を捉えきれない。フルコートのバスケットボールができそうなぐらいひろい駐車場の、プリウスガードに腰をおろし、立ったままのトンガリと並び、逃げ水のうえを快走する車たちに目をやる。平日だからか、トラックだとか、ハイエースが多い。かつてこの土地の主要産業は原発だった。都市圏に潤沢な電力を送ることで、なにもなかったこの町の暮らしはうるおったという。いまをもっても、彼らの生活を支えているのは、原発で、すなわち廃炉関連の産業が、おおくの雇用を産んでいるということらしかった。しらべたかぎりでは、私はいまどきの自己責任論といおうか、性格のわるい子が戒められるときのいじめとおなじで自業自得だと思ったし、なおさら各地で原発がふつうに稼働し、それによって安定した電力を円安もあいまって原油価格が高止まりしたこのご時世でも安値で享受できている現状、かわいそうだと思うこともない。それは、工業高校で廃炉の研究をし、関連の仕事につくだろう未来にかかえている感情とも等しかった。同時に、くやしかった。私は私がだれより「かわいそう」でありたかったのかもしれない。ネコメロは、私にやさしく、いつも私をかわいがってくれたけれど、彼女がリストカットをはじめ、私に初めての彼氏(といっていいのか、二回り年上のおじさんで、お肉の関係だけだったかも)ができたこともあって、わずかに会話がバラみたいな棘を帯びはじめた中学生のころ、距離感をつかみかねた私が「そういうのやめたほうがいいんじゃない」と咎めたら、安全剃刀みたいににぶい声でこう言いはなったことがあった。「でも夏至子って、自分がいちばんかわいそうでありたい子じゃん?」。なんでそんなこと言うんだろうと思ったし、私からしたら、ネコメロのほうがよっぽど、そうだと思ったけれど、言えばよっぽどマウントだから、言えない。日もまたがないうちにネコメロはらしからぬ真摯な声色で謝ってくれたのだけれど、しろいDARSをはんぶんこしてもらったぐらいで、ああそんなふうに思ってたんだと感じた気持ちを取り消せるはずもなく、いまさらに、あの言葉の真意をたしかめたくなった。たとえば立ちんぼで春を売るときみたいに、街角の、私のことを知らないような誰かに、下着も履かないままスカートをたくしあげて訊いてみて、かわいそうですか、と、ちがうよと言われれば、そのとき自尊心がいたむことで、わかる気がする。旅のありもしない目的のことだ。アイスの抜け殻をトンガリがコンビニのゴミ箱に捨ててくれて、トイレに行かなくていいか確かめてもらったあと、どこに行っていたのかネコメロを待つと、わるびれない顔でコンビニの裏から帰ってきた彼女は、「歴史の年号覚えらんないだよね」とテスト前から止めていたはずの煙草の匂いをまとっていた。国道の押しボタン式信号は、このままずっと変わらないんじゃないかというぐらい、ながかった。トンガリいわく、津波があったとき、「ロッコク」と呼ばれるこの国道の盛り土が防波堤になり、浸水をまぬがれたという。つまり、ロッコクの向こうはかつて津波に襲われた町。未来が暮らしているところは、かつての被災地だ。

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