第20話 窓のむこうに一面の新海誠

 駅までガンジーが見送ってくれて、靴下持ったかだのPayPay入れたかだの毎日朝と夜にFaceTimeで顔見せろだの、さだまさしの「案山子」みたいな口うるささに堪えながら、ネコメロに「この子をお願いします」となんども頭をさげるわりにトンガリとはドンチッチのノールックパスぐらい目もあわさないし、新幹線に乗るなりあかんべえをして、しっしと追い払うように手をふった。テレサがガンジーを取りなしてくれたとおり、「行くことに意味がある」というか、お母さんと未来に会ったらすぐ帰るつもりで、コンビニに行くときエコバッグがわりで背負うようなちいさなリュックサックには、スマホの充電器と、勝負服でもなんでもない部屋着みたいな着替えを数枚、テレサの小説のなかでもとびきり頭がおかしい心中モノの一冊のほか、なにも入れていない。いるものがあれば、むこうで買えばいいし。断捨離が趣味で漫画を読み終えたらブックオフに行くトンガリもおなじ身軽さだったが、ネコメロのまあたらしい黄色地にチーズみたくくぼみができたトランクだけ大きかった。うちの町は観光客がぎゃくに来るようなところだから、新幹線で離れたことは中学の修学旅行で広島に行ったときぐらいしかなく(なお小学の行き先は奈良の大仏かひらパーにドナドナ連れていかれると相場が決まっている)、ネコメロとトンガリが来てくれるのもうれしいし、さいしょ、三列シートのまんなかに座ってキオスクで買ったじゃがりこLのチーズ味をわけあいながら、共通項であるガンジーとテレサをネタに、悪口まじりの会話は手を叩くぐらいはずむ。が、はやくも名古屋を越えたあたりから、乗客もふえ、いきなり飛ばしすぎたのかつかれてきて、後ろでマックブックを叩く七三メガネのやたら愛想がいいサラリーマンにことわってからシートをたおし、まどろんでいたら、ネコメロも塗りたてのネイルを光らせてスマホを握ったままうつらうつらと船を漕いでいた。眠いときの彼女は赤ちゃんみたいな甘えんぼで半開きの目すらかわいい。私より体温がたかい右手をぎゅっとにぎると、迷子の仔猫みたいに頭をすりよせてきた。昨夜、彼女はうちに泊まったので、あかい髪の毛からは、おなじシャンプーの匂いがした。トンガリは壁に身を寄せるようにすらっとした足を組んで窓枠にひじをのせ、小荷物用のネットにはさみこんだペットボトルのブラックコーヒーに汗をかかせたまま減らすこともなく、じっと窓のむこうを眺めていた。ジーンズがすりきれたひざに置いた手の甲に浮きでているあおい血管なんか、いろあせたドラえもんのトランクスぐらい見なれたはずなのに、不覚にもどきんとするようなつめたい眼差しだった。「富士山、見える?」とよれた半袖をつまんで尋ねると、彼はふっとわらい、「A席からは海しか見えないんだよ」と言った。まぶしそうな彼のヒゲを黒胡麻みたく剃りのこした笑顔ごしに、風力発電のゆるやかに空を切るプロペラだとか、たくましい入道雲を背負いきらきらとかがやく海がみえて、彼のすきな新海誠の世界みたいだった。岩井俊二をすきな私からすれば、新海誠は青くさすぎて牛みたいにゲップが出そうだったけど、彼が新海誠の新作を公開初日のMOVIXでみるたび「泣いた」と紋切りの感想ながらあつく語ってくれるのは、「童貞っぽい」と当てこすりもしたけれど、それこそリリイシュシュの蓮見みたいで、なんだか愛おしかった。「行くさきにも海があるんだよね」とたずねれば、手をくちもとに当て、ふさぐようにして黙りこみ、「あの海を見ることはないものだと思ってた」とかすれた声をしぼりだした。ずっと行きたかった、ということだった。成人するまで両親の故郷をしらなかったのだという。研究室の仲間うちで、ポケモンカードみたいに戸籍をたたかわせる遊びが流行ったおり(やはりいい家の子が多いので、さかのぼれば依田義賢のようなリザードン級の大物がいたりするらしい)、冗談はんぶんで区役所をたのんだところ、父方とも母方とも、たどれる戸籍はあの町でとぎれた。両親から聞いたいまはない高校の同級生だったというなれそめの話や、水族館に行きどうでもいい時間が苦痛じゃなかったから付き合おうと決めた初デートの話、ハワイをテーマにうたうスパリゾートでフラダンスに結婚を祝ってもらったのち新婚旅行がわりに数日を温泉街で過ごした話をおもいだせば、共働きでいそがしかったふたりが二十九歳のいわく「さずかりもので」子どもをもち、平成を駆け抜けたかれらの青春が、すべてあの町にひもづいていることを知った。けだし考えれば、彼は震災の年の産まれだった。小学校のころ、母子手帳を持ちよる授業があり、母にたずねたところ、「そんなものはない」とやさしい彼女らしくなくつっけんどんで、しばらく「実の子ではないのでは」となやんだし、「母子手帳はありませんでした」と学校で伝えたら教師にすら「鬼っ子って知ってるか」といじめられたという。戸籍におどろいたのち、通帳などがしまわれた棚のうえの段、鍵がかかった引き出しを伸ばしたゼムクリップでこじあければ、母子手帳は、しっかりグラシン紙に包まれていた。そして自分が震災から一ヶ月もしないうちあの町ののちに避難指示が出た病院で出生したことだとか、生まれるまで食べるものにも困るぐらい大変な苦労があったことが、日記のような体で仔細に記され、誕生日によわよわしい文字で書かれた「産まれてくれてありがとう」がとりわけ重かったという。このことは母にも父にも訊いていない。原発事故から逃げてきたのでは、という考えも、憶測にすぎない。ただ彼は、むかし好きだった研究室の先輩にこのことを話し、これが原因か分からないけれどブロックされたのかLINEにも既読がつかないぐらい疎遠になって以来、彼女に、というわけでなく、誰にともなく「ずっと謝りたかった」と言った。そんなことを言えてしまうこの男の凡庸さが、チェーン店の居酒屋ごときの注文になれておらず、タブレットを使うことなくたびたびうらがえった声で店員さんを呼びとめて、カシスオレンジばかり頼み金髪のギャルの店員さんに「お兄さん、カシオレ好きなんですね」と茶化された初対面からとてもすきだったことを思い出した。と、どうじに、この男とほんとうはしてないんじゃないかと思うぐらい、とおく、彼の見つめるそれと、自分の見ているそれは、はなれている。肌をあわせたところで、わからないことはあって、もっとふかいところまで入ってほしい。反対側の窓をぬすみみれば、快晴で、絵に描いたような富士山がそびえていた。

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