第19話 ガンジーでも助走をつけてグーで殴るレベル
「お前に娘は渡さん」と言わんばかりのガンジーの怒りっぷりだった。夕食の席にネコメロやトンガリが参加するのはめずらしくないのだが、ふたり同時というのはこれまでなく、いささかお値打ち品の刺身にのびる箸もわさびを取り落とすほどかたい宴席、呑めないお酒をいつもより多くあおったなぜか上座のガンジーが、トンガリにロング缶のビールを注がれつつ「娘さんといっしょに、お母さんに会いに行きたいと思うんです」と切り出されるやいなや、「いかん!」と卓袱台、いや、ダイニングテーブルをひっくり返しかねないぐらいの勢いの、ドッカンである。「私も一緒に行くので、大丈夫ですよ」と苦笑いのネコメロが助け船を出しても、馬にヒップホップがなんとやら、けっこうガンジーお気に入りのネコメロなのに、ぜんぜん耳に入っていない。というか事実、ズビッと音が鳴るぐらいトンガリにふるえる指で刺し箸しながら「お前に娘は渡さん!」と口に出して言った。いよいよ文脈がわからない。トンガリも、誤解がとけるまで黙ってればいいのに、学歴ゆえか妙に勝ち気なところがあるもんだから、「でも、血がつながってないんですよね」とか声を鼻にかけたへらへら顔で言っちゃう。火にガソリンでもレギュラーじゃなくハイオク。ガンジーはガンジーで子どもみたいにそっぽを向き「いや、つながってます」と、NHKに「テレビありません」と言うときよりカタコトの、なんでわかりやすい嘘をつくのか。じゃあ私とネコメロがふたりで行くならいいのかといえば、それはそれで「危ないから保護者が」と腕を組みむずかしい顔の八方塞がり。ははーん、自分が行きたいんだな。でも彼の盆休みはせいぜい三日、役職がついて、昔みたいな有休をくみあわせてのチョ・マテヨ風ロングバケーションも取りにくくなったって知ってる。あまり揉めるとこいつ、そろそろ、仕事を辞めるって言い出すんじゃないか、うちの家計はテレサのわずかな障害年金をのぞけばガンジー頼みで、そろそろ転職も足元をみられるアラフォーだし、ハラハラする一方、初めてみるガンジーの怒りっぷりが動画に収めてTikTokにアップしたいぐらいおもしろく、ふくらはぎに爪をぶっさし笑いを堪えてたところ、「あはははははははは」と壊れた扇風機みたくまっさきに笑い出したのがテレサだから、駄目だった。感情がたかぶるとあらわれる鼻毛をモップみたくぼうぼうに飛び出させたガンジーを囲み、みんなそろって、テーブルを叩きならし椅子ごとひっくり返るような大爆笑だった。ガンジーは手元のビールをぐいと飲み干すと、弾かれたみたいに立ち上がり冷蔵庫の角で足の小指をしたたか打ちながら扉のむこうに消え、さすがアリぐらいのゴキブリでも「キャー」と声をからし内股でとびあがるだけで殺せない弱者男性、とうとう尻尾をまいてとなりの夜はアベックがおおい公園あたりに逃げるかと思ったら、しばらくすると一転、トイレで吐いたのか背中をまるめ落ち着いた足取りで帰ってきて、見覚えのないアルバムの埃をこわばった手でそっと払い、私のまえにゆっくり広げた。ぷんとなんだかお習字の割烹着を着てた先生みたいななつかしい匂いがする。そこには、泥棒が入ったみたいに散らかった家の主とは思えないぐらい、きちんと写真が整理されていた。私みたいな子が赤ん坊を抱いてる。というか色褪せ方と併記された日付を見るかぎり、これはお母さんか。つまり抱かれてる子のほうが私だ。そのとなりには、よく似た笑顔をほころばせた、おないどしぐらいの目鼻立ちがお人形さんみたいにくっきりした美人の子がいて、彼女も赤ん坊を抱いていた。お猿さんみたいなまっかな顔は、ぜんぜん面影がないし、そもそもいまの顔をろくに見たこともないのに、未来だ、と分かった。未来が産まれたときの写真で、このとき私は生後十ヶ月ぐらいだという。父親はおなじだが、母親はちがう、ということは、知ってはいたけれど、いざ突き付けられると、しらずのうち太もものあいだにつよく挟み込んで汗ばんだ指がむずむずする。いわく、子どもがふたり産まれたとき、「ひとりは震災に関わらせる。もうひとりは震災など知らない場所で育てる」と決めたのだという。聞いたとたん、ティファールで沸いたみたいに意味不明な熱湯がまぶたからあふれそうになったけど、それよりはやく、トンガリがおおきく音をたてて椅子から崩れおちるとていねいに膝をつき、ハンマーで釘を打つみたいに頭を床に叩きつけた。そっちは泣くというより、あるいは今日いちばん、おどろいた。どうしてこのひとは私のためにここまでしてくれるんだろう。好きだし、尊敬してもいたけれど、浮気こそしなかったものの、別れたら秒で次にいけるぐらい優秀なレボルバーよろしく代わりはなんぼでもいて、ピロートークで精子がオバQみたくたまったコンドームの口を結びつつ「誰でもいいんでしょ」とわらって話せるぐらい、ましてや一部上場企業の内定でポーカーができるぐらい将来有望なんだから、彼のほうがよっぽど学生らしい腰かけのつもりだったはずだ。トンガリの両親は、原発事故のおり、被災地から逃げてきたのだと、額にあかく床の跡をつけたまま、声をふるわせながらはじめて教えてくれた。私の出自を打ち明けた夜、私の痛いとこをふれる彼の指先がいつもよりやさしかったことを思い出す。私は愛されていたのかもしれない。それで十分かも知れないけれど、私だって、誰かを愛してもいいだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます